「まさか……」
呆然と呟いた凛の背後で「東雲さま!」と独特のイントネーションが響いた。
照明ブースからホワイエに飛び出してきたのか、息を切らせて木崎が立っている。
「これはこれは木崎さん。おかげさまで仕事がスムーズに進みましたよ」
「そんな。劇場にはいらっしゃらないって言わはったやないですか」
「そうでしたでしょうか。しかし、風紀を著しく乱す恐れのある公演だと教えてくださったのは、あなたですよね?」
東雲の口から発せられる言葉と、それに応対する木崎の言葉が、凛の予想を真実に塗り替えていって、頭の中が真白になっていく。
「僕は……。ただ昔のようにレヴューをやるから派手な公演になるって言っただけで。大臣に出てきてもらうほどのことじゃないんですよって」
木崎は弱弱しく首を振る。その様子を見ながら、凛の頭の中ではまるで警報が鳴るようにガンガンと異音が鳴り響いていた。
「まさか、木崎さんがリークしたの……?」
新聞に掲載されていた情報を思い出す。レヴューをやることも曲の中身も、曲順も、照明操作の木崎であれば全て把握していることだ。
「お嬢様……。その、僕が伝えたのは大臣だけです。有益な情報を教えたら、妻を解放してくれる、と言われて……」
妻、解放。
わけのわからない言葉に、凛の頭はいっそう混乱した。
「妻って……雪さんのこと?」
凛の問いに、木崎は頷いた。
「雪は、東雲大臣の命を受けて鷹司家に潜り込んでいたんです。実の兄を人質に取られていて。鷹司家の弱点を見つけたら、その兄を助けてやると言われていて」
「人質なんて、人聞きの悪い言い方はやめてくださいよ」
ねっとりした声で東雲が割り込んでくる。その慇懃な態度に凛は身体を撫で回されているような不快感を覚えた。
「雪さんのお兄さんは、難病で臥せっているんです。その薬を、私が提供する、と申し出ただけですよ」
もちろんただで、とはいきませんけどね、と東雲は続けた。
政治を担う大臣の態度とは思えないその言葉に、凛の腹の奥から怒りが湧き上がってくる。
「でも雪は鷹司家に勤めて、本当にお屋敷で働きたいと思ったみたいで。薬はもういらない。だからスパイもどきの役目も辞めたいと言ったんですが……」
「優秀な方でしたからね。『はい、わかりました』と手を引けるわけがないでしょう。辞めたいなら、それだけの情報を渡せと言っただけですよ」
「優秀だから、なんて嘘です。自分が手引きしていたことがバレるのを恐れて、妻は脅されたんです。それで、大臣に支配人が倒れたことを伝えてしまって……」
「なるほど……」
凛は納得せざるを得なかった。
確かに、雇い主の情報を得るためには、使用人として潜り込むのが手っ取り早い。
藤吉の身の回りの世話をするような使用人は長年勤めてきたものだけに限っているが、清掃や警備などの目的で雇っている者の素性まで詳しく調べていなかった。
雪はよく働いてくれていた記憶がある。掃除も丁寧だし、愛想も良かった。
調べたところで、東雲によって差し向けられた人間だとは気づけなかっただろう。
「しかし大臣、ここまで
木崎がホワイエを見回して、眉を顰めた。あちこちに点在する警備隊のおかげで、館内は殺伐とした空気に満ちている。
劇場にやってきた高揚感はすっかり鳴りを潜めてしまって、観客たちはみな、不安そうに東雲と向き合う凛を一瞥しては、目を逸らしてそそくさと客席へと向かっていた。このままでは、不安に感じて帰ろうとする客も出てくるかもしれない。
「風紀維持のため、このまま監視させてもらいますよ」
出て行ってくれ、と言う前に先手を打たれた。
凛が唇を噛み締めていると、隣にいた木崎が勢いよく頭を下げた。
「お嬢様、申し訳ありません。私のせいで……」
その場で土下座しそうな勢いの木崎に慌てて駆け寄る。
「事情があったことはわかりましたから……」
とにかく頭を上げてくれ、とこれ以上ホワイエの空気を悪くしないためにもそう伝えたが、のろのろと頭を上げた木崎は未だ項垂れている。
「申し訳ありません、申し訳ありませんです、お嬢様……」
何度も繰り返す木崎の肩に手をかける。けれど木崎は力無く首を振るばかりだ。押したら簡単に倒れてしまいそうなほど、木崎の全身から力が抜けている。
その様子に違和感を覚えたときだった。
「でもこうしないと、妻が……雪が……」
どういうことですか、と問い返す前に、木崎は凛の手に小さな鍵を握らせた。
「照明の操作盤の鍵です。劇場の備品ですから、お返しします」
「え……」
「申し訳ありません……。ただいまをもって、辞めさせてください」
そう言い残したかと思うと、木崎は正面入り口に向かってホワイエを駆けていく。
「ちょっと! 待って!」
凛は慌ててその後を追った。
開演まであと三十分ほど。照明操作のスタッフがいなかったら、開演できない。
他のスタッフに代わってもらうにしても、こんな直前ではさすがに無理だ。
「待ってください、木崎さん!」
背後で、高らかに笑う東雲の声が聞こえてきたが、凛は完全に無視した。
受付前を駆けていく木崎と凛を見た忍が、何事かと顔を顰めている。
しかし説明している間もなく、凛は木崎を追って大通りへ飛び出した。
往来を行く人々が、何事かとひそひそと言葉を交わしているけれど、構っている暇はない。
辺りを見回して、二軒先のデパートの前で、膝に手を当て大きく息をつく木崎の姿を見つけた。速度を緩めず駆け寄って、背後からその腕を掴む。
「木崎さん! なんで辞めるなんて……!」
今にも泣き出しそうな瞳をした木崎が振り返って、凛を見つめた。その悲壮な表情に凛は言葉を失う。
「そうしないと……。妻が」
「どうしたんですか」
「辞めないと、妻の身は保証しないと言われて……」
全身の血が沸騰した感覚に襲われた。東雲は、最初から公演を中止させるつもりだったのだ。それを、わざわざ確認しにやってきたのだとわかって、言葉にならない怒りが全身を駆け巡った。
人を脅して、なんて卑怯な奴。絶対に屈してやるもんか。
凛は咄嗟に、近くに設置された公衆電話に飛びついた。震える手でダイヤルを回す。
雪は、今朝凛が家を出る時にはいつも通り働いていたはずだ。挨拶程度の会話しか交わさなかったことが悔やまれる。普段と違う表情をしていたら、何か異変に気づけたかもしれないのに。
今更詮無いことだと言い聞かせているうちに、交換手が出たので、鷹司家に繋ぎ使用人長を呼び出してもらった。
「はい」と電話がつながった瞬間、
「使用人の木崎雪さんを、絶対に家から出さないで。今日は泊まり込んでもらって。誰かが訪ねてきても、相手をさせないように」と言い含める。
使用人長は凛の切羽詰まった声に何かを察したのか、神妙な声で相槌を打った。
『お嬢様、こちらからもご報告が……』
「ごめん、今手が離せないから後でかける」
そう言って受話器を置く。電話口の向こうで何かを喋っていたけれど、聞いているゆとりはなかった。
とぼとぼを後を追ってきた木崎は、厳しい顔つきで指示を出す凛の様子を窺っていたが、電話が終わるなり、駆け寄ってきた。
「お嬢様、そんなことをしたら、鷹司家にもご迷惑がかかります。危険すぎます、やめてください……!」
「何言ってるの。雪さんを放っておけないでしょう。だいたいこんな脅しをかけておくような人が約束を守ると思う? 木崎さんが辞めたからって、本当に雪さんが解放されるかわからないでしょう。ずっと、東雲大臣に脅されながら生きていくの?」
「ですが……」
「それに木崎さん。私、あなたに言いたいことがある」
凛は、木崎を真っ直ぐに見つめた。半ば睨むように見据えたから、木崎がごくりと唾を飲んだ。
「私、あなたが今辞めるなんて認めない。もちろん、事情があってちゃんと引き継ぎをして辞めるなら反対しません。でもこんな……、本番の直前に投げ出さないで。木崎さんがいなかったら、公演は中止にせざるを得ないのよ。チケットを買って楽しみにしてきたお客さんたちはどうなるの?」
凛が強い口調で言い切ると、木崎の目が逸らされる。
「僕は……」
「もちろん、木崎さんにそんな決断をさせた人が一番悪いに決まってる。だから私は絶対東雲大臣を許さない」
「ですが……。逆らったら鷹司家も、劇団も何をされるか……」
「それなら、観衆の前で自分のやったことを言わせましょう。それで判断してもらえばいい。そんな大臣、誰も許さないと思うけど」
「そんな上手くいくわけないですよって」
食い下がる木崎に、とにかく戻りましょう。開演させなければ、と凛は背を押して、劇場へと歩み出した。
ホワイエは相変わらず殺伐とした空気が流れている。凛に先導されて戻ってきた木崎を見て、東雲の眉がぴくりと動いた。
凛は黙って、その横を通り過ぎる。
「これはこれは。お戻りですか照明さん」
目を合わさず通り過ぎようとした瞬間、東雲が発した言葉に木崎の足が止まった。
「劇団の従業員になにか申し伝えることがありましたら、私どもを通していただけますか?」
木崎の前に立った凛は、東雲にそう告げる。東雲の唇が怪しげに歪められて、凛は震えそうになる足に力を込めた。
「彼の妻、木崎雪は政府の監視対象者です。自動的に、彼も監視する必要がありますので」
「でしたら劇場の客席でどうぞ。彼は本番中、客席の後方で業務にあたりますので」
そう言って凛は客席を指差した。舌打ちをした東雲の合図で、警備隊がぞろぞろと客席内に入っていく。ステージの左右手前と客席後方の四方に散って立つ彼らに、席についた観客がざわめいている。
舞台には緞帳と呼ばれる分厚い幕が降りていて、舞台裏の様子を隠しているが、真紅の緞帳の前に、黒い制服姿の男たちが立つと異様に目立ってしまう。
先ほどまでホワイエと比べれば少し柔らかだった客席内まで、ひりついた空気が満ちていった。
木崎が無事に照明ブースで準備を始めたのを見届けて、凛は舞台裏に走った。
なんとか無事に、初日公演を開演させなければならない。