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第十四湯 護衛騎士ヴァン・ダイノン(前編)

 利き手がふさがった状態で、ユーナは岩場を大胆に登っていく。


 そして、あと数十センチで頂上に着くという時。足をかけた場所に、湿った苔が生えていた。ユーナは、苔でツルっと足を滑らせる。


「きゃあっ!」


 危うく落ちそうなところを、ユーナは辛うじて左腕だけで岩にしがみついた。魚をこれ以上抱えていては、自分も魚も下に落ちてしまう。


「ごめん、私が手伝えるのはここまでみたい。あとは自分の力で、飛んで……!」


 ユーナは滝の上に向かって、精いっぱい押し出すように魚を投げ上げた。魚は滝口付近で体をうねらせ、二度、三度と跳ね上がると、ついに滝の上へ姿を消した。


「やった! 魚さん、ついにやったね!」


 ユーナは両手で岩をつかんで体勢を立て直しながら、滝を登り切った魚に、心から祝福の声を贈るのだった。


 滝登りミッション完遂を見届け、謎の自己満足を噛みしめたユーナは、前世で五月は菖蒲湯しょうぶゆの季節だったことを思い出した。


 彼女は、「こいのぼり」の歌を鼻歌で歌いながら服を着て剣士姿に戻ると、また男口調でヴァン・ダイノンに言った。


「ヴァン、君も水浴びしてこいよ。髪と体をしっかり洗うんだぜ」


「いや、私はいいですよ……」


 逃げ腰のヴァン・ダイノンを、ユーナは容赦しなかった。


「君、ずいぶん臭いぜ。特に、脇の下がな。水浴びしないなら、もう馬車に乗せねえぞ。男爵領までは、走ってついてくるんだな」


 生まれてはじめて女性から体臭問題を火の玉ストレートで指摘され、ヴァン・ダイノンはショックを受けて地面に膝をつく。


「そ、そんなに私、臭かったですか……?」


 魂を抜かれたようにフラフラと立ち上がったヴァン・ダイノンは、ユーナから石鹸とタオルを受け取り、川へと向かった。


「うぉーっ!」


 絶叫して気合を入れながら、ヴァン・ダイノンはゴシゴシと全身を洗った。


 そして、伸び放題の長髪も、束ねた紐をバサリとほどき、徹底的に汚れを洗い流すのだった。


 そのころ、ユート王子が差し向けた親衛隊兵士たちは、黒装束に身を包んで追跡を続け、ついに街道脇に停車するユーナたちの馬車を発見した。中では、御者のライアンが居眠りをしている。


「おい、こっちだ。足跡がある!」


 兵士たちはユーナとヴァン・ダイノンを追い、草むらの中へと踏み込んでいった。


 しばらく歩くと草むらの中に、一人の剣士が周囲を見張りしながら立っているのが見えた。


「あれが護衛騎士か? なかなかの闘気だな」


「かなりの使い手と見た。正面からやり合うのは避けよう」


「令嬢は、川のほうだろう。行くぞ」


 兵士たちは身を隠しながら、川岸へ近づく。すると、川の中に腰まで入って、濡れた長い髪をタオルで拭く、なまめかしい後ろ姿が見えてきた。


「目標発見!」


 十人の兵士たちは小声で確認し合い、散開しながら水際へ進出した。そして、不意を突くように一斉に立ち上がって、剣を抜く。


「ユーナ・ユトリノ男爵令嬢とお見受けする!」


「何だぁ?」


 兵士たちの声に反応して振り返ったのは、長髪の男、ヴァン・ダイノンだった。


「げげっ、男!」


 兵士たちは一瞬、対応に困ってうろたえた。だが、よく考えたら、令嬢を傷つけるなとは指示されたが、護衛については特に何も言われていない。そして相手は今、丸腰である。


「よし、構わん、始末しろ!」


 兵士たちは剣を構えたまま川の中に入り、ヴァン・ダイノンを包囲した。

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