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捨てられた婚約者が微笑むとき~
捨てられた婚約者が微笑むとき~
ゆる
異世界ファンタジー内政・領地経営
2025年05月12日
公開日
7万字
完結済
婚約破棄によってすべてを失った侯爵令嬢シルフィは、自分の未来を取り戻すため社交界に再び立ち上がる。陰謀渦巻く舞踏会の夜、彼女はかつての裏切りと向き合いながら、新たな絆を築き、“真実の愛”を探し求める。自らの力で道を切り拓くシルフィの物語が、いま幕を開ける――。

第1話



 侯爵家の令嬢であるシルフィは、かつて誰よりも純粋な瞳をもって夢を語る少女だった。その夢とは、公爵家の嫡男ラングレーの婚約者として、やがては王国の支えとなる立派な夫人になること。幼少期に両家の大人たちが結んだ縁談ではあったが、シルフィ自身はまったく嫌がることなく、むしろ期待に胸を膨らませていた。公爵家に嫁ぐのならば、自分はもっと強く、そして誰にも恥じることのない淑女にならなくてはならない。その思いが彼女の成長の糧になり、努力は実を結んでいく——はずだった。


 実際、シルフィは日常的に礼儀作法や宮廷での舞踏、さらに音楽や文学といった多岐にわたる教養を学び、どれもそつなくこなせるようになっていた。真面目で勤勉な性格は家庭教師や侍女たちからも高く評価され、彼女自身も「ラングレー様のためならば」と、懸命に自分を磨き上げることに喜びを見出していたのだ。また、侯爵家としても、公爵家との縁組が盤石なものであるに越したことはなく、シルフィの存在は家の誇りと言えるほどだった。


 こうした環境の中で成長したシルフィには、ラングレーへの思慕が自然と芽生えていた。ラングレーは年齢が近いこともあり、社交界の催しで顔を合わせる機会はそこそこあったが、彼自身は端整な顔立ちと落ち着いた物腰を兼ね備え、年若いながらも王国の貴族社会で注目を集める存在だった。シルフィはそんなラングレーの姿に憧れ、彼の理想の相手になりたいと思い続けてきたのである。


 しかし、その努力が報われると信じて疑わなかったシルフィに、あまりにも突然の裏切りが襲いかかった。ある日の夜会でのこと——。穏やかな夜風が城館を包み、貴族たちが華やかな衣装をまとって優雅に舞踏を楽しむ中、シルフィはラングレーに呼び止められた。これから将来のことを二人でゆっくり語り合うのだろうか。そんな期待に胸を弾ませて彼に近づいた彼女が耳にしたのは、信じがたい宣告であった。


「シルフィ……。すまないが、我々の婚約はここで白紙に戻していただきたい」


 たった一言だった。そっけない、とすら感じるほどに淡白で冷たい声音。シルフィは自分の耳を疑った。何かの冗談にしては、ラングレーの表情があまりにも厳かだったからだ。周囲は音楽と人々の笑い声に満ちているのに、彼の言葉を聞いた瞬間、シルフィの内側からは一瞬にして色が消え失せた。


「……え?」


 うまく声が出ず、呆然とするシルフィに、ラングレーはさらに追い打ちをかけるように続ける。


「新しい婚約者としてふさわしい方が見つかった。王国の新星と言われている伯爵令嬢エリーザだ。彼女は大変優秀で、家格も申し分ない。シルフィ、お前よりも社交界や政治の場で役立つ存在だと思う。だから、悪いがこれ以上の関係を続けるわけにはいかない」


 その言葉は、たしかに淡々とした口調で述べられはしたが、シルフィにとっては心に槍を突き立てられたような衝撃だった。なにしろ、幼少期から結ばれていた縁談を唐突に「新しい相手が見つかったから」と言って破棄するなど、常識的には考えにくい。ましてや、ラングレーとシルフィの両家は王国にとっても重要な貴族同士の結びつきだ。これを大きな問題ととらえる者も多いはずなのに、ラングレーは当主である父親の同意を取り付けており、しかもエリーザの家柄にも一切問題がないというのだ。


「待ってください……。いきなりそんなこと……私には……」


 シルフィは顔から血の気が引くのを感じた。視線が定まらず、足元がふらつく。ラングレーはそんな彼女を冷ややかに見下ろしたまま、まるで世間話をするかのようなごく自然な声音で、しかしはっきりと断言する。


「これ以上、無駄な縁を結んでいるのはお互いのためにならない。シルフィ、今後はお前も侯爵家の令嬢として、新しい道を探すといい」


 無駄な縁。新しい道。それはあまりに身勝手な言葉だった。シルフィがラングレーを慕って重ねてきた努力も、彼女の人生そのものも、その数秒の会話ですべてが否定されてしまったのだ。まるで、彼にとってシルフィは必要のない道具であったかのように。ひとりの人間としての存在を踏みにじられたようで、シルフィは混乱と絶望に陥る。


 まわりを見れば、華やかな光の中でドレスを揺らしながら踊る貴婦人たちや、夫人たちに声をかけて回る紳士たちの姿がある。しかし、そんな光景はもうシルフィの視界には入ってこなかった。ただ、風が通り過ぎるときのかすかな冷たさと、胸を締めつけるような痛みだけが彼女の中に確かにあった。


「……どうして、どうしてこんなことに……」


 か細い声で、周囲には届かないほどの小さな呟きを落とす。ラングレーはすでに去っていた。先ほどまで彼のいた場所には彼の姿はなく、シルフィは一人取り残されていた。その場には人々が行き来しているものの、誰も彼女がこれほどまでに深く傷ついたとは気づかない。かろうじて異変に気づいた侍女が駆け寄り、彼女を支えるようにして夜会の会場を後にする。そこには、シルフィが一度も予想しなかった悲劇の幕開けの空気が濃厚に漂っていた。


 屋敷に戻ったシルフィを待っていたのは、さらなる冷たい仕打ちである。侯爵家の当主である彼女の父、そして母までもが、この急すぎる婚約破棄を当然のこととして受け入れていたのだ。もちろん最初は驚きを隠せなかったが、すぐにラングレー側から「この破談は公爵家が正式に決定したこと」「シルフィがどうしようもなくラングレーにふさわしくないためだ」という申し立てがなされたのである。しかも、「シルフィはラングレーの信頼を裏切り、彼を落胆させる行動をとってきた」というような、まるでシルフィが悪者かのような噂まで流されていた。


 父はそれを全面的に信じたわけではなかったが、他の貴族から「公爵家との関係が悪化しては困る」「事を荒立てるよりも、シルフィが大人しく引く方が傷が浅い」と口々に言われたこともあり、すっかり及び腰になってしまった。結果として、父母はシルフィに対して「婚約破棄を穏便に受け入れ、騒ぎを大きくしないように」という態度を示すにとどまっていた。娘を守る言葉は聞かれず、むしろ「お前が何か余計なことをしたのではないか」「ラングレー公爵家の逆鱗に触れるような失態を犯したのではないか」という疑いの目を向けられたのだ。


「そんな……私は……ずっと、ラングレー様に恥をかかせないよう努力してきただけなのに……」


 シルフィが必死に弁明をしようとしても、母は「周囲に聞こえたらどうするの?」と、口を噤ませるよう制止するばかり。父も黙り込んでしまう。ラングレーとの婚約が破談になった以上、侯爵家としては新たな縁組を探したり、あるいはこの件が王宮に知られて騒動に発展することを何よりも恐れていた。愛娘をかばうよりも先に、家の体面を優先せざるを得ないというのが、いまの彼らの姿勢だった。


 こうして、シルフィはほとんど誰からも味方を得られないまま、半ば家の中で孤立した状態に置かれる。侍女たちも気を遣ってはくれるが、彼女らの立場は弱く、かといって婚約破棄がこれほど急に通達されてしまった件について、下手に口出しできるわけではない。それでも、シルフィに付き従う一部の侍女は夜な夜な彼女の部屋を訪れ、ひどく落ち込んだ姿を見せる彼女にハーブティーを差し出し、そっと肩をさすってくれる。彼女たちは何も言わないが、シルフィがどれだけ苦しんでいるかは痛いほど理解していた。


 それまでシルフィが抱いていた夢は、幼少期から長年にわたって育んできたかけがえのないものだった。しかし、ラングレーの一言で一瞬にして「崩れた夢」となってしまった今、その喪失感は想像を絶するほど大きい。自分が未来を託してきた相手からの拒絶と裏切り。さらには、自らの家族からも十分な支えを得られず、すべてが彼女を一段と追い詰めていく。


 婚約破棄が正式に公表された後、社交界の噂は驚くほど速く広がった。とりわけ、当のラングレー自身が「シルフィは自分にふさわしくなかった」「素行に問題があった」といった言動を、まるで真実かのように吹聴しているらしい、という噂まで耳にする。もともと公爵家の影響力は大きく、ラングレー個人への信頼や関心も強かったが、その結果としてシルフィにとって不利な評価が流布されるのは時間の問題だった。実際、彼女が屋敷を出るときに噂話をしている下女や小間使いの会話が聴こえてきたり、商人が眉をひそめる視線を向けてきたりするなど、微妙な空気をひしひしと感じるようになる。


 こうして心身ともに疲弊していくなか、シルフィは無力感に苛まれながらも、「いったい、何がいけなかったのだろうか……」と自問せずにはいられない。ラングレーは「新しい婚約者エリーザの方が優秀だ」と告げたが、シルフィなりに努力をしてきたつもりだ。では、それでは足りなかったのか。自分には決定的に欠けているものがあるのか。それとも、エリーザという人間がそれほどまでに完璧な淑女なのか。あるいは……ただ単にラングレーの気まぐれに過ぎないのでは。思考は乱れ、夜になっても眠りにつけないほどの不安と焦燥が彼女を襲う。


 しかし、いくら考えても答えは出てこない。家族にも問いただせない。何もかもが得体の知れないまま、シルフィは暗闇の中、ただただ涙を流すだけだった。日が昇れば、また周囲からの追及や好奇の視線に晒される。夜が来れば、孤独と悲しみに飲み込まれる。そんな日々が続くうちに、シルフィはいつしか「自分なんて……」という自己否定の感情に苛まれるようになっていた。


 だが、それでもかつての「気高い侯爵家の令嬢」としてのプライドが、彼女の中で完全に失われたわけではない。深い失意の底に沈みつつも、どこかで「こんな扱い、あんまりではないか」という思いがくすぶっているのも事実だった。ラングレーと心から愛を育むという夢は消え、理想の未来を失ってしまったが、それでも「何もかも終わったわけではない」と自分に言い聞かせたい気持ちが、かすかな灯火のように胸に揺れている。


 今のシルフィは自信を失い、周囲の圧力に押し潰されそうになっている。ラングレーからの婚約破棄宣言は、彼女にとって人生の土台を根こそぎ崩されるも同然の破壊力を持っていた。しかし、ここで足を止めてしまえば、本当にすべてを失うことになる。彼女の心にはまだ「自分らしく生きたい」という、遠い日の憧れに似た想いが残されている。両親からも友人たちからも、まだ本当の気持ちを理解してもらえない現状であっても、彼女はただじっと耐えるしかない。自分の人生を守るために。そして、いつか光が差し込む瞬間を迎えるために。


 シルフィはまだ気づいていない。しかし、この婚約破棄によってもたらされた悲しみの中から、やがて小さな希望の芽が生まれようとしていることを。これは大きな裏切りであり、痛みであり、惨めな状況であることに疑いはないが、同時に彼女が自らの人生を掴みなおすための最初のきっかけにもなるのだ。将来、公爵夫人としての道を歩むのではなく、まったく別の選択肢が開かれていくかもしれない。そこに踏み出すことは、きっと苦しくもあり、勇気を要するだろう。だが、その先には想像もしていなかった新しい世界が広がっているに違いない。


 今はまだ、自室のベッドでぐったりと横たわる日々。夜毎に涙をこぼしながら眠りにつく夜が続く。しかし、シルフィは深い失意の中にあっても、完全には屈しない。どこかで、いつか必ず、ここから抜け出す手段があるのではないかと信じているのだ。なぜなら、彼女はもともと、誰よりも努力家であり、内なる強さを秘めた女性だったから。ラングレーが知らない一面を、そしてこの世の誰もがまだ知らない才能を、きっとシルフィは解き放つ日が来る。それが今日か明日かは分からない。けれど、必ずその時は来る——。


 そうして、シルフィの長い長い夜は始まった。やがて訪れるであろう新しい人生を、まだ半信半疑でありながらも待ち望みつつ、彼女は孤独の暗闇のなか、少しずつ自分の心に眠る光に気づきはじめる。崩れ去った夢の残骸から、静かに、しかし確実に、新しい未来の種子は芽吹き始めていたのだった。






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