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第四章⑧

 凛はほっと安堵の息を吐き、気配を消してホワイエへと戻った。

 わずかだが緊張が解けて、息を吐く。凛の姿に気づいて、忍が受付から駆け寄ってきた。


「大丈夫でしたか」

「はい。礼央さん、さすがでした」

「こんな無茶をして、風紀上の問題だと言って止められたらどうしたんですか!?」


 強い剣幕で詰め寄られ、凛は思わず視線を逸らした。

 芝居の前に、客席の緊張感を解したい、という礼央の申し出に賛同したけれど、確かに途中で東雲が飛び込んできて止められてもおかしくなかった。


「すみません……もう必死で……」


 凛が項垂れると、忍はため息を吐く。


「今のところ成功していますからいいですが……。一体これからどうすれば……」


 確かに、忍の言うとおりだった。木崎雪は屋敷に匿っているものの、大臣権限で立ち入られたら、さすがに守り抜くことは難しい。

 公演も今のところ上演できているが、「初日を見て風紀上問題があるから上演中止と判断する」と言われてしまったら、どうすることもできない。


 問題は山積みだった。


「とにかく私たちに出来ることを一度整理して、それから……」


 頭を抱えている二人のもとに、「支配人!?」と驚く係員の声が聞こえてきて、凛と忍は顔を見合わせる。次の瞬間、二人揃って入り口へと駆け出していた。



 そこには見慣れた黒塗りのハイヤーが横付けされていた。そして看護師だろうか、白い制服を着た女性に付き添われ、車から降りようとしている藤吉の姿があった。


「お祖父ちゃん!」


 凛が慌てて駆け寄り、藤吉の腕を支える。


「おお、凛。すまないな。どうだ状況は」


 倒れる前より一回り小さくなったように見えるが、矍鑠とした喋り方は、凛のよく知る藤吉のままだった。


「お目覚めになられたのですか」


 後を追ってきた忍も、驚いて藤吉を見つめている。


「ああ、さっきな。凛、お前家にかけた電話を途中で切ったじゃろ。使用人長が、凛に儂が目覚めたことを伝えられなかった、と焦っておったぞ」

「そういえば……」


 木崎雪を匿ってほしいと頼んだとき、電話口の向こうで何かを伝えたがっていたのは、藤吉のことだったのか。

 焦っていて全く聞く余裕がなかった。というか、開演直前なんだからゆとりが無いに決まっているだろう。もっと早くに連絡してくれればよかったのに! といったん他人のせいにしておく。


「なんとか初日に間に合わせたかったんだが、そうもいかなくてな」

「大丈夫なの?」


 目が覚めたからといって、無理をして病院を抜け出てきたのではあるまいな、と不審がる凛に、藤吉は笑みを返した。


「なに、遅くなったのは別件での。ほれ」


 そう言って、藤吉は今しがた自分が降りてきたばかりのハイヤーを示した。

 奥からもう一人、看護師に付き添われて降りてきたのは――


「領主様!?」


 凛の驚きに満ちた、素っ頓狂な声が響いた。


 白いシンプルなロングドレスに身を包んでいるのは、病気で公務を離れていると言われていた領主その人だった。

 骨ばった指や頬のこけた様子に加え、どこか青白い顔色から、決して本調子ではないことが察せられた。歳の頃は五十手前だろうか、しかし立ったときの姿勢の良さや、向けられる微笑にただならぬ気品を感じて、凛は思わずその場に膝をついた。


「やめてちょうだい。藤吉さんのお孫さん……凛さんでしたっけ? 領主の尾上遥おのうえはるかと申します」 

「はい。存じております。お身体は大丈夫でしょうか……?」


 心配で咄嗟に口をついた言葉だったが、遥は意外だったのか、わずかに目を見開いてから微笑んだ。


「大丈夫よ、ありがとう、心配してくれて。藤吉さんと同じ病院に入院していたの。それで藤吉さんの目が覚めたときに、ちょうど病室の前を通りかかって……。すぐに退院するっていうじゃない。しかも直接劇場に行くって聞いたから、無理を言って連れてきてもらったの」

「左様でしたか……」


 いったいなぜ、領主が藤吉について来ようと思ったのかわからなかったけれど、凛は再び頭を下げる。忍が背後で係員を呼び、観劇のために貴賓室の準備をするよう指示を出しているのが聞こえてきた。

 貴賓室というのは、客席の後方にある特別室のことで、客席とはガラスで仕切られている小部屋だ。寛ぐためのソファなどが置かれており、やんごとなき方がいらしたときに、ゆったりと観劇してもらうための部屋だった。

 近寄ってきた忍がこっそりと「領主様は大の観劇好きなのです」と教えてくれる。

 え? と声が漏れそうになって、凛は慌てて口元を押さえた。



「凛、状況は」


 藤吉の言葉に、凛はすかさず起きたことを説明した。

 すると大きな息を吐いて「やれやれ」と溢したのは、遥の方だった。


「東雲……。私が入院している間に、本当に好き放題やっていたのね」


 どうやら領主の意志だと説明していた増税なども含め、すべて東雲の独断だったらしい。柔和だった遥の顔がだんだんと怒りで満ちていく様子に、凛は思わず仰け反った。

 遥の瞳に宿る強い光は、藤吉と共通するものを感じる。むしろ、領地を治める長として、藤吉以上の強さを感じさせた。


「あの男……。これまで多めに見てきたつもりだったけど、もう許せないわ」


 そう言って胸元から一枚の紙を取り出した遥は、首を傾げる凛に開いて見せた。

 そこには、確かに『罷免状』と書かれていた。どうやら東雲がこれまでに勝手に行った施策や振る舞いなどを並べてあるらしい。

 細かい文字で何行にも渡るそれは、とてもすぐに読める文量ではなかったけれど、『税』という文字が何度も登場していることだけは見て取れた。


 あまりの文字の細かさに凛が目を瞬かせていると、


「勝手に増税して、私腹を肥やしていたの。なかなか尻尾を掴ませなかったけれど、私が入院して、気が大きくなったんでしょうね。今回はさすがに逃げられないわよ」


 遥はそう言い切って、ホワイエの奥を睨みつけた。

 まるで遥が予期していたかのように、騒ぎを聞きつけたのかタイミングよく東雲本人が姿を現した。

 遥の姿を認めて一瞬怯んだものの、警備隊の半数近くを従えた東雲は、そのまま不遜な態度で歩み寄ってくる。

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