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第2話



 シルフィは、自室のカーテンを開きながらため息をついた。薄曇りの空から差し込む光は頼りなく、少し前まで暖かかった季節の気配は急速に遠ざかりつつあるように感じられる。

 婚約破棄の衝撃からまだ立ち直れず、家族の態度も冷たいまま。朝に顔を合わせても父や母は必要最低限の会話しかせず、彼女を見るときのまなざしはどこかよそよそしい。以前ならば少しでも体調が悪そうに見えれば心配し、彼女が習い事で成果を出せば共に喜んでくれていた両親も、いまや「この子は早く落ち着かせなくては」という焦りと煩わしさが混じったような眼差しを向けるだけだ。

 それでも、何事もなかったかのように日々を過ごさなければならないのが貴族の娘という立場だと、シルフィは自分に言い聞かせている。屋敷の使用人たちの手前、落ち込んでいる様子をあまりにも露わにしては家の威厳に傷がつく。婚約破棄の理由が「シルフィの素行不良」という噂となって広まっている以上、身内である両親としても、彼女が悲嘆に暮れている姿を人目にさらすのは避けたいのだろう。もちろん、それがシルフィの心をほんの少しでも守ろうとしての行動なのか、ただ単に面倒ごとを増やしたくないだけなのかは、彼女の目にも判断がつかない。

 いずれにせよ、屋敷の中でのシルフィは居場所を失い、空虚な時間を過ごしていた。以前はラングレーと将来を語り合える日を思い描きながら、毎日の勉強や習い事に打ち込むことに生きがいを感じていたが、その夢が根こそぎ奪われた今、何を糧にすればよいのかまるでわからなくなっている。


 そんな折、午後のうすら寒い空気が漂う中、シルフィは何とか気を紛らわせようと屋敷の庭へ出ることにした。屋敷の庭園は広大で、季節に応じた花々が見事に咲き乱れるのが自慢だったが、彼女の目にはどんな花も色あせて見える。ほんの数週間前までは、婚約者としての務めを果たすためにも、こうした庭の美しさを客人に紹介できるよう、花の種類や手入れの方法を侍女とともに学んだりしていた。その頑張りが、いまやどれほど無意味なものに思えることか。

 かつては鮮やかなバラのアーチを見て「ラングレー様もきっと喜んでくださるわ」と胸を弾ませていたのが嘘のようだ。どれほど自分が無邪気だったのかと、思い出すたびに胸の奥がざわつく。


「お嬢様、そちらは風が冷たいですから、お身体に障りませんように」


 後ろからついてきた侍女のステラが、心配そうに声をかける。彼女は数少ないシルフィの味方であり、思いやりの深い女性だ。シルフィが眠れない夜を過ごしているときもこっそりとハーブティーを差し入れてくれたり、仕事の合間を縫ってはさりげなく声をかけに来てくれたりする。そんなステラがいてくれることは、シルフィにとってわずかながら心の拠り所となっていた。


「ありがとう、ステラ。でも、少し外の空気を吸いたいの。大丈夫、風邪なんか引かないわ」


 そう言いながら、シルフィはほとんど笑みを浮かべることができない自分に気づく。顔の筋肉までが硬直しているような感覚に襲われ、唇を動かすだけでも難しいのだ。結局、それ以上ステラと会話を交わすこともなく、シルフィは庭の奥へと足を進めた。


 庭園の最奥にある古い温室は、シルフィにとって子どもの頃の秘密基地のような存在だった。誰にも邪魔されずに本を読んだり、音楽の練習をしたりできる場所で、特にラングレーとの縁談が決まってからは「未来の公爵夫人としての心得」をまとめたノートや参考書を広げて、こつこつと学んでいたのを覚えている。

 ゆっくりと扉を開けると、かつて熱心に植え替えた蘭の鉢が並んだ棚が目に入る。手入れが十分ではないのか、元気がなさそうに見える花もあるが、まだ枯れてはいない。シルフィはそっと近づき、鉢の表面を指で触れて土の湿り気を確かめた。


「ごめんね、しばらく面倒を見てあげられなかった……」


 まるで花に話しかけるような弱々しい声が、温室の中に静かに響く。少し前までは、ラングレーに贈る花を育てたいという思いがあったからこそ、時間を見つけてはこの温室に通っていた。だが今、その目的は無残に断ち切られた。行き場のない思いは、まるで自分自身が枯れかけの花になってしまったような錯覚を呼び起こす。


 そのとき、誰かが近づいてくる足音が聞こえた。ステラが追いかけてきたのかと思ったが、足音の響きは少し重厚で、ステラのような細やかなものではない。シルフィは警戒して顔を上げると、温室の入り口に背の高い男性が立っていた。

 初めて見る顔だ。年の頃はシルフィより少し上だろうか。濃い茶色の髪を短く整え、端正な顔立ちだがどこか抜け感があり、少し軽妙そうにも見える。しかし、その瞳には柔らかな知性と穏やかな光が宿っていた。彼は戸惑い気味に微笑みながら、一歩こちらへ足を進める。


「失礼します。驚かせてしまったかな? 今、侍女さんに案内されてこのお庭を見学させていただいていたんですが、勝手にこちらに来てしまった。私はカリブと申します。伯爵家の次男ですが、実質的には跡取りとして父を支えております」


 彼は礼儀正しく言葉を継ぎ、帽子をとって少し頭を下げた。

 シルフィは戸惑いながらも微かに会釈をする。両手にはまだ鉢植えが握られたままで、まともに挨拶ができる状態ではなかった。それを見て、カリブはやや気まずそうに微笑みを浮かべる。


「申し訳ない。そろそろ主人である侯爵様にご挨拶に伺おうと思ったのですが、どうにもこの温室が気になりまして。実は自分も植物を育てるのが好きなんです。ですから、こうした場所を見ると、つい足を運んでしまう」


 初対面にもかかわらず、どこか親しみを感じさせる語り口だった。シルフィは警戒を解くことまではできずとも、相手が敵意を持った人物ではなさそうだと直感する。

 とはいえ、いまの彼女は社交界での振る舞いを意識する精神状態にはない。以前なら初対面の男性相手にもう少し洗練された挨拶をするところだが、悲しみの渦中にいる彼女には無理な話だった。


「……こちらこそ、失礼しました。私はこの屋敷の令嬢、シルフィ・マクガレイ侯爵家の娘です」


 なんとかそれだけ名乗り、深々と頭を下げるが、すぐに顔を上げることができない。最近の屋敷内での立場を思えば、自分が「侯爵家の娘」と言って胸を張れるのかどうかも怪しかったからだ。

 しかしカリブは、そんなシルフィの様子に特に触れず、にこやかに視線を合わせようとしてくる。どうやら彼は、シルフィが噂の当事者であることを知っていても、下手な同情を示すわけでもなく、ごく自然に接しているようだ。


「すみませんでした。いきなり押し入る形になってしまって。ここの温室、見事ですね。手を入れるのは大変だろうに、随分と丁寧に育てられている……シルフィ様が、ずっと面倒を見ておられたのですか?」


 カリブの問いかけに、シルフィは小さく頷く。


「……はい。私が好きで始めたことなので。父や母はあまり興味がないようですが、私は花を育てるのが好きで、よくここに来ていました。最近は……少し来られなかったのですけど」


 そう言ったきり、シルフィは言葉を失った。いつもなら「婚約者の公爵家に渡す花を育てたかった」「ラングレー様にも見ていただきたかった」と続けるところだが、いまそれを口にするのはあまりにもつらい。小さく唇を噛み、言葉の続きを飲み込んだ。

 すると、カリブはどこか察した様子で、暗くなったシルフィの表情に目をやりながら、静かに温室の棚の鉢を眺めて歩く。


「そうですか。花は答えてくれますよね。手間をかければ、その分だけ応えてくれる。実は私、父の領地で薬草栽培や果樹園の拡張に取り組んでいまして。いまは領民の生活を豊かにするために、色々な作物や花の育成にも興味を持っているんです」


 彼は楽しそうに言う。その話しぶりは自然体で、誇示するようなところがまるでない。シルフィは、初対面の彼から聞かされる伯爵領の話に一瞬だけ心を惹かれた。自分の家の庭園では見られないような花や作物が広がっているのだろうか。それはきっと、美しく、そして豊かな光景なのだろう。


「……素敵ですね。私、あまり広い世界を見たことがなくて。ほとんどが王都の侯爵家や、公爵家の社交界を行き来していたような生活でしたから……」


 最後の部分を口にしたとき、自然と声が小さくなる。公爵家と言えばラングレーの家。いまはもう、その名を出すだけでも胸が締めつけられそうな痛みが走る。だが、カリブはそれに気づいているのか、あえて深くは踏み込んでこない。


「そうだったんですね。広い世界……一度、ご覧になられたらきっと新しい発見があると思いますよ。シルフィ様がこの温室に注いだ情熱や知識なら、領地での花や植物の栽培にも役立つでしょうし」


「……私なんか、もう……」


 シルフィは思わずそう呟いて、はっと顔を伏せた。いまの自分の惨めな立場を考えると、「私なんか」という卑屈な言葉が自然と出てしまう。家族からの尊敬も失い、社交界では「公爵家から捨てられた不名誉な娘」だと噂されている。努力を重ねていたはずなのに、いつの間にかすべてが音を立てて崩れ去っていた。そんな自分が、胸を張って「広い世界を見たい」などと言えるだろうか。


 すると、カリブは優しく微笑みながら、少しだけ身をかがめて彼女の視線の高さに合わせるようにして言葉を紡いだ。


「……シルフィ様は、そんなふうに自分を低く見積もらなくてもいいんじゃないでしょうか。何があったかは存じ上げませんが、この温室を見るだけでも、シルフィ様が丁寧に時間を注いできた方だと分かります。それは十分な価値ですよ」


 その言葉に、シルフィの瞳はかすかに揺れる。大半の人間は、ラングレーとの婚約破棄の件を知るや否や、「ああ、あの落ち度があった娘ね」という偏見に染まった目で彼女を見てくるか、あるいは同情心からうわべだけの慰めを口にする。カリブはどちらでもない。あくまで「シルフィがしてきた努力」に目を向けてくれている。誰からも評価されることなく散っていくかに思えた彼女の行いを、こうして素直に認めてくれる存在に、シルフィは思いがけず救われるような思いがした。


「……ありがとうございます。そう言ってくださるなんて、初めてで……」


 ぎこちないながらも、シルフィはわずかに微笑んだ。歯車がずれはじめてからというもの、笑うことすらできずにいたが、ほんの少しだけ表情が緩んだ気がする。

 一方、カリブは彼女の笑みを見届けると、安心したように頷き、ポケットから小さな冊子を取り出す。


「花の図鑑? 珍しいものが載っているのかしら……」


 彼の手にあるのは、まるで古い記録帳のような分厚い冊子だった。カリブはそれを丁寧に広げてシルフィの前に示す。すると、その中には領地で栽培されている植物や花のスケッチ、さらには簡単な育成記録や改良のためのメモがびっしりと書き込まれていた。カリブが自ら手掛けたものなのだろう、筆跡は一定で整然とした印象を受けるが、そこかしこに情熱や熱意が感じられる。


「私の領地では、もともと厳しい気候に耐える薬草栽培が行われていたんです。最初はそれをより広げて、多くの人の役に立てたいと考えていました。でも、花を育てたり新しい果樹を導入したりするうちに、これらはただの作物や薬草にとどまらない可能性を秘めていると気づいたんです。花一つでも、暮らしを豊かにし、人の心を癒やす効果がある。だから、今は自分なりに研究して、少しずつ新たな取り組みを始めているところで」


 彼の言葉を聞きながら、シルフィはページを丁寧にめくる。そこには植物の姿だけではなく、収穫したあとの利用方法や、それぞれの薬効に関するメモまでが書き込まれていた。さらにカリブは、領民がより快適に暮らせるようにするための施策も考えているらしく、ノートには行政面の記録らしきものも挟まれている。

 シルフィには、それがどれほど画期的なことなのかまではわからない。けれど、ひとつだけ確かにわかるのは、カリブが自分の領地を大切に思い、人々の生活を真摯に考えているということだ。彼の情熱が言葉の端々から伝わってきて、シルフィは自然と目を奪われていた。


「……本当に色々と考えていらっしゃるのですね。すごいわ。私なんか、王都の豪華な花しか知らないで育ったから、こんなふうに花が人々の暮らしの糧になるなんて、考えたこともなかった」


 そう口にしながらも、胸の奥がほんのりと温かくなる。自分がいままで必死で学んできた淑女教育や、王宮での舞踏や礼儀作法とはまったく違う世界があるのだと、改めて感じさせられたからだ。その世界では、人々が実際に土に触れ、花や作物に思いを込めて生きている。そこに息づく喜びや苦労は、シルフィが思い描いていた「公爵夫人」としての未来とは全く別の色彩を放っているように思えた。


「そういう取り組みにご興味があれば、いつか、うちの領地に遊びにいらっしゃいませんか?」


 カリブはさらりと提案し、そして少し気まずそうに笑みを浮かべる。


「いきなりの誘いで失礼かもしれないけど、侯爵家とは父が昔から交流があるし、近々また正式な招待をするかもしれません。そのときはぜひ。もしお時間が許せば、シルフィ様に見ていただきたい景色がたくさんあるんです」


 その穏やかな口調に、シルフィは戸惑いながらも嬉しさを隠せなかった。行ってみたいと思う気持ちと、いまの自分がそんなことをしてよいのかという遠慮がせめぎ合う。だが、それよりも先にカリブの言葉に感じられる温かなまなざしが胸を打った。「見ていただきたい」という言葉——それは、シルフィが心を閉ざしている間に忘れかけていた感覚を呼び覚ましてくれる。誰かに何かを見せたい、誰かの理解を得たいという気持ちは、かつてシルフィ自身が抱いていたものでもあるからだ。


 しばし沈黙が流れたあと、カリブはふと何かに気づいたように手を打ち合わせる。


「……おや、そろそろ侯爵様のもとへご挨拶に伺わないと。もしご迷惑でなければ、またお話を聞かせてください、シルフィ様。あなたの育てた花のことや、この温室にどんな思いを込めてきたのか、興味があります」


 シルフィは控えめに会釈し、かすかに笑みを浮かべた。心の傷はまだまだ深いが、それでもこうしてほんの少しだけ興味を向けてくれる存在が現れたことが、暗闇の中で光を見出すような気持ちを彼女にもたらしてくれる。


「……ありがとうございます。私も、こんなふうに話を聞いてもらえるとは思わなかった。挨拶、どうぞ行ってらっしゃいませ」


 そうして、ほんの短い会話ではあったが、シルフィにとっては大きな転機になり得る出会いだった。彼女は思いがけない一瞬の安堵を味わいながら、カリブが温室を後にする後ろ姿を見送る。あらためて立ち尽くしてみると、先ほどまでの息苦しさが少し和らいでいるように感じられた。


 カリブが屋敷の奥へと去っていったあと、ステラがそっと温室に姿を見せた。最初から外で待機していたらしく、彼女はやや困惑の表情を浮かべている。


「お嬢様、さっきの方は伯爵家のご子息なのですね? お屋敷にご用事があると聞きましたが……失礼はなかったでしょうか」


「ええ、大丈夫よ。むしろ、あちらが私を気遣ってくださったわ」


 シルフィは正直に答える。ステラは安心したように小さく頷き、何か言いたげな表情になった。きっと、この状態のシルフィが初対面の男性と会話をすることに驚きを感じているのだろう。無理もない。それほどまでに、シルフィは“公爵家からの婚約破棄”によって気力を失い、他者と接する意欲を持てないでいたのだ。

 しかし、いまは胸の奥に小さな火が灯ったような、ほのかに暖かな感覚が残っている。もちろん、それで傷がすべて癒えるわけではない。ラングレーから受けた裏切りと周囲の冷淡な態度を思い出せば、いつまた心が崩れ去ってもおかしくないほどの脆さを抱えているのも事実だ。

 けれど、先ほどカリブが見せてくれた領地の花や作物のスケッチや話からは、シルフィが知らない新しい世界の広がりを感じられた。自分の苦しみや悲しみだけで頭がいっぱいになっていたのに、一瞬だけでも「外の世界」に目を向けるきっかけを与えてもらえたのだ。これを偶然と呼ぶのか、あるいは運命と呼ぶのか、それは分からない。だが、少なくともシルフィは「もう少し生きてみよう」「もう少し何かをしてみよう」という気持ちを取り戻しつつあった。


 温室を出ると、先ほどよりも日差しが少しだけ鮮やかになっていることに気づく。どんよりとした曇り空は相変わらずだが、雲間から差し込む陽射しが庭の葉を照らして揺らめく様はどこか美しくも儚い。シルフィは目を細め、心の中でつぶやいた。


(わたし……まだ立ち上がれるかしら)


 問いかけには答えはない。しかし、さっきまで塞ぎ込んでいた自分よりは、ほんの少しだけ勇気を持てている気がした。もう一度、温室に戻って花の手入れをしてみようか。枯れてしまった花があるなら、また種から新しく育てればいい。自分が大切に注いだ時間は、すべて無駄だったわけではないと、カリブが言ってくれたではないか。


 深い傷を抱えたままではあるけれど、その痛みは急には消えないにしても、小さな一歩を踏み出すことはできるのかもしれない。シルフィの胸の奥底で、灰色の絶望の中にくすぶっていた小さな火が、ほんのわずかに燻りから炎へと変わろうとしていた。


 そして、それこそが彼女の新たな人生への序章になることを、まだシルフィは知る由もない。婚約破棄という大きな痛手に押し潰されそうになりながら、それでも自分を見失わずにいようとする彼女の前に、これから待ち受ける運命は果たして何をもたらすのだろうか。少なくとも、カリブとの出会いがもたらした一筋の光が、深い傷口にそっと触れる薬となってくれることを願いながら、シルフィはもう一度庭を見渡した。雨の予感を孕んだ空の下、かすかな日差しは彼女の足元を、まるで導くように照らしている。



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