利き手がふさがった状態で、ユーナは岩場を大胆に登っていく。
そして、あと数十センチで頂上に着くという時。足をかけた場所に、湿った苔が生えていた。ユーナは、苔でツルっと足を滑らせる。
「きゃあっ!」
危うく落ちそうなところを、ユーナは辛うじて左腕だけで岩にしがみついた。魚をこれ以上抱えていては、自分も魚も下に落ちてしまう。
「ごめん、私が手伝えるのはここまでみたい。あとは自分の力で、飛んで……!」
ユーナは滝の上に向かって、精いっぱい押し出すように魚を投げ上げた。魚は滝口付近で体をうねらせ、二度、三度と跳ね上がると、ついに滝の上へ姿を消した。
「やった! 魚さん、ついにやったね!」
ユーナは両手で岩をつかんで体勢を立て直しながら、滝を登り切った魚に、心から祝福の声を贈るのだった。
滝登りミッション完遂を見届け、謎の自己満足を噛みしめたユーナは、前世で五月は
彼女は、「こいのぼり」の歌を鼻歌で歌いながら服を着て剣士姿に戻ると、また男口調でヴァン・ダイノンに言った。
「ヴァン、君も水浴びしてこいよ。髪と体をしっかり洗うんだぜ」
「いや、私はいいですよ……」
逃げ腰のヴァン・ダイノンを、ユーナは容赦しなかった。
「君、ずいぶん臭いぜ。特に、脇の下がな。水浴びしないなら、もう馬車に乗せねえぞ。男爵領までは、走ってついてくるんだな」
生まれてはじめて女性から体臭問題を火の玉ストレートで指摘され、ヴァン・ダイノンはショックを受けて地面に膝をつく。
「そ、そんなに私、臭かったですか……?」
魂を抜かれたようにフラフラと立ち上がったヴァン・ダイノンは、ユーナから石鹸とタオルを受け取り、川へと向かった。
「うぉーっ!」
絶叫して気合を入れながら、ヴァン・ダイノンはゴシゴシと全身を洗った。
そして、伸び放題の長髪も、束ねた紐をバサリとほどき、徹底的に汚れを洗い流すのだった。
そのころ、ユート王子が差し向けた親衛隊兵士たちは、黒装束に身を包んで追跡を続け、ついに街道脇に停車するユーナたちの馬車を発見した。中では、御者のライアンが居眠りをしている。
「おい、こっちだ。足跡がある!」
兵士たちはユーナとヴァン・ダイノンを追い、草むらの中へと踏み込んでいった。
しばらく歩くと草むらの中に、一人の剣士が周囲を見張りしながら立っているのが見えた。
「あれが護衛騎士か? なかなかの闘気だな」
「かなりの使い手と見た。正面からやり合うのは避けよう」
「令嬢は、川のほうだろう。行くぞ」
兵士たちは身を隠しながら、川岸へ近づく。すると、川の中に腰まで入って、濡れた長い髪をタオルで拭く、なまめかしい後ろ姿が見えてきた。
「目標発見!」
十人の兵士たちは小声で確認し合い、散開しながら水際へ進出した。そして、不意を突くように一斉に立ち上がって、剣を抜く。
「ユーナ・ユトリノ男爵令嬢とお見受けする!」
「何だぁ?」
兵士たちの声に反応して振り返ったのは、長髪の男、ヴァン・ダイノンだった。
「げげっ、男!」
兵士たちは一瞬、対応に困ってうろたえた。だが、よく考えたら、令嬢を傷つけるなとは指示されたが、護衛については特に何も言われていない。そして相手は今、丸腰である。
「よし、構わん、始末しろ!」
兵士たちは剣を構えたまま川の中に入り、ヴァン・ダイノンを包囲した。