淡く晴れた冬の朝。シルフィは屋敷の書斎から見下ろす中庭の風景に目をやりながら、そっと息を吐いた。
ここ数日、彼女の心は以前に比べればいくぶん穏やかだった。自身が学んだ教養や技能を活かして、小さな形でも“未来を掴もう”と決心したことで、自宅に閉じこもっていた頃よりはずっと前向きな気持ちを保てている。カリブとの会話や伯爵家での小規模なお茶会が、自分にもまだ可能性があるのだと知らせてくれたのは大きかった。
とはいえ、周囲の噂が完全に鎮火したわけではない。ラングレーからの一方的な婚約破棄は、王都の社交界に強いインパクトを与えた。ラングレーの新たな婚約者・エリーザは多くの噂話の中心にいて、「美貌も才能も兼ね備えた伯爵令嬢」という触れ込みで、さながら新しい時代の象徴のように崇められている。実際、エリーザは巧みな言葉遣いや豪奢なファッションセンスによって、王宮貴族の間で瞬く間に注目を浴びた。
その一方で、「前の婚約者であるシルフィは何か落ち度があったらしい」「ラングレーが見限るほどの大失態を犯したのでは?」といった根も葉もない推測が飛び交い、シルフィの評判はまだまだ低空飛行を続けている。本人は表立って弁明する術を持たず、侯爵家もこれを大きく取り沙汰したくないという方針で黙殺している。シルフィがいくら動こうとしても、この“家の方針”の壁は厚い。
シルフィは深いため息をつきかけ、慌てて口を押さえた。ネガティブな感情に押し流されそうになるたび、「自分で決めたことを貫こう」と心に言い聞かせるのが最近の習慣だ。
「……これくらいでめげちゃだめ。少しずつでもいいから、ちゃんと進んでいかないと」
そう呟いて視線を戻すと、ちょうど廊下をステラが通りかかるのが見えた。彼女はシルフィを見つけるや否や、少し慌ただしい足取りで近づいてくる。
「お嬢様、失礼いたします。……あの、何やら本日、公爵家から客人がいらっしゃるとのことです。先ほど門番の者が申し上げておりましたが、まだ正式なお名前は伺えていないようで……」
公爵家。シルフィの胸がざわつく。ラングレーやその取り巻きが再び侯爵家を訪ねてくる理由などあるのだろうか。いや、まさか。
「あ……ありがとう、ステラ。まだ詳しいことはわからないのね?」
ステラは神妙な面持ちで頷く。
「はい。ラングレー様ご本人かもしれませんし、エリーザ様を伴っているのかもしれません。あるいは公爵家の使いの方が何かを伝えに来るのか……。いずれにしても、まもなく屋敷に到着するかと」
シルフィは呼吸を整えようとしたが、どうしても落ち着かない。ラングレーとは、あの婚約破棄以来まともに顔を合わせていない。あちらが一方的にシルフィを悪者扱いし、「新しい婚約者エリーザがどれほど素晴らしいか」を吹聴していたのは知っている。しかし、公爵家にとっても、いまさら破棄した娘の家に乗り込んでくるメリットはないのではないか——そんな疑問もわいてくる。
「わかったわ。ありがとう、ステラ。私に話をする相手かどうかはわからないけれど、とりあえず部屋で様子を見ているわ」
そう伝えると、ステラは心配そうに一礼して去っていった。
シルフィは書斎を出て、自室へと向かいながら、胸を押しつけるように手をやる。もし本当にラングレーが来たとして、いったい何の用なのか。破棄された立場の彼女としては、“今さら顔を合わせて何になるのだろう”という戸惑いが大きい。だが、何にせよ公爵家との応対は父母が中心になるはずだ。シルフィが直接呼び出されない限り、自分から余計な動きをするわけにはいかない。
落ち着かない時間が過ぎるなか、屋敷の玄関から人の出入りする物音が聞こえてきた。重厚な扉が開き、何人かの足音と挨拶の声がする。そして、そのあとに静寂。しばらくしてから、ステラが駆け足で自室にやってくる。
「お嬢様、ラングレー様がお父上にご挨拶にいらしております。が……今回、直接お嬢様と話したいとお伝えになられたそうです」
その言葉に、シルフィは思わず目を見張った。まさか、こんな形で再び話す機会が訪れようとは考えもしなかったからだ。
「……私に、何を話すつもりなのかしら」
自問しても答えは出ない。実際のところ、ラングレーとの対峙は想像しただけでも心が痛む。あれほど一方的に切り捨てられた過去を、今さらほじくり返されたくないのが本音だ。しかし、公爵家の嫡男が明確に「話をしたい」と告げている以上、侯爵家としても断るのは難しいだろう。シルフィも、下手に逃げ回って“見苦しい元婚約者”と思われたくはない。
「……わかったわ。お父様が取り次ぎを許すなら、会うことにする。ステラ、礼儀を逸しないよう、控えめに準備をしてくれる?」
シルフィの声は少し震えていたが、ステラはそれを気遣うように深々と一礼をし、ドアの外へ出ていく。
数十分後、シルフィは控え室として使われる小さなサロンに座っていた。父が「ここで話すように」と段取りを整え、ラングレーを案内した後、さりげなく退出したのだ。二人きりの空間。いや、侍女たちは部屋の外に控えているが、それはほぼ同じことだ。
ラングレーはシルフィの正面に立ち、以前と変わらない端整な顔立ちを見せている。ただ、どこか落ち着きのない気配があるようにも感じられた。
「……久しぶりだな、シルフィ」
まず、そう切り出したのはラングレーのほうだった。以前のような高慢な態度はないが、かといって親密さもない。どこか探りを入れるような、微妙に硬い声音だ。
シルフィは相手の瞳をじっと見つめる。婚約破棄のとき、ほぼ一方的に言葉を叩きつけられたあの光景が蘇るが、ここでは黙り続けても仕方がない。
「……何かご用ですか、ラングレー様。私はいま、あなたとの縁をすべて切られた身です。お話しするようなことなど、あまり思いつきませんけれど」
ここで敬称をつけるのは、貴族社会の作法として当然だ。しかし、少しの皮肉も混じっていることを自覚している。呼吸を整えながら、シルフィは対峙するラングレーの様子をうかがう。彼は一瞬言い淀んだ後、ようやく腰掛けた。
「そう、そうだな……。だが、だからこそ話をしたいと思ったんだ。お前が知っているとおり、僕はエリーザとの婚約を表立って進めている。公爵家としての正式な発表もすでに終わり、社交界での顔合わせも滞りなく済ませた」
シルフィは胸がちくりと痛む。もう完全に公爵家の婚約者はエリーザであり、自分は切り捨てられた存在であるという現実が、再度突きつけられたような感覚に襲われる。が、それでも何も言わず、ただ相手の言葉を待った。
「エリーザは……確かに社交の場では大変美しく評判も良い。僕も最初は、彼女こそが公爵夫人にふさわしい女性だと思い、シルフィとの婚約を破棄した。しかし——」
そこまで言いかけ、ラングレーの言葉は一瞬途切れる。続いて彼は、やや俯いたまま低い声でつぶやいた。
「——どうもエリーザには裏の顔があるようでね。公の場では華やかで気品もあるが、実際は……」
シルフィは言葉を失う。まさかラングレーが、自分の新しい婚約者を否定的に語るなど想像もしていなかった。噂に聞く限り、エリーザは王宮の華として君臨しているような印象だったからだ。だが、よくよく考えれば、自分の過去を悪者に仕立て上げたラングレーが、突然こうして“裏の顔”を打ち明けてくるというのは、ただ事ではない。
「どういう意味ですか。まさか私に、エリーザ様の悪口を聞かせようというのでは……?」
「そ、そういうわけじゃない。ただ……うちの家の文書管理を任せようとしたら、あまりにも政治や領地経営に興味がないのがわかったんだ。最初は、ただの苦手意識だと思っていたが、近頃はいよいよ怪しい。領地の財政に口を出すふりをして、実際は自分の装飾品や衣装に資金を回させようとしたり、怪しげな取引を持ち込もうとしたりしている節がある」
それを聞き、シルフィは血の気が引く思いだった。新しい婚約者が公爵家の財源を勝手に弄ぼうとしているのなら、家の運営に大きな影響が出るだろう。もっとも、ラングレーが完全に彼女を放任し、惚れ込んでいればこそ、そうした不正を見逃してしまう可能性もある。しかし、いまの彼はどうやらそこまで盲信してはいないようだ。むしろ、彼女の言動に疑念を抱き始めている。
「それなら、公爵家の当主やラングレー様ご本人が対処なさるべき問題でしょう。私にはもう関係がありません」
辛辣な言葉が思わず唇をついて出る。シルフィとしては当然の態度だ。自分を散々傷つけておいて、新しい婚約者が問題を起こしそうだから手助けしてくれ、というのはあまりにも都合が良すぎる。
するとラングレーは苦しげに表情を歪め、言葉を続けた。
「それはわかっている。僕も父も、エリーザがどんな目的を持って公爵家に近づいてきたのかを探ろうとしている。だが、どうにも決定的な証拠が掴めないんだ。そして、エリーザの名声は日増しに高まっている。もし不正や陰謀を疑っているのが明るみに出れば、逆に公爵家が立場を悪くする可能性もある……」
シルフィはラングレーの表情を見据える。そこには、かつて見たことのない焦燥感と困惑の色が浮かんでいた。彼がこんな苦しそうな顔をするなんて、想像もしなかった。もしかすると、ラングレー自身もまた、軽率な決断がもたらした“しっぺ返し”を受け始めているのかもしれない。
「……それで、私に何を求めているの?」
静かにそう問いかけるシルフィに、ラングレーは一瞬だけ視線をそらし、やがて小さく息を吐いた。
「正直に言おう。僕は、シルフィに戻ってきて欲しい……」
「……何ですって?」
シルフィは耳を疑う。戻ってきて欲しいとはどういう意味だろう。婚約をやり直すとでも言うのか? 冗談ではない。彼女は椅子の肘掛けを強く握り、怒りとも嘲笑ともつかない感情がこみ上げてくるのを必死に抑える。
ラングレーは、少し言葉を探るように口を開く。
「もちろん、すぐに婚約を元に戻すというわけではない。だけど、公爵家の経営にはシルフィのような存在が必要だと痛感している。お前が長年培ってきた礼儀作法や教養、家を支える真面目さ——あれらは僕が思っていた以上に、家や領地のために大きな力となる。いまのエリーザは、ただ自分の名声や欲得のために動いているようにしか思えない。……父もお前を惜しんでいるし、改めてシルフィに協力を頼みたいというのが、僕の本音なんだ」
あまりにも身勝手な提案だ。シルフィは怒りと呆れが入り交じった複雑な感情に駆られた。かつては自分を「ふさわしくない」と切り捨てておいて、新たな婚約者が信用ならないとわかった途端、「やはりお前が必要だ」というのは、あまりにも都合が良すぎる。
「冗談じゃありません。どうして私が、あなたの思惑に都合良く合わせなければならないの? あなた方は私を傷つけたうえ、一方的に悪者扱いしてきたでしょう? それをお忘れになったわけではないですよね」
思いきってそう言い放つと、ラングレーは苦い表情を見せた。さすがに罪悪感はあるのだろう。それでもなお、彼は絞り出すように言葉を続ける。
「確かに、僕はお前を蔑ろにした。それは認める。……だが、あのときは本当にエリーザこそが相応しいと思っていた。シルフィは大人しく、いかにも古風な侯爵家の娘らしいから、今の時代には派手さが足りないと思い込んでいたんだ。でも、いま思えば、お前が必死に学んできたものこそが本物の力だったんだと、今さらながら痛感している」
ラングレーの口調には、確かに後悔の色がある。かつての彼の傲慢さを思えば、これは相当の心変わりだろう。だが、それでもシルフィにとっては簡単に受け入れられる内容ではない。もはや彼と再び愛を育む気持ちなど、毛頭ないのだから。
「……お気持ちはわかりました。でも、あなたとエリーザ様の間には正式な婚約がある。私はあなたの助力をするために存在しているわけではありません。こんなことを言うのは失礼かもしれませんが、あなたご自身の手で、あなたが選んだ相手を制御なさるべきです。私を頼らないでください」
そうきっぱり伝えると、ラングレーは眉を寄せた。やはり、予想していた返事とは違うらしい。
「そんなことを言わずに……。お前だって、いまの立場は難しいだろう? 公爵家の名を必要としているのはそっちだって同じじゃないのか?」
聞き捨てならない言葉に、シルフィは鋭く目を見開く。婚約破棄以来、家の評判は確かに落ちているが、それを人質のように使われる筋合いはない。
「いいえ、私はあなたの“助け”など必要としていません。私自身の道は、自分の力で切り開くと決めています。あなたが私を必要とするからといって、私がそれに応じる義理はどこにもありません!」
ラングレーは、思わず立ち上がったシルフィを見上げるようにして、一瞬言葉を失った。もともと大人しかったシルフィがここまで強い調子で拒絶を示すなど、想像していなかったのだろう。しかし、その驚きの表情に、シルフィはかすかな痛快感を覚える。
彼女は唇を震わせながらも、明確な意志を込めて視線を返す。
「あなたが私を信じなかったように、もう私もあなたを信じられません。……お引き取りください、ラングレー様。これ以上、お話しすることはありません」
それは、言葉にすればほんの短い時間だったが、シルフィの人生を大きく動かす“決別”の瞬間だった。かつて愛し、全身全霊で支えようとしていた人を、心から拒絶するという行為。それがどれほど辛く、また一方でどれほど解放感をもたらすのかを、彼女はまざまざと感じていた。
ラングレーは最後まで何か言いたげだったが、シルフィの意志が硬いことを悟ったのか、眉をひそめたまま立ち上がり、足早に部屋を出ていく。その背中を見送るシルフィの心には、複雑な思いが渦巻いていた。
「こんな形で再会するなんて……。私、でも、はっきり拒絶できてよかった」
そう自分に言い聞かせる。ラングレーがいま手にしているのは、まさに“偽りの幸福”なのだろう。傍にいる新しい婚約者・エリーザは、どうやら公爵家を蝕む存在である可能性が高い。しかし、それを選んだのはラングレー自身だ。彼が簡単に手放したシルフィを、「やっぱり本物はお前だった」と言って呼び戻そうとしているのだから、あまりにも自分勝手だ。
胸の奥に広がるのは安堵とわずかな痛み、そしてほんの少しの虚しさ。もし、ラングレーがあのとき、結論を急ぐことなくシルフィの内面を理解しようとしてくれていたら——そんな“もし”を考えてしまう自分が嫌になる。しかし、もう過去に戻ることはできない。彼女は、はっきりと前に進むと決めたのだ。
心が乱れていたので、その日は一日中、屋敷の中を落ち着かずに過ごすことになった。両親から「いったいラングレー様と何を話したのか」と尋ねられたが、シルフィは詳しく答えず「以前の縁は戻らない、ということになりました」とだけ告げる。両親は複雑そうな表情を浮かべたが、ラングレーが帰った後に彼らと交わした会話からおおよその事情を察しているのだろう、多くは問い詰めてこなかった。
翌朝。シルフィはいつものように目を覚まし、薄い朝日を浴びながらノートのページをめくる。ここには“自分がこれからやりたいこと”のアイデアが走り書きされている。婚約破棄の痛手から立ち直ろうともがく中で、何とか自分を奮い立たせようと作った“未来の計画書”だ。
昨日の衝撃的なラングレーとの再会によって気持ちは揺さぶられたが、それでも「やっぱり私は自分の道を歩むのだ」という想いが、ノートの文字を見るたびに強まっていく。彼が偽りの幸福に揺れるのであれば、自分は本物の幸せを掴みにいくしかない。かつてラングレーに注いだ情熱を、今度は自分自身のために注ぐのだ。
その日の昼頃、シルフィが温室で花の世話をしていると、ふとステラがやってきて、小さな封書を手渡してくる。見ると、伯爵家の紋章が押されており、差出人はカリブだった。
「お嬢様、こちらが今朝届けられました。かなり急を要するご用件のようです。お茶会のときに話されていた“ハーブのレシピ”についてかもしれませんわ」
ステラは微笑みながら封書を差し出す。シルフィはどきりと胸を弾ませ、急いでそれを開いた。中には手紙と、いくつかのメモ用紙が入っている。手紙には、カリブの丁寧な筆跡でこう書かれていた。
> 先日はお茶会に来てくださり、ありがとうございました。
突然ではありますが、領地でのハーブ栽培に関して、ぜひシルフィ様のご意見や知識をお借りしたいと思っております。
近々、小規模ではありますが“薬用植物と食用花を組み合わせた研究”の話し合いを開く予定です。
もしご都合が合うようでしたら、ぜひご参加いただけませんか?
それによって、シルフィ様が描いているレシピやアイデアを共に形にしていけたらと願っております。
詳細はメモに記載いたしましたので、ぜひご一読ください。
カリブ・アルモント伯爵家 次男
同封のメモを確認すると、具体的な日程や場所、研究に参加する予定の薬草農家や学者の名前、そして実験的に栽培する花やハーブのリストが書かれていた。
これを読んだ瞬間、シルフィの胸は高鳴る。この誘いはまさに、彼女が新たな人生を切り開くための一歩になるかもしれない。ラングレーとの“過去の縁”に振り回されるのではなく、自分らしい道へと進むためのチャンスが、まさに手元にあるのだ。
温室の花たちが、あたたかな陽射しを浴びて優しく揺れている。シルフィはその姿を見つめながら、そっと手紙を抱きしめた。冷たく結んでいた唇が自然とほころび、昨日までの暗い感情が、まるで闇夜の霧が晴れるように消えていくのを感じる。
「偽りの幸福」に振り回されるのは、もう終わりにしよう。ラングレーとエリーザがどうなろうと、それは彼ら自身が解決すべき問題。シルフィにはシルフィの人生がある。自分を見下した相手がいまさら助けを求めてきたところで、そんなものに付き合う必要などない。むしろ、もっと広い世界を見て、多くの人と関わって、本当の自分を見つけたい——そう強く思えた。
心に浮かぶのは、カリブの穏やかな笑顔。彼の領地でどんな研究会が開かれ、どんな人々が集まるのかはわからない。しかし、シルフィには確信がある。これこそが、自分が蒔いた“新しい種”を育てるための好機なのだ、と。
シルフィはさっそく書斎へ駆け込み、先日引っ張り出した“ハーブと食用花”のレシピノートや栽培の知識を書き綴った記録を広げる。気づけば、かつて婚約者のために必死で学んでいた情報が、今の自分のために活きているということが何とも皮肉で、でも誇らしかった。
「さあ、始めるんだわ。私が本当に掴みたい未来を」
その言葉に、どこか迷いはなかった。ラングレーとの“過去の縁”がどんなに揺れ動こうと、もう自分の決意を変えることはない。彼がいま抱えている偽りの幸福と、その裏に潜む不幸は、もはやシルフィの問題ではないのだ。
昼下がりの柔らかな光が、窓から差し込む。その光を浴びながら、シルフィはノートにペンを走らせる。表面上はまだ「公爵家から捨てられた娘」という目で見る人が多いかもしれない。けれど、そんな周囲の評価に足をすくませていては、いつまでも前に進めない。
自分の力で人生を切り開く——それは決して簡単な道のりではないだろう。だが、カリブという理解者がいて、自分の意欲を活かせる場があるならば、もう一度だけ夢を見てもいいのではないか。花やハーブに関する知識は、単なる貴族の“たしなみ”にとどまらず、人々の暮らしを豊かにする可能性を秘めている。それを形にするために、自分の経験や情熱を注ぐことができるのなら、きっとここから先は、ただの“捨てられた娘”で終わらない。
ペンを走らせるたび、シルフィの胸には新たな希望が芽生える。ラングレーの来訪は確かに彼女の心を波立たせたが、むしろそのおかげで“自分はもう過去に縛られない”と明確に宣言できたのだ。偽りの幸福を手にしているのは、かつての婚約者。自分はそれに同情も手助けもせず、ただ未来へと踏み出すだけ。
いつの日か、彼女が生み出す新しい事業や交流が、王都の人々にも大きな影響を与えるかもしれない。あるいはカリブの領地がより豊かになり、その成功を目の当たりにした人々が、シルフィの実力を認めるかもしれない。その日が来れば、“婚約破棄された哀れな娘”という烙印は、完全に消え去るだろう。
そう思うと、心は軽く、力が湧き上がってくる。裏切りによる悲しみは相変わらず胸の奥に沈んではいるが、それはもう前に進む決意を邪魔するほどの重さを持ってはいない。
こうして、第二章「輝き始める新たな人生」のセクション2「偽りの幸福に揺れる過去の縁」は、シルフィがラングレーとの決別を経て、本当の意味で一歩を踏み出す様子を鮮やかに映し出す。ラングレーとエリーザの間に広がる“偽りの幸福”の歪みは、今後さらなる波紋を呼ぶかもしれない。だが、それはもうシルフィにとって重要なことではない。彼女が進む道は、過去とは切り離された新しい未来の道筋だ。
手元のノートを眺めながら、シルフィは微笑む。自分だけの力で、無駄だと思っていた教養や知識を活かして、きっと誰にも文句を言わせない人生を歩むのだと、あらためて心に誓う。いつか、偽りではない本当の幸福をつかむために——。
外は冬の空気が冷たく頬を刺すようだが、窓越しに差す陽光はどこか優しく、シルフィを包み込んでいた。彼女は窓辺に立ち、もういないラングレーの背中を思い出す。そこに未練はほとんどない。ただ一瞬、「どうか、あなたも自分で選んだ道を自分でなんとかしなさい」と胸の中でつぶやき、そして次の瞬間には、その思いすら潮が引くように消えていった。
偽りの幸福に揺れる過去の縁。それはもはやシルフィには関係のないこと。残されたのは、これから自分が歩む道への期待と、ほんの少しの不安、そして確かな決意だけだった。大切な人々と共に、美しい花やハーブを咲かせる未来。それこそが、シルフィが本当の意味で輝き始める一歩になるに違いない。