礼央の提案は、衝撃的で好戦的な、大博打だった。
だが成功させる自信がある、とはっきり言い切る礼央の姿は、まさに頼れる座長だった。
急ぎ楽屋に戻って準備を進める礼央にかわり、凛は方々への根回しのため、劇場中を駆け回った。
舞台袖にいる役者たちには、愁がまとめて説明してくれている。
まず舞台の進行を仕切る舞台監督に、非常事態の説明をし、その打開案を伝える。若干驚いた顔をされたけれど、百戦錬磨の舞台監督は「任せとけ」と請け負ってくれた。
それから客席後方のブースにいる音響スタッフと、なお強張った顔で準備をしている照明の木崎の元へ赴く。二人には新たな段取りを伝え、あとは舞台監督の指示に従ってもらうように頼んだ。木崎は相変わらず無言で頷くだけだったけれど、音響スタッフは「オッケー。任せて!」と明るく返事をしてくれて、だいぶ救われた。
そして、客席で本番をチェックしようとしていた演出家にも、一応断りを入れておく。
さらにホワイエに行き、忍に事情を伝えた。今にも反対しそうな忍に静止される前に、案内係のチーフにも駆け寄って、事情を説明する。さらにどうしても協力してほしい、と客席に入るスタッフに、グッズコーナーから持ち出した数本のペンライトを託した。
そうこうしている間に、五分前のブザーが鳴り響く。ホワイエに残っていた客は、警備隊の目を気にしながらも客席内に吸い込まれていく。
客席への扉が閉められる直前、
「私、冒頭だけ本番見てきます」
凛は忍にそう断り、残っていたペンライトを掴んで場内に入った。
今日も満員御礼だ。
いつもだったら期待と興奮で熱気が高まっているはずの客席内に、奇妙な静寂が満ちている。やはり舞台前に立つ警備隊の存在感が大きすぎる。
公演が始まって客席が暗くなったらそこまで目立たないと信じたいけれど、劇場はそもそも夢を与える空間なのだ。
それなのに、現実に引き戻すような存在が紛れ込んでしまうのは、やはり許せなかった。なんとか引きずり出せないだろうか、とギリギリまで凛は考え続けた。
そして、藤吉だったら、どう対応したのだろう、と凛は思いを巡らせる。
辞めるという木崎を止めずに、他のスタッフを手配した? 開演時間を遅らせれば、それもできたかもしれない。
客席内には入れず、ホワイエだけの監視で納得させた? いったいどうすれば、そう話を持っていけたのだろう。
いろいろ考えてみるけれど、凛には正解がわからなかった。
だが、ただひとつ。絶対に今日の公演を中止にしなかっただろう、ということだけは、確信があった。
その選択肢だけは、凛にも最初から存在しなかった。
ショーマストゴーオン。幕が上がったら、何があっても最後まで続けなくてはならない。――颯太がいつも唱えていた言葉だ。今も指標となっているこの言葉を、凛は颯太から教えられた。
だが、東雲たち警備隊がどんな行動に出るか、予想もつかない。
途中で上演を止めるような真似はさすがにしないと信じたいけれど、もしかしたら、突然舞台に上がって「上演を中止しろ」と叫び出すかもしれない。
そんな強行な態度を取られたら、さすがに観客も黙っていないだろう。いったん止まってしまった舞台は、もう巻き戻すことができないのだ。
そんなこと絶対にさせない、と凛は固く誓って、客席最後列の壁際に立って正面をじっと見据えた。
もし警備隊が舞台を妨害しようものなら、体を張って止める覚悟だった。
照明ブースから、木崎が怯えた顔で振り向いて凛を見た。黙って頷いてみせる。
時刻が十四時ちょうどになった。木崎の手が照明のフェーダーを緩やかに下ろしていくと同時に客席の明かりが落ちていき、やがて場内が暗闇に包まれる。
「本日は、ご来場いただき誠にありがとうございます」という前口上の音声が流れ始めた。聞く者を包み込むようなあたたかさ。愁の声だ。
上演中の注意事項などをひと通り説明したあと、「本日は初日公演にご来場いただきまして、誠にありがとうございます。本日のみ、特別に前座として一曲お送りいたします」と生のナレーションが入り、客席内にどよめきと歓声が沸き起こった。
よし、と握った手に力を込める。極度の緊張感を孕んだ空気が今にも弾けそうになった瞬間、いつの間に緞帳が上がっていたのか、ステージ上が明滅し、爆音で曲のイントロが流れ始めた。
光と音の洪水の中、舞台袖から飛び出してきたのは、礼央だ。
流れるイントロは、レヴューショーで披露する予定だったソロ曲だ。燕尾服を模した紫色の衣装が、礼央の長い手足をいっそう栄えさせている。
背後のセットはこれから行われる芝居のものなのに、礼央の存在があまりに強く、違和感を感じさせない。
イントロが終わり、礼央が歌い始めた。ロック調の、ダンサブルなナンバーだ。ただダンサーはいない。舞台上でたった一人。
けれどそう感じさせないほどパワフルな歌声は、あっという間に客席を呑み込んだ。自然と手拍子が巻き起こって、客席内が一体となっていく。
凛は手にしていた紫のペンライトを掲げた。客席で場内を見守るために散っていた案内の係員たちも、仕込ませておいたペンライトを振っている。
それに気づいてか、客席のあちこちで、買ったばかりのペンライトを開封し、掲げる観客が増えていく。
やがて客席に紫の明かりが目立ち始めた。それはまるで、暗闇の中に咲く大量の菫の花のように見えた。
その光景を目にして、舞台上の礼央が笑みを深める。
その妖艶な表情に、客席からはまた悲鳴が沸き起こった。礼央の手が、まるでペンライトの明かりひとつひとつを煽るように指差し、それに合わせてまた光が増えていく。
客席内で揺れる紫を見つめながら、自分もペンライトを振っていると、舞台上の礼央が後方を指差した。まるで真っ直ぐに自分に向けられたかのような指に、驚きのあまり手が止まった。
今まで何度も繰り返した、舞台上からの目線が自分に向けられているという、幸福な勘違い。
なのに、なぜか胸がどくどくと鳴るのを止められず、凛は動揺する。
それを打ち消すようにペンライトをかざすと、舞台上の礼央がいっそう笑みを深めたような気がした。
曲が終盤に差し掛かり、礼央のハイトーンが響き渡る。悲鳴のような歓声が飛び交う客席には、先ほどの緊迫した空気ではなく、確かな熱気が満ちている。
やがて曲が終わり、舞台が暗転する。同時に、割れるような拍手が巻き起こった。ヒューヒューと囃し立てるような口笛まで吹かれている。真っ暗な空間に、紫の光が大量に浮かんでいた。
「それでは、引き続きお芝居をお楽しみください」
愁の穏やかなナレーションが聞こえてきて、客席の集中力がぐっと舞台に寄せられたのが伝わってきた。
やがて観客がひとり、またひとりとペンライトのスイッチを切り、再び本当の暗闇がやってきた。しん、と静まり返った客席に満ちるのは、先ほどまでとは違う心地よい緊張感だった。
数秒の空白ののち、木崎の手によって舞台上に明かりが灯った。
そこには、先ほどと同じ、異国のセットが佇んでいる。ただ礼央がいないだけで、セットの存在感が増したように感じられた。
西洋の町人に扮した劇団員がひそひそと噂話をしながら行き交う合間。舞台の後方から、ゆっくりと雨が歩いてくる。やがて台詞が始まった。
観客はみな、警備隊のことを忘れて舞台に集中しているように見えた。