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第四章④

 いよいよ公演初日の朝を迎えた。

 まさに今日という日に相応しい、雲ひとつない快晴だ。心なしか、空気もいつもより澄んでいるように感じられる。



 結局、藤吉は目覚めていなかった。

 それだけが気がかりではあったが、昨晩かすかに反応があったことで、凛の気持ちはわずかに晴れたような気がしていた。

 診察に訪れた医師も「あと少しですね」と言っていたのが、後押しになっている。


 役者たちは舞台でウォーミングアップと最終確認を終え、それぞれ楽屋で準備をしている。凛はグッズコーナーの最終確認をし、忍と一緒に受付に立った。


「開場します」


 と係員の声を合図に、正面入り口の大扉が開く。

 今か今かと開場を待ちわびていた客が、雪崩のように押し入ってきた。

 一枚ずつチケットをもぎられた客の多くは、我れ先にとグッズコーナーへ向かっていた。今回の新商品は何か、と楽しみにしている声が聞こえてきて、凛はほっとした。

 販売係は、ペンライトの仕組みを説明しながら客を呼び込んでいる。

 レヴューで使用するなら、開演前に買っておかないと間に合わない。なんとか一本でも多く、一人でも多くに売って欲しいと、客席内まで練り歩いて販売してもらっていた。

 レヴューで曲に合わせてペンライトを振る楽しさを、できるだけ多くの人に味わってほしかった。

 そしてそんな観客が多ければ多いほど、舞台に立つ五人にも、素晴らしい景色を見せることができるのだ。


 受付にやってくる客ににこやかな笑みを送りつつも、背後のグッズコーナーの様子が気になって仕方ない。列は伸びているようだから、全く売れていないというわけではないだろうけれど……と思った、その時だった。


 大扉のすぐ外で空砲が響き、長閑な午後を切り裂くように短い悲鳴が上がった。


 恐怖に満ちた声を上げながら、着飾った観客が次々と入り口へ飛び込んでくる。みな、一様に背後を気にしながら、怯えていた。


「お嬢様はこちらに」


 咄嗟に飛び出そうとした手を掴まれ、入れ替わるように忍が外へ駆け出していく。


 焦って転んだ婦人を助け起こすため、受付から出て膝をついていると、頭上に影が差した。

 はっと見上げた先には、ものものしい制服に身を包んだ警備隊の男が数人、凛を取り囲むように立っていた。

 大通りの向こう側にも、同じ制服を着た男たちがずらりと立ち並んでいるのが見える。軍隊のように一糸乱れぬ隊列を組んでいる彼らを合わせれば、全部で二十人ほどだろうか。

 その先頭に、いつぞやと同じく、ひときわ派手な制服に身を包んだ東雲大臣が立っているのがわかった。


 婦人が身体を起こすのと同時に立ち上がった凛は、東雲の視界に自分が収まったのを感じた。忍が慌てて駆け戻ってくる。


「東雲さま。いかがいたしましたか」


 声を張り上げて通りの向こうにそう訊ねると、口元に薄ら笑いを浮かべた東雲が、警備隊を引き連れて凛の目の前までゆったりと歩み寄ってきた。

 そのものものしい雰囲気に、通りかかる客は不安そうに様子を伺いながら受付を通り過ぎて行く。


 大扉の目の前を警備隊に占拠されて、これではまるで営業妨害ではないか、と訴えたくなる気持ちを、凛はなんとか抑えた。

 警備隊は皆、腰にサーベルのような剣を差したうえに、胸ポケットには拳銃を忍ばせていた。いつでも発砲できるという威嚇なのか、手を胸元に差し入れている者もいる。

 なんとか人ひとりが通れるスペースに観客を誘導していると、やってきた東雲が口を開いた。


「お祖父様のお加減はいかがですかな」

「おかげさまで、落ちついております」


 にっこりと笑みを浮かべて答えると、東雲の顔がわずかに引き攣った。


「ずいぶんと仰々しいですが、今日はいかがされましたか?」

「いえ支配人がご不在と聞きましたのでね。その間に劇場が狙われる恐れがあるかと思いまして、見回りを強化しております。警備費もお支払いいただいておりますし」


 鷹揚に告げる東雲に、凛は「左様でしたか」と悠然と微笑んで見せた。


「お気遣い痛み入ります。けれどお客様が萎縮してしまいますので、分散してお守りいただくことは可能ですか?」

「もちろん。いいですとも」


 東雲が片手を挙げると同時に素早く隊列が解け、警備隊員たちは二人、ないし三人組に分かれて散った。

 と言っても、大扉を囲うように、左右前後に散っただけだ。

 隊列ではなくなったものの、腕を後ろに組んだ屈強な男たちが、まるで値踏みするように通りかかる客を睨みつけていて、劇場を包むものものしさは変わらない。

 これではまるで監視されているのと同じだ。一体どうしたものかと凛が考えていると、

「また風紀を乱す可能性が高いと通報がありましたので、これより中を改めさせていただきます」

 静止する間もなく、東雲を先頭にした残りの警備隊が大扉を抜けていく。

「ちょっと!」

 思わずその腕に手をかけてしまいそうになったが、なんとか思いとどまった。

 手を出したら最後、こちらに非がある、と決めて、責め立ててくるに決まっている。

 唇を噛み締めて、ずんずんと無遠慮にホワイエに立ち入っていく警備隊の後を追う。


「忍さん、ここはお願いします」

「お嬢様!」


 忍の制止を無視して、凛は東雲を追いかけた。

 東雲はグッズコーナーや喫茶室で寛ぐ客を見て「ほお」とわざとらしい感嘆の声を上げた。


「ずいぶんと盛況ですなあ。こちらの税はどうなっておりましたでしょうかねえ」


 その嫌味ったらしい発言に、凛は顔を顰めた。

「風紀を乱すものを取り締まる」というのは口実で、実際はさらに金を毟ろうとしているのかもしれない。


 藤吉がいない今こそ、高い税を課すための言質を取りに来ているとも考えられた。下手なことは喋れない。

 しかし突如ホワイエに現れたものものしい集団に、観客はみな不安そうな表情を浮かべていた。


 警備隊は予め決められていたように、ホワイエの四隅に陣取って、それぞれ銃を構えた。その動きに、あちこちで短い悲鳴が上がる。


「申し訳ありませんが、税については確認しますので、しばしお待ちいただければ……」

「そうですか。わかりました」


 あっさりと頷いた東雲に、拍子抜けする。どういうことだ、と訝しんでいると、


「ところで……。こちらに木崎さんという方が働いてらっしゃいますよね」

「え……?」


 予想外の名前に、凛はぽかんと東雲を見上げた。


「木崎ご夫妻のおかげで、我々はこの風紀の乱れた由々しき事態を把握することができたのですよ」

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