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第3話



 シルフィは、屋敷の小さな客間で一人、手帳を広げて考え込んでいた。すべてが崩れてしまった婚約破棄のあと、彼女は自分が何を目指して生きるべきかを見失いかけていた。しかし、伯爵家の青年カリブとの出会いをきっかけに、ほんのかすかな勇気と興味を取り戻し始めたのは事実である。

 その結果、まずは小さな目標を見つけようとシルフィは思い立った。自分が好きだったこと、自分が得意だと感じていたことは何だろうか。公爵夫人になるための教養や礼儀作法は、いまではもう役に立たないのだろうか。あるいはそれらは別の形で活かす道があるのだろうか。

 夜な夜な散逸しかけた思考をノートに書き出しては、自分と向き合う。それは苦痛を伴う作業でもあった。なぜなら、これまでの「当たり前」だった婚約者としての立場を一度捨て去らなければならないからだ。加えて、周囲の目や噂にさいなまれ、少しでも外に出れば「公爵家から見放された哀れな娘」という後ろ指をさされる状況にある。家族も彼女を積極的に外へ送り出すことを望んではいない。むしろ「今は大人しくしていろ」と言わんばかりだ。

 そんな家の空気を変えたいとさえ思うが、自分ひとりの力では何もできないのではないかという不安は常につきまとった。どうにかして「自立」という言葉を現実のものにするには、まず何をすべきか。

 気がつけば、客間に備え付けられた小さな振り子時計がコツコツと時を刻み、もうすぐ昼下がりになろうとしていた。シルフィは庭のほうへ視線をやる。まばゆいほどの陽光が差し込んでいるわけではないが、冬に向かう冷たい風と淡い光が揺らめく中、いくつもの植木が葉を揺らしているのが見えた。先日カリブと話した温室のことを思い出し、わずかに胸が温かくなる。


 あの日以降、カリブは何度か侯爵家に顔を出していた。彼の父、伯爵は侯爵との旧い縁があり、その用事で屋敷を訪れる機会も多いらしい。そのたびにカリブはシルフィへ軽い挨拶を残していく。長い時間をともに過ごすことはできないが、「温室の花はどうですか?」「最近は寒さが厳しくなってきましたね」など、まるで親しい友人と交わすような小さな会話が増えてきた。シルフィとしては、まだ完全に気を許しているわけではない。けれど、彼の言葉のひとつひとつが心に引っかかり、かつての自分を思い出すきっかけになっていることは確かだった。


 思い切って温室の花の手入れを再開してみると、意外なほど気持ちが落ち着いた。花はシルフィを責めたりしない。婚約破棄された娘だと噂を聞いても、嫌味を言ったりはしない。ただそこに咲き、あるべき姿を保とうとする。枯れかけた花に水をやり、光が届きやすいよう置き場所を調整し、土の状態を確認して肥料を足してやる。それらの行為は、自分自身の心を耕す作業にも似ていた。ああ、こんなふうに素直に生きていれば、いつかまた花開く日が来るのだろうか——。そんな希望が、少しずつシルフィの胸に芽生え始めたのである。


 もちろん、まだ暗い感情は消えない。ラングレーへの憎しみや後悔は、不意に姿を見せてシルフィを苦しめる。彼と過ごした社交界の思い出を振り返るたび、どうしてこんな理不尽な仕打ちを受けたのかと思わずにはいられない。噂によれば、ラングレーの新しい婚約者となったエリーザは、まるで王宮の花のように社交界で持て囃されているという。さぞかし、シルフィのことは「古くさく地味な娘」とでも思われているのだろう。もともと古風だと言われる侯爵家出身というだけで、華やかな伯爵令嬢に劣っていると見られるのは決して珍しくない話だ。

 だからこそ、シルフィは心のどこかで「自分を証明したい」という感情を拭い去れずにいた。ただ泣き寝入りするだけの人生は嫌だ。このまま家の中で縮こまっていては、本当に“使い捨てられた娘”で終わってしまう。そう思うと、自然と手帳を開いてペンを走らせ、いろいろなアイデアや目標を書き込むようになった。それは、幼い頃から公爵夫人になるために培った諸々の知識や、淑女教育の中で得たスキルなどを自分なりに整理し直す作業とも言える。


 例えば、シルフィは婚約者としての立場から、高位貴族が好む詩や文学への理解を深めたり、お茶会の運営方法や舞踏会の進行に関するノウハウを学んできた。こうした経験を、自分の将来にどう活かせるのか。結婚によって「夫人」となる道は断たれたとしても、貴族として生まれたからこそ培えた見識や作法はまったく無駄ではないはずだ。

 一方で、温室を通して学んできた植物の知識も、今までは「優雅なたしなみ」の一環でしかなかった。しかし、カリブが領地で実践している薬草栽培や果樹園の話を聞くにつれ、花や植物の世界が決して“嗜み”だけに終わらない実用性を持つことを知った。もちろん、いまのシルフィが急に領地経営を任されるわけでもないし、そんなことができるほど甘くはない。それでも、何らかの形で「自分の学び」を活かせる場を探してみたいと思い始めたのである。


 そんな折、偶然にもシルフィに一つの“きっかけ”が転がり込んできた。ある朝、使用人から「近いうちに伯爵家で催される小規模なお茶会に、シルフィお嬢様もお招きを受けています」という伝言が届いたのだ。伯爵家といってもいくつか存在するが、宛名を見るにどうやらカリブの家——つまり彼の父が治める領地を本家に持つ家からの正式な招待であるらしい。

 両親に相談したところ、最初は明確な返事を渋られた。「余計な騒ぎを起こしても困る」「いまは大人しくしていろ」と、いつもの言葉が戻ってくる。けれど、シルフィは怯まずに言った。「私にも顔を出させてください。きちんと振る舞うことで、わが家にも不利益はないはずです」と。

 両親としても、伯爵家との関係を悪くしたくはないのが本音なのだろう。数日悩んだ末、「では行ってきなさい。ただし、無理はしないように」という条件付きで許しを得ることができた。実際、シルフィがこのまま塞ぎ込んでいては、まわりに良からぬ憶測が飛び交うだけだ。形だけでも社交の場に姿を見せ、侯爵家の娘としてのプライドを保つことは、それなりに意味があると両親は判断したらしい。


 シルフィは、お茶会当日の朝、緊張と少しの昂揚感を抱えながら侍女のステラに手伝ってもらい、久方ぶりに念入りな身支度を整えた。淡いラベンダー色のドレスは、これまで「公爵夫人にふさわしい上品さ」を念頭に仕立てられたもの。かつてはラングレーの横に並ぶ日を夢見ながら袖を通したのに、その夢はもう失われている。それでもシルフィは、ドレスに袖を通す瞬間、自分がまだ貴族の娘であることを思い出し、気持ちを奮い立たせた。

 馬車に乗り込んで伯爵家へ向かう道中は、やはり不安でいっぱいだった。もし、そこにラングレーやエリーザの取り巻きのような人々がいたらどうしよう。婚約破棄の件で囁かれている噂を真正面から浴びてしまうのではないか。そんな疑念が頭をもたげる。

 しかし同時に、「このまま何もしなければ、何も始まらない」という確信めいた気持ちもあった。貴族として社交の場に身を置くことは避けられない運命。であれば、自分から少しずつ行動していかないと、どんな未来も掴めない——。


 伯爵家の邸宅に着くと、すでに何台かの馬車が玄関先に停められていた。出迎えに出た使用人に案内され、広い廊下を抜けた先のサロンへ足を踏み入れると、穏やかな楽器の演奏が耳に届く。豪奢な大舞踏会とは違い、このお茶会はこぢんまりとした優雅な会合のようだ。招かれているのは主に若い貴族やその家族で、華やかなドレスの人々が談笑を楽しんでいる。

 シルフィが会場の端に腰を落ち着かせると、ちらほらと周囲の視線が集まってくるのを感じた。中には、いかにも好奇の目を向けてくる者もいる。しかし、思ったほど露骨に「公爵家から捨てられた娘」扱いをしてくる人はいない。これは、伯爵家の当主が「シルフィを招待する」と決めたことによって、少なくともここに集まった人々は、彼女を軽々しく扱えない立場にあるからだろう。王宮に出入りする最高位の貴族がいる華麗な舞踏会とは違い、ここではそこまで悪意の満ちた攻撃や中傷が飛び交うことはなさそうだ。

 それでも気まずさは拭えず、シルフィは顔を上げたり下げたりしながら、視線をどうやってやり過ごせばいいのか模索していた。そのとき、見覚えのある背の高い男性がサロンの中央付近で来賓者と談笑している姿が目に入る。カリブだ。

 彼もまた、シルフィを見つけた瞬間、軽く手を振って視線を合わせてくれる。何かと気を配ってくれているらしい。その挨拶に返して微笑みを返すと、少しだけ周囲の目がやわらいだ気がした。シルフィはほっと胸をなで下ろし、緩やかに流れる音楽の調べに耳を傾ける。


 少し経って、給仕が紅茶と菓子を運んできたため、シルフィはゆっくりとティーカップを持ち上げた。その瞬間、ふと記憶が蘇る。かつてラングレーの隣で、こんな場に身を置いたことが何度あっただろうか。あのときは、彼が隣にいるだけで心強く感じ、自分の立場を誇りに思えた。しかしいまは、たった一人でこの空間にいる。

 胸が苦しくなるのを感じつつも、シルフィは「もう終わったこと」と自分に言い聞かせる。今こそ、己の力で立ち向かわなくてはならない。幸い、初めて会う人々ばかりの中にも、好意的に声をかけてくれる者が現れ始めた。

 「あなたが、シルフィ・マクガレイ侯爵家の令嬢ね。ご挨拶が遅れて申し訳ありません、私の名は……」

 そう言って名乗るのは、カリブの友人筋にあたる男爵令嬢だった。柔らかな茶色の髪を結い上げた彼女は、どこか人懐っこい笑みを浮かべている。まるで噂に囚われることなく、最初からシルフィを“一人の人間”として見てくれているようだ。

 「はじめまして。お招きいただき、ありがとうございます」

 ぎこちないながらもシルフィは微笑を返す。男爵令嬢は「いえいえ、私が主催というわけではないけれど、こういう集まりにいらしてくださるのは嬉しいわ」と軽快に笑った。その後、シルフィは彼女の隣に座り、取り留めのない雑談を交わす。最初のうちは何を話せばいいのか戸惑ったが、自分が「花を育てるのが好き」だと話すと、意外にも興味を示してくれた。

 「そうなの? 私、花は見るのは好きだけれど、自分で育てたことはなくて。お庭の手入れなんて、使用人に任せきりだもの。ぜひ今度、詳しいお話を聞きたいわ」

 そんなふうに言われると、シルフィは少し照れくさい気持ちになりながらも、嬉しく感じる。ラングレーとの婚約破棄によって自分の価値は地に堕ちたのだとばかり思っていたが、こうして何でもない会話の中で「あなたの話をもっと聞きたい」と言ってもらえる。たったこれだけのことで、失っていた自信がほんのわずかに戻ってくるような気がした。


 やがて、カリブが談笑を終えてシルフィたちのほうへ来る。男爵令嬢が席を立ち、「また後ほどお話ししましょうね」とウインクを残していった。カリブはシルフィの向かいに腰掛けると、いつもの柔和な表情で口を開く。

 「よかった、ちゃんと溶け込めているみたいですね。はじめは少し心配だったんです。無理にお呼びして、苦しい思いをさせてしまっていないかなって」

 「あ……いえ。正直、最初は気まずかったですけど、みなさん優しくて、ほっとしています。あなたのおかげかもしれませんね」

 そう言うと、カリブは謙遜するように首を振った。

 「僕は何も大したことはしていませんよ。ただ、父が『このお茶会は大げさな場ではなく、若い人たちの交流の場にしたい』と言ってくれましてね。そこに貴女のことを少し話してみたんです。『花を愛し、礼儀もわきまえた素敵な令嬢がいるんだ』って」

 シルフィは目を見張る。まさか、自分のことをここまで前向きに紹介してくれていたとは思わなかった。

 「そ、そんな……私なんて、いまはただの……」

 思わず尻込みしようとするシルフィの言葉を、カリブは笑顔で遮る。

 「でも、本当のことでしょう? いま公爵家の事情で様々な噂が飛び交っているのは知っています。だけど、貴女が積み重ねてきた努力や優しさがすべて否定されるわけじゃない。一度会話をすれば、誰だってわかりますよ。ここに集まっているのは、そういう“噂に振り回されない人たち”です。もちろん、すべての人がそうとは限りませんが……今は、こうして静かな環境で一歩を踏み出すのがいいと思うんです」


 その言葉に、シルフィは目頭が熱くなるのを感じた。今までずっと自分を否定されてきた。ラングレーからは「ふさわしくない」とあっさり捨てられ、家族もそれを巻き返す行動はとってくれない。だというのに、ほんの少し距離のある伯爵家の青年が、ここまで真っ直ぐに自分を応援してくれる。やっと「無駄じゃなかった」と言われているようで、報われる思いだった。

 「ありがとうございます……私、何かを始めたいと思うんです。でも、まだ漠然としていて。いままでの知識や経験を、どう役立てたらいいのかわからなくて……」

 シルフィは前髪をかき上げながら、言葉を探した。自分の力で未来を掴むには、何か具体的な目標が必要だ。けれど、貴族社会の中で女性が単独で事業を始めるとなると、なかなか敷居が高い。嫁ぐあても、いまはない。そもそも「侯爵家の令嬢」としての立場が邪魔になることもあるかもしれない。

 すると、カリブはすっと真剣な眼差しで彼女の瞳を見つめ返す。

 「焦らなくて大丈夫です。まずは小さなことから始めてみたらどうでしょう? 例えば、このお茶会の主催も、父だけではなく若い人たちの力で成り立っているんですよ。音楽担当や飾り付けを一任された女性たちがいて、彼女たちは趣味や得意なことを活かしている。シルフィ様のように、花の知識がある人も、たとえば会場の装飾や園芸指導などで活躍できるでしょうし……」


 その提案に、シルフィの思考が広がる。そういえば、自分が学んできた花の栽培やブーケのアレンジメント、また貴族の嗜みとして習ったテーブルコーディネートなどの知識は、こういう社交の場で十分に活かせるのではないだろうか。公爵夫人になるのが目的だったから一通り学んだが、そこにシルフィのオリジナルな工夫を加えれば、もっと面白いものが作れるかもしれない。

 「たとえば、ですけど……私、以前に食用花とハーブを組み合わせたお茶会のレシピを考えたことがあって……当時は『嫁入り修行の一環』と思ってやっていたんですけど、あれも今ならもっと工夫できるかもしれません」

 思いがけず口に出たアイデアに、シルフィは自分で驚いた。ラングレーが喜ぶかもしれないと期待して準備しては、そのまま立ち消えていた過去の企画。書きかけのノートが自室の棚に眠っているのを思い出す。飾り物や紅茶の調合、軽食の盛り付けなど、すべて「いつか公爵家に嫁いでから活かす知識」だと思い込んで封印していたのだ。

 カリブは目を輝かせる。

 「それは素晴らしいじゃないですか。もし良ければ、いつか僕の領地でも試してみませんか? 僕の領地では薬草栽培に力を入れていますが、花も育てていますし、地元のハーブ農家とコラボレーションしたら面白いことができそうだ。そもそも花やハーブには心を癒やす効果もありますし、住民たちの日々の暮らしを彩るきっかけにもなるでしょう」

 まるで長年の友人と新しい事業計画を練っているかのような勢いで、二人は話を弾ませる。もちろん、いざ実行に移すには数々の手続きや調整が必要だろうし、シルフィ一人の力では困難も多い。だが、「可能性がある」と思えた瞬間が、彼女の中でどれだけ大きな励みになったことか。


 しばらくして、司会役らしき人が声をかけ、サロンの真ん中に別の演奏家が入ってきた。その後ろでは何人かの貴族が軽いゲームを始めようとしているらしい。カリブもそれに誘われて席を立ち、「あとでまた話しましょうね」と微笑みかけて去っていく。

 一人になったシルフィは、改めて会場を見渡した。華やかとはいえ、絢爛豪華な社交界の場に比べれば、ずいぶんと素朴な空気が流れている。しかし、その分だけ人と人との距離が近く、誰もが気兼ねなく交流を楽しんでいるように見えた。きっと、こういう小さな集まりの積み重ねこそが、新しい未来を作る土台になるのだろう。社交界というと、どうしても派閥や名声、家の格付けが先に立ちがちだが、ここでは何よりも「一緒に楽しみたい」「面白いことをやってみたい」という情熱が大切にされているようだ。

 シルフィはティーカップを置き、そっと目を閉じる。カリブが語ってくれた領地の話、そして自分が今まで学んできた花やテーブルコーディネートのアイデアが頭の中で繋がりそうな予感がする。もう一度、止まっていた手帳にペンを走らせてみようか。もし家に帰ったら、あの“食用花とハーブ”を組み合わせたレシピノートを探してみよう。心が踊る感覚は、久しく忘れていたものだった。


 こうして、お茶会は何事もなく終わりを迎える。シルフィは終了後、そっと会場の片隅に残り、まだ人々が立ち去らないうちに小さなお礼を伝えようと考えた。あまり目立つようなことはしたくないが、今回の招待を受け入れてくれた伯爵家当主と、その周囲の人たちに「ありがとうございました」と口にしたかったのだ。

 すると、ちょうどカリブも挨拶を済ませたようで、廊下でばったり出会った。彼は満足げに微笑みながら、

 「楽しんでいただけましたか?」

と尋ねる。シルフィは少しだけ恥ずかしそうに、でも確かな意志を込めて答えた。

 「はい。とても。……こんなに落ち着いて人と接したのは久しぶりです。本当にありがとうございました」

 カリブは「ああ、それは何より」と言いながら、表情をやわらげる。

 「また、何か始めたくなったらいつでも言ってください。伯爵家の領地を見学しに来てもらっても構いませんし。あなたの力があれば、いろいろなことができると思いますよ」

 「私の力……ですか」

 思わず、胸が熱くなる。その言葉は、シルフィがずっと欲しかった承認でもある。「貴女は無能ではない」「貴女には価値がある」。ラングレーからはもらえなかった、その言葉。

 「今はまだ……。でも、もしかしたらいつか、本当に“私の力”を発揮できるかもしれない。あなたの話を聞いていると、そう思えるんです」

 そう言って笑うシルフィに、カリブは深く頷く。彼の瞳はまるで「絶対にできる」と確信しているかのように、揺るぎない光を宿していた。


 帰りの馬車に乗り込んだシルフィは、その余韻に浸りながら窓の外を見つめる。王都の街並みが遠ざかるにつれ、胸の中には小さな種が息づいているように感じられた。あれほど追い詰められ、周囲に白い目を向けられる日々の中で失いかけていた自己肯定感や意欲が、再び芽吹き始めている。今すぐ大きな花を咲かせることはできないかもしれない。けれど、じっくり時間をかけて育てていけば、いつかは可憐な花を咲かせられるに違いない。

 そう考えると、いままでの婚約者教育がすべて無意味だったとは思えなくなってきた。シルフィは幼い頃から教養を身につけ、他人をもてなす心遣いを養ってきた。これを単なる“ラングレーの要求に応えるための道具”だと捉えるのではなく、“自分自身を成長させた大切な宝”だったと見直せば、その価値は変わってくる。

 いったい、何をどのように始めればいいのかはまだはっきりしていない。だが、自分が歩める道は一つだけじゃない。かつては公爵夫人になる未来しか見えていなかったが、世界はもっと広い。花は庭園の飾りになってもいいし、薬にしてもいいし、食卓を彩る食材になることだってある。その多様性は、シルフィの人生にも通じるものがあると感じられた。


 屋敷に戻り、ドレスを脱いで楽な服に着替えたシルフィは、さっそく部屋の奥深くにしまい込んでいたノートを取り出した。そこには“公爵夫人になるための”と銘打った様々なメモやレシピ、装飾のアイデアなどが雑然と書きつけられている。執筆の途中で放棄したページ、投げやりな筆跡の部分もあって、改めて見るとずいぶん未熟な記録だと思う。

 しかし、このノートは自分の過去の努力の証でもある。ページをめくるたび、あの頃の情熱や期待、そして少しの青さを思い出す。こんなに一生懸命だったのに、どうしてラングレーは私を見捨てたのだろう。かすかな痛みが蘇るが、その気持ちはもう嘆きの涙とは違っていた。

 「よし……もう一度、整理してみよう」

 シルフィは小さく宣言し、机に向かう。筆先をさらりとインクに浸し、ノートの空きスペースに新たな項目を描き始める。そこに書くのは、“公爵家のため”ではなく、“自分自身のため”のプランだ。たとえば、食用花とハーブを組み合わせたレシピの改良、秋冬に向けた保存方法や味付けの工夫……さらに、こうしたメニューを活かすお茶会や小さな宴を企画する場合の運営スケジュール。さらにさらに、それが領地の人々にどのように役立つか——。

 頭の中でいろいろな発想が交錯する。「本当にこんなことが実現するだろうか」と不安も募るが、心のどこかはわくわくしている。このノートが完成形になるかはわからない。あるいは、紙に書くだけで終わるかもしれない。それでも構わない。シルフィは今、前に進もうとしている。それが何より大切なのだと感じた。


 やがて夜になり、窓の外は深い闇に包まれた。静かな部屋に置かれたランプの灯りが微かに揺らめき、ノートの文字が淡く照らされている。両親はまだシルフィを大目に見ているだけで、全面的に協力してくれるわけではない。だが、いずれ話が具体化し、本当に領地や社交の場を巻き込んだ企画を進めるのであれば、家としても「娘の行い」を無視はできなくなるだろう。

 「私がやりたいこと、やるべきことをはっきりさせれば、きっと父や母だって考えを変えてくれる。そう信じよう……」

 口に出してみると、少しだけ力が湧いてくる。公爵家の婚約破棄という災難は、確かに大きな傷をもたらした。だが、もしこれが自分を新しい道へ導くための転機だったとしたら? それはまだわからない。けれど、こうして心を動かす原動力になっているのは事実だ。


 そして、シルフィは一筋の追い風を感じていた。新しい世界の可能性を教えてくれる人と出会えたこと、また社交界の華やかな上辺にとらわれずに意志を持ち始めたこと——すべては小さな芽に過ぎないが、丁寧に育てていけばきっと花開くと信じたい。

 「少しずつだけれど、これが私の未来……。私が自分の力で掴んでいく未来……」

 シルフィはランプの灯りを見つめ、そうつぶやく。まだ道半ば、どころか、道の入り口に立っただけかもしれない。それでも、婚約破棄によって何もかも失われたと思っていた心に、新たな息吹が吹き込まれるのを確かに感じていた。


 やがて、夜も更けていく。部屋の外を使用人が通り過ぎる足音がしたが、今のシルフィにはそれすら遠くのことのように感じる。筆を握る手を少し休め、ふう、と小さく息をつく。頭の中はまだ混沌としているが、ノートに綴った言葉の数々は、確かに彼女の未来へ繋がる一歩だ。

 明日になれば、まだ見ぬ困難や噂の声が再び彼女を覆うかもしれない。今もなお、公爵家との破談がもたらした影響は大きく、侯爵家の内部にさえシルフィに対する冷たい空気は残っている。それでも、ここで立ち止まらない。カリブが見せてくれた優しいまなざしと、伯爵家のお茶会で得た小さな自信が、明日へ踏み出す原動力になってくれるだろう。


 こうしてシルフィは、長く暗かった夜のトンネルを、少しずつ抜け出そうとしている。自分が本当にやりたいことは何か、自分が誰のために生きるのか。どちらも曖昧で、形にはなっていない。でも、自分の力で未来を掴むための道筋が、ようやく見え始めたのだ。もしかすると、これが彼女の人生においてもっとも大切な転機となるのかもしれない。

 どんな失意の底に沈んでも、人は光を見出すことができる。花の種が土の中で暗闇に耐えながら、やがては地上へ顔を出すように——。シルフィの中に眠っていた力も、今、ようやく芽吹き始めている。そして、その小さな芽を守り、育て、鮮やかな花を咲かせるのは、ほかでもない彼女自身の意志と行動にほかならない。


 窓の外は漆黒の闇だが、遠くからかすかに鳥の声が聞こえたような気がする。夜明け前の静寂、いつものはずなのに、今日は少しだけ違う。まるで新しい朝の訪れを祝福するかのような、かすかなさえずり——その音色に耳を澄ませながら、シルフィはノートを閉じ、明日に備えて瞼を下ろした。

 次の一歩は、どんな道を切り開いてくれるだろうか。まだ何もわからないけれど、確かなのは、もう後ろを振り返るだけの人生ではないということ。ラングレーに振り回され、家に疎まれ、噂に怯えるだけの生き方ではない。自分らしく生きる術を探し、己の力で未来を掴む。その決意は、ひとつの芽となり、やがてきっと春には花を咲かせるだろう。


 こうしてシルフィは、転機のさなかにいる自分を静かに見つめながら、少しだけ幸福な気持ちで目を閉じる。深い傷を抱えたままではあるが、そこから滲む痛みは、新たな生を育む養分でもある。第二章「輝き始める新たな人生」の幕は、いま音もなく上がり始めたばかりだ。彼女がどのように己の力で道を切り拓くのか、そしてどんな運命が待ち受けているのかは、まだ誰にもわからない。それでも、シルフィはここから歩み始める。自分の足で進むために——。







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