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第四章⑥

 初日公演が開演する定刻の十四時まで、あと十分。


 薄暗い舞台袖にはすでに衣装を着てメイクも整えた役者たちが、小道具を手に今か今かと開演を待ってスタンバイをしている。


「おい」


 楽屋に向かおうとしていた凛は、まさに探していた低い声に呼び止められて、足を止めた。

 ひしめく役者たちの中でも頭ひとつ抜けた礼央が、凛を手招きしている。



「どういうことか説明しろ。客席の様子がおかしい」


 幕の降りた舞台裏にいても、いつもと違う、ひりついた観客の空気は感じるらしい。


「何かあった?」


 そう言って、礼央の横に寄り添うように並ぶのは愁だ。女形としてスタンバイをしている愁は、鮮やかな色のドレスに身を包んでいる。完璧に施された化粧も相まって、今までに見たどんな女性より美しい。けれどその顔は、心配で陰っていた。二人は、見えるはずのない緞帳の向こうを、険しい顔で窺っている。


 探していたとはいえ、開演直前の役者に、どこまで起きている事態を伝えるべきかどうか、凛は迷っていた。

 そんな凛の葛藤を見越したのか、礼央は人気のない大道具の物陰に凛を誘った。愁も黙ってついてくる。


「隠しても無駄だぞ」


 先手を打つように礼央がそう凄んできて、愁が苦笑いを浮かべている。


「他の劇団員には黙っておくから、俺たちには教えてくれるかな? 大丈夫。何があってもパフォーマンスには影響しないよ」


 俺たちはね、とくすりと笑う愁に、凛は覚悟を決めた。



「実は、東雲大臣が警備隊を引き連れてやってきまして……」


 凛がホワイエと客席で起きたことを説明すると、二人の顔がいっそう険しくなっていく。


「なるほどな。あいつは星屑を潰すつもりだってことだ」

「こら。凛ちゃんはそこまで過激なことは言ってないでしょ。まあ、大臣の行動はそうとしか思えないけど。でも確かにそれだけ警備隊が劇場をうろついていたら、確かにお客さんも萎縮してしまうね」


 客席のおかしな空気の理由に納得がいった、と愁はため息を吐く。


「どれだけ偉い人であっても、初日の心地よい緊張感を邪魔されるのは、納得いかないな」


 今日披露するために、一ヶ月稽古を続けてきたのだ。初日の幕が開く瞬間は、役者やスタッフにとって、いつでも特別なものだ。

 それに、今回はどんな公演なのだろう。あらすじは、歌は、衣装は、舞台美術は――様々な視点でを楽しみに、今日のチケットを取った観客の興奮に水を刺されて、面白いわけがない。


 珍しい愁の好戦的な発言に、凛が思わず言葉を失っていると、礼央が無言で頷いた。


「当たり前だ。こんな愚行、許せるわけがない」

「でもどうしたら……」


 この独特の緊張感のなか、芝居の幕を開けるしかない。開けないという選択肢はない。

 だが冒頭のシーンには礼央も愁も登場しない。町人に扮した劇団員たちがそぞろ歩くなか、最初に台詞を発するのは、雨の演じる役だ。彼に背負わせるには、あまりに負担が大きすぎないだろうか。


「俺に考えがある。お前、今から走れるか」


 礼央はそう言って、口元に微笑を浮かべた。そのあまりの美しさに、凛は思わず息を呑む。

 それは、恋焦がれてやまない颯太が、メイキング映像で見せる本番直前の表情と、まさに同じだった。

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