初日公演が開演する定刻の十四時まで、あと十分。
薄暗い舞台袖にはすでに衣装を着てメイクも整えた役者たちが、小道具を手に今か今かと開演を待ってスタンバイをしている。
「おい」
楽屋に向かおうとしていた凛は、まさに探していた低い声に呼び止められて、足を止めた。
ひしめく役者たちの中でも頭ひとつ抜けた礼央が、凛を手招きしている。
「どういうことか説明しろ。客席の様子がおかしい」
幕の降りた舞台裏にいても、いつもと違う、ひりついた観客の空気は感じるらしい。
「何かあった?」
そう言って、礼央の横に寄り添うように並ぶのは愁だ。女形としてスタンバイをしている愁は、鮮やかな色のドレスに身を包んでいる。完璧に施された化粧も相まって、今までに見たどんな女性より美しい。けれどその顔は、心配で陰っていた。二人は、見えるはずのない緞帳の向こうを、険しい顔で窺っている。
探していたとはいえ、開演直前の役者に、どこまで起きている事態を伝えるべきかどうか、凛は迷っていた。
そんな凛の葛藤を見越したのか、礼央は人気のない大道具の物陰に凛を誘った。愁も黙ってついてくる。
「隠しても無駄だぞ」
先手を打つように礼央がそう凄んできて、愁が苦笑いを浮かべている。
「他の劇団員には黙っておくから、俺たちには教えてくれるかな? 大丈夫。何があってもパフォーマンスには影響しないよ」
俺たちはね、とくすりと笑う愁に、凛は覚悟を決めた。
「実は、東雲大臣が警備隊を引き連れてやってきまして……」
凛がホワイエと客席で起きたことを説明すると、二人の顔がいっそう険しくなっていく。
「なるほどな。あいつは星屑を潰すつもりだってことだ」
「こら。凛ちゃんはそこまで過激なことは言ってないでしょ。まあ、大臣の行動はそうとしか思えないけど。でも確かにそれだけ警備隊が劇場をうろついていたら、確かにお客さんも萎縮してしまうね」
客席のおかしな空気の理由に納得がいった、と愁はため息を吐く。
「どれだけ偉い人であっても、初日の心地よい緊張感を邪魔されるのは、納得いかないな」
今日披露するために、一ヶ月稽古を続けてきたのだ。初日の幕が開く瞬間は、役者やスタッフにとって、いつでも特別なものだ。
それに、今回はどんな公演なのだろう。あらすじは、歌は、衣装は、舞台美術は――様々な視点で
珍しい愁の好戦的な発言に、凛が思わず言葉を失っていると、礼央が無言で頷いた。
「当たり前だ。こんな愚行、許せるわけがない」
「でもどうしたら……」
この独特の緊張感のなか、芝居の幕を開けるしかない。開けないという選択肢はない。
だが冒頭のシーンには礼央も愁も登場しない。町人に扮した劇団員たちがそぞろ歩くなか、最初に台詞を発するのは、雨の演じる役だ。彼に背負わせるには、あまりに負担が大きすぎないだろうか。
「俺に考えがある。お前、今から走れるか」
礼央はそう言って、口元に微笑を浮かべた。そのあまりの美しさに、凛は思わず息を呑む。
それは、恋焦がれてやまない颯太が、メイキング映像で見せる本番直前の表情と、まさに同じだった。