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第一章②

 凛が写真を見つめて、ほう、と声にならない感嘆の息を漏らした瞬間、事務所の扉が乱雑に開けられた。


「おい松本。楽屋のシャワーとっとと直せって言ってんだろ」


 現れたのは、見目麗しい長身の――天音礼央その人だった。


「申し訳ありません、明日、業者が入る予定ですので」

「今日から舞台稽古なのに、なんで直しておかねえの」

「申し訳ございません」

「大体、なんで座長部屋のシャワーだけ壊れるんだよ。一番使うところだろ」


 今にも掴みかかってきそうな剣幕で乗り込んできたトップスター様に、凛はそっと目線を外した。声だけ聞いていれば、ちょっとガラの悪い役を演じているときの颯太くんに、聞こえなくもない。

 聞こえなくはないけれど……ここは劇場事務所で舞台上ではないのだ。残念ながら。

 露骨に顔を逸らしたのが仇となったのか、礼央は凛の存在に気づいたらしい。じっと見下ろしたかと思うと、


「お孫ちゃんじゃねえか。なんでこんなところにいるんだよ」


 口元に意地悪そうな笑みを浮かべたかと思うと、凛の顔を覗き込んできた。


「ひっ」


 声をあげて思わず仰け反る。


 性格は横暴。粗野で自分勝手な俺様だが、顔だけはとにかく凛の――いや、前世の時からどストライクなのだ。


 初めて見た瞬間心を奪われたが、礼央が口を開いた途端に夢は砕け散った。


 一瞬でも、海音颯太の生まれ変わりでは? と思い描いた自分を殴りたい、と凛は本気で思った。彼はいつでも穏やかで真面目、先輩役者を立て、後輩役者の見本となる人格者なのだ。いや本当の颯太のことは知らないけれど、インタビューなんかを読む限り、まわりの役者はみんな海音颯太を褒め称えていたから、決して間違っていないに違いない。


 それに比べて天音礼央は、実力は申し分ないのに、とてもまわりの役者やスタッフから好かれているとは思えない帝王だった。その事実を知った瞬間、凛は決意していた。


 いつか、見た目も自分のどタイプで性格もいい――まさに颯太くんみたいな男優を見つけ出して、ぜっったいその人をトップに据えるのだ、と心に決めたのだ。


 だからこの男はそれまでの繋ぎ――、いわば凛が支配人になるまでの、仮初のトップスターだ。


「ご無沙汰しております。本日より見習いで忍さんの下に付くことになりました」


 それでも、これからしばらくは礼央がトップスターであることは変わらない。星屑歌劇団内でそう決まり、劇場支配人である祖父が了承したからには、覆ることはない。

 つまりこれから先、凛は礼央の顔色を窺いながら仕事をすることになるのだった。


「あっそ。じいさんの力でなんとかなんねえの」


 なおシャワーの不満を言い募る礼央に、曖昧な笑みを返す。

 これでも祖父が無理を言って業者のスケジュールを前倒しさせたのだ。屋敷の書斎で頼みの電話をかけていたのを、凛はこっそり聞いていた。これ以上早く修理の予定を早めるのは難しいだろう。


 そもそも、共用のシャワー室があるのだから、そちらを使えばいいのではないか。本番中も使えないのであれば言語道断だが、今日は舞台稽古初日。まだ衣装もメイクもつけない稽古着でのリハーサルなのに、そこまでシャワーにこだわることもないだろう。


 ――どんだけ狭い了見なんだ。


 と、思うものの、そんなことは口に出せるはずもなく。

 忍にならって「申し訳ありません」と頭を下げた。


 理不尽な要求に、心の中で中指を立てながら謝ることも、前世で慣れすぎて大して抵抗がない。しかし言い返さずに謝る凛が予想外だったのか、隣の忍は小さく感嘆の息を漏らしていた。


 当たり前でしょ。こちとら何年生きてると思ってんのよ。前世と合わせたらもう四十四歳だっての。


 忍にすら毒づきながら直角に頭を下げていたその時、


「礼央、あんまり無理言って松本さんを困らせないの。明日には直るって言ってるんだからいいじゃん」


 そう言いながらやってきたのは、明るい茶髪に大きな瞳が特徴的な男優、黒曜愁こくようしゅうだ。アイドルと言っても通用しそうな整ったビジュアルの持ち主で、女形もこなす。礼央のトップスター就任後は二番手となり、恋人役や相棒役としてキャスティングされることが決まっている。

 誰に対しても人当たりが良く、後輩たちからも良き相談相手として慕われる存在だ。


 どう考えても、愁さんの性格の方が颯太くんに近いんだよなあ、と凛はその姿を見ながら内心こっそりため息を吐く。


 でも残念ながら、見た目のタイプはどうしても礼央の方なのだ。礼央の外見で、中身が愁だったら完璧なのに。


 そんな落胆には気づかず、愁はそっと肩に触れると、凛の身体を起こしてくれた。


「凛ちゃんもそんなに謝らなくていいから。礼央が一日我慢すればいい話なんだし」「ですが……」

「なんで俺が我慢しないといけねえんだよ」


 儀礼上あげた声は、暴君に一刀両断された。


「俺の楽屋のシャワー使ったらいいじゃん。今日使わないで寮に帰るし」

「は? 信じらんねえ」


 はたから聞いていても有難い愁の提案に、礼央はまた眉間に皺を寄せている。


「気持ち悪くねえ? 照明当たって暑いし」

「んー。俺、そんなに汗かかないんだよね。今回はアクションも少ないし。そもそも寮に帰ってからお風呂入るし」


 愁は普段からあまり汗をかかないことで有名だ。今回のお披露目公演では、中にパニエを仕込んだ分厚いドレスを着る予定だから、さすがに演技中は暑いだろうけれど、今日は衣装を着ない予定だから、特に汗をかく心配がないのだろう。


「ていうかさ、そんなに共用シャワーが嫌なら、さっさと寮に帰ればいいじゃん」


 寮までは車で五分ほどだ。若い劇団員は徒歩で行き来するが、一定クラスの役者になれば、車で送り迎えされる。劇場の楽屋口にも、寮の玄関前にも、いわゆる追っかけと呼ばれる過激なファンが入り待ち・出待ちに勤しんでいるから、トラブルを避けるための決まりだった。

 その子たちの前に出るのにシャワーを浴びないのが嫌なのだろうか、と凛が想像していると、


「劇場出る前に浴びるって決めてんの。そうしないと役が落ちた気がしねえ」


 礼央の口にしたまるで願掛けだか迷信のような言葉に、凛は一瞬どきりと胸が鳴るのを感じた。同じようなことを、颯太がよくインタビューで答えていたからだ。


「役を落とさないと、神経が昂って眠れないことがある」と。


 そういう意味では、シャワーを浴びるという行為も、礼央のスイッチをオフにするという作業なのかもしれない。



 とりあえず今日は愁の楽屋のシャワーを使うということで、話はついた。いや決して礼央は納得はしていなかったのだが、舞台稽古開始の時間が迫ってきたので、愁が無理やり話をまとめてくれたのだ。


「礼央、稽古前に春と雨が合わせたいって言ってたよ。もう楽屋で待ってると思うんだけど」

「はあ?」


 春と雨、は愁の下、つまり三番手と四番手の役者だ。それに昴という五人が、劇団の看板役者として、今後チラシやポスターに顔写真が載るメンバーだった。


 その三人はこれまで大きな役を演じておらず、礼央のトップスター就任とともに抜擢された有望な若手株だ。


「なんで俺があいつらに付き合わないといけねえんだよ」

「いや自分じゃん、四人で踊るところのタイミングが気になるって言い始めたの」

「それなら、あいつらが合わせればいいだけだろ」

「それじゃ効率悪いってわかってるでしょ。ほらさくっと一回確認しておこうよ」


 露骨に面倒そうな態度を取りながらも、「仕方ねえな……」と言って、こちらには見向きもせずに入り口へと足を向ける。


「お騒がせしてごめんね」と言いながら礼央をぐいぐいと押して出ていく愁に、慌てて頭を下げる。

 助かった。

 それでも明日、礼央が楽屋入りする前にシャワーが直っていなければ、今日の倍以上の罵詈雑言が降ってくることは想像に難くない。


「お嬢様、とりいそぎ業者に確認の連絡を入れてもらえますか。絶対に、確実に明日の朝イチで直してもらうように」

「かしこまりました」


 凛は電話帳を捲る。最初の仕事は、こんな雑用だった。


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