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XIII. お肉は胃袋 お酒は何処

 あ。

 心の中で声にならない声を上げる。


 呑んじゃった。

 呑んじゃったよ。

 私の唾液。


 ただ茫然と眺めていたが、直後に激しい恐怖が全身を襲う。怒らせればほぼ確実に暴力沙汰で済ませる彼女のことだ。私がコップの中に戻したと知れば、今度こそ血祭に上げられる。


 既に事故は起きてしまった。


 最早どこにも逃げ場などなく、対処の仕様もない中、私はリベラさんが次に取る行動に全神経を尖らせた。


「…………薄ぃ」


 手をわなわなと震わせながら、口からゆっくりコップを離す。絶対に、確実に、怒りの形相を浮かべているのだろうが、確認するのがあまりにも恐ろしく、視線を向けることが出来ない。


「おいパッセル!」


 店が振動したかと思うほどの咆哮ほうこう。呼ばれた張本人は巣穴を追われた兎のように、私達が座るテーブルに駆けてきた。


「ど、どうかしました?」


 声だけでなく体ごと細かく振動するパッセルさん。


「薄めたろ」


 相手をあおるようにコップを軽く振る。


「いやいやいや薄めてません、薄めてませんってば!」


「ハッ、笑える洒落も言えるじゃねえか」


「冗談じゃないですよぉ……」


 目じりには既に涙が溜まっている。あと一押しでもしてしまえば、ドッと流れ出してしまいそうだった。


「どうしましたか!」


 奥から野太い男性の声が響く。地鳴りのような足音と共に表れたのは、声の主に相応しい巨漢だった。人生の岐路に入っているのか、短く刈られた茶色い髪は広範囲に白みがかっており、顔には深く刻まれたシワがある。


 そんな大男の手には剣と見まごうほどの大きな包丁が握られていた。急いでこちらに来たのだろうが荒い呼吸と合わせれば、人を殺して逃げてきたようにしか見えない。


「誰かと思えばリベラさんじゃないですか。パッセルが何か粗相そそうを?」


 ギラギラとした大きくて黒い瞳。到底ひととは思えないほどの眼力は、今回で無いにせよ確実に何人か殺してる。


「薄めやがった」


「やってませんんん!」


「じゃあテメェか? アンセル」


 人を殺してそうな大男を目の前にしても一切物怖ものおじせずに、ましてや食って掛かるリベラさん。


 早朝の不良の件といい、本当に彼女は怖いモノなしだ。


「ここは最高の牛肉を提供する店です。食事に準じる飲み物の質をむざむざ下げることがありましょうか」


「現になってんだよ」


「もう一度お確かめ下さい。保証します。私の命を賭けて」


 アンセルさんの鬼気迫る説得に押されたのか、リベラさんはしばらく沈黙したのち怪訝な表情を浮かべつつも、コップに再び唇を乗せた。


 最初は浅く。

 次に深く。


 コップを傾けワインを飲んだ。


「…………薄くねぇ。いつもの味だ」


 まるで独り言のようにポツリと呟く。その一言にこの場の全員が胸を撫でおろした。


「コルダ、お前やったか?」


 首が千切れんばかりに左右に振る。リベラさんは一連の動きを見届けると、今度は自分の額に手をかざし、首をかしげていた。


「すまねぇ。ォレが悪かった」


 リベラさんはうやうやしく二人に謝罪をする。その後はガタリと椅子を揺らしながら立ち上がった。


「おい! お前らよく聞け! お前らの代金はォレが持つ!」


 力強く宣言すると店内は歓喜にどよめく。けじめを受け入れられたことを確認したリベラさんは安心した様子で席に着いた。


「実に貴方らしい責任の取り方だ。これでお客様も満足して頂けるでしょう」


「ああ」


 リベラさんは当然だと言わんばかりに、堂々と応じる。


「しかし店側としては足りません」


「なっ……!」


 今にも飛び掛かりそうになる彼女を、アンセルさんは包丁の持たない手で制止する。


「『薄めたワインを出す店』などという嘘がひとたび広まれば、お客様の信用は無くなり店を続けることが困難になります。ですから貴方には、その補填をして頂きたいのです」


「(そのための口封じをしたじゃねぇか)」


「噂を封殺することは出来ません」


 アンセルさんは宴会のように盛り上がる客席を静観している。続いてリベラさんも客の一人一人の顔を確認するかのように店内をじっくり見回す。


 皆して顔が赤らんでおり、誰一人として正しく椅子に座れていない。これではお腹に溜まった物のみならず、心に湧いた良からぬことも気にせず吐いてしまうだろう。


 一通りの分析が済むとリベラさんはドカリと背もたれに体を預け、力ない表情を浮かべる。


「……今日の代金は全部持つ」


 溜息を過分に混ぜた声だった。


 対して店内は鉄を割るほどの歓喜が起こった。


「これで継続できます」


 宴会の様子を確認したアンセルさんは、ニコリとリベラさんに微笑む。


 何ということだろう。あのリベラさんと対等に渡り合い、尚且なおかつ要望までも通してしまった。


 この人ただものじゃない。


 格の違いに圧倒されていると今度は私の方に顔を向けてきた。怒っていないと知りつつも眼力の鋭さに圧倒されてしまい、ただただ委縮してしまう。


「おいしさは保証しますよ。それこそ私の命を賭けて」

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