冷たい風が吹き荒れる冬の夜。シルフィは侯爵家の屋敷を抜け出し、人気の少ない裏道へと足を急がせていた。例の“影”から届いた二通目の手紙に、ラングレーとの密会の日時と場所が指定されていたのだ。密会――たとえその響きに警戒心を抱かざるを得なくとも、いまは避けて通れない。婚約破棄の真相、そしてエリーザをめぐる陰謀を解き明かすためには、どうしてもラングレー本人と話さねばならないからだ。
周囲は暗く静まり返り、住宅街から少し外れた裏路地にはほとんど街灯もない。見上げると厚い雲が月明かりを遮っていて、夜の帳がひっそりと王都を包み込んでいる。シルフィはマントのフードを深く被りながら、そばを歩く侍女のステラへ小声で話しかけた。
「ステラ、大丈夫? 寒くはない?」
「はい、お嬢様。わたしより、お嬢様こそ……。もし危険なことがあれば、私が全力でお守りします」
ステラの声は少し緊張に震えていたが、その言葉には覚悟がにじむ。シルフィはここ数日、彼女にだけは“影”の話と、ラングレーとの再会に踏み切る理由をすべて伝えていた。ステラ自身も不安はあるだろう。けれど、彼女は最後までシルフィのそばにいると誓ってくれた。その心強い思いが、シルフィの歩みを支えている。
やがて二人は、王都の外れにある取り壊し寸前の古い倉庫へと辿り着いた。そこが今回、ラングレーとの“秘密の再会”の場として“影”が指定してきた場所だ。入り口の扉はわずかに開いており、中からかすかな明かりが漏れている。人気のない夜半のこととて、物音ひとつ聞こえない静寂が漂っていた。
シルフィは心臓の鼓動を意識しながら、そっと倉庫の扉を押し開ける。すると、薄暗い空間に一本だけ灯されたランプがあり、そのかたわらに立つ人影が目に入った。ラングレーだ。彼もまたマント姿で、帽子を深く被っているが、顔を見れば間違いなくラングレー公爵家の嫡男とわかる。ここまで姿を隠しているのは、やはり人目を避ける必要があったからなのだろう。
彼はシルフィとステラの姿を認めると、少し驚いたように目を見開き、しかしすぐに表情を曇らせた。
「……まさか、お前が本当に来るとは思わなかった」
第一声からその調子か、とシルフィは心の中でため息をつく。だが、怒りをぶつけることを今の目的とはしていない。ここへ来たのは、自分が受けた婚約破棄の真相を問いただし、そしてエリーザをめぐる陰謀を明らかにするため。冷静さを失ってはいけない――そう自分に言い聞かせる。
「私だって、こんな夜更けに呼び出されるのは本意ではありません。けれど、あなたが“影”を通じて私に“直接会いたい”と伝えてきたのでは?」
そう言い返すと、ラングレーは目を伏せたまま、「まあ……そうだな」と小さく頷いた。先日、侯爵家を訪ねて「お前が必要だ」と言い出したときとは違い、どこか歯切れが悪い印象がある。公爵家嫡男としての威厳はどこへやら、その様子に少し違和感さえ覚える。
「……君に聞きたいことがあるんだ」
ラングレーがポツリと口を開く。彼の声には焦燥に似たものが混じっているように感じられた。
「聞きたいこと? 私に?」
「そうだ。最近になって、僕はエリーザがやたらと公爵家の財政に口出ししてくるのが気になっていた。……それだけじゃない。領地での商会との取引、さらには王宮の貴族派閥との繋がりも、どうも怪しい。だが、彼女を問いただそうとしても、うまくはぐらかされるばかりだ」
それはシルフィが“影”から聞かされた話と概ね一致する。もっとも、ラングレーはそれを「陰謀」というほどはっきり疑っているわけではなさそうだが、少なくともエリーザに大きな不信を抱き始めていることは確かだ。
「エリーザ様の目的は何だろう、とあなたは考えているの?」
シルフィがそう問いかけると、ラングレーは唇を嚙みしめ、倉庫の壁に寄りかかった。
「わからない。まだ確証はない。……だが、最近の彼女は以前に比べて、いよいよ“公爵夫人”になったあとの権限を振りかざすような言動が増えてきた。僕や父が苦言を呈しても、まるで意に介さないと言うか……。いったい、何を企んでいるのか」
そこまで言って、ラングレーはシルフィをじっと見つめる。彼の瞳にはかつて見せたことのない弱さが混在していた。
「……もしかしたら、君は婚約破棄のとき、彼女の言動に何か気づいていたのか? あるいは君自身が何かして、エリーザを怒らせたのかもしれない。そうなら、教えてほしい」
あまりに身勝手な推測に、シルフィは胸中に軽い怒りが燃え上がるのを感じた。しかし、ここで衝突しても得るものはない。過去の痛みを抑え込み、なるべく冷静に言葉を選ぶ。
「怒らせるも何も、エリーザ様と直接会話を交わした機会は一度もありません。私が婚約破棄を言い渡されたときから、向こうは“勝ち誇った顔”をしているだけ。あのとき、私は理由すらろくに知らされなかったのに、あなたたち――公爵家のご当主やあなた――は私を切り捨ててしまったでしょう?」
するとラングレーは気まずそうに顔をしかめる。自分の行いがどれほどシルフィを苦しめたのかは、さすがにわかっているのだろう。
「……それは、僕の落ち度だと今では思っている。あのとき、エリーザは“シルフィには領地管理の才能がない”とか“公爵家の評判を下げかねない地味で乏しい魅力しかない”とか、そういうネガティブな話ばかりを強調してきた。自分をよく見せるためとは思わなかった。……いや、今にして思えば、あまりにも一方的すぎたのだけど」
「――ようやく気づいたの?」
思わず皮肉めいた口調になる。ラングレーは苦い顔で黙り込んだ。倉庫の中には冷たい隙間風が吹き込み、ランプの炎が揺らめく。ステラは少し距離を置いて見守っている。
しばしの沈黙の後、ラングレーは意を決したように言った。
「この前、侯爵家を訪れたときにも言ったけれど……シルフィ、僕はお前の力を必要としている。いまさらすぎるかもしれないが、やはりお前が長年培ってきた家や領地運営に対する姿勢、そして品位、そういうものこそが公爵家には必要なんだと痛感しているんだ」
「――でも、私は、あなたに協力するつもりはない。もうはっきりとそう伝えたはずよね?」
シルフィはすげなく言い放つ。ラングレーは苦しそうに表情をゆがめ、次の言葉を探すように視線をさまよわせる。
「……わかっている。それでも、今の公爵家は危うい。エリーザが何か裏で手を回しているのは間違いないが、具体的な証拠が掴めないまま、僕たちは彼女のいいように動かされている。もし領地の財政が彼女に牛耳られ、やがては“反王家の派閥”に利用されるようなことになったら……最悪、父が公爵位を失うだけでは済まない。王国全体が混乱に陥りかねない」
やはり、ラングレー自身もただの嫉妬や不信感だけでエリーザを疑っているわけではないのだろう。彼の言う“反王家の派閥”――それはシルフィが“影”から聞かされた情報とも繋がる重大なキーワードだ。もし、このまま放置すれば公爵家の影響力を悪用され、王国に波紋が広がることは想像に難くない。
だからといって、自分が協力しなければならない義理はない――そう言いたい気持ちがシルフィにはある。過去に受けた仕打ちを思えば、当然の抵抗感だ。だが同時に、“影”からの依頼も脳裏をよぎる。自分がラングレーと話をすることで、何か大きな歯車を動かせるかもしれない。“影”はそれを期待して、ラングレーとの密会を取り持ったのだ。
「……あなたは、私に何をしてほしいの? 『戻ってきてほしい』と言われても、私は婚約を破棄された身。いまさらそちらに協力するなんて馬鹿げているわ」
自分で口にしても、胸にざわつくものがある。だが、ラングレーは弱々しく首を振った。
「わかっている。本当に戻ってくれなどと言うつもりはない。正直、父は……いまでもお前を評価している。自分たちの過ちに気づいている。だが、それでお前が許してくれるわけもない。だから……」
一呼吸のあと、ラングレーはまっすぐシルフィの目を見据える。その瞳には決意の色が浮かんでいた。
「……どうか、エリーザが裏で何をしているのか、その証拠を掴むのに協力してくれないか。お前は、彼女が仕掛けた婚約破棄の最大の被害者だ。だからこそ、たとえ些細な情報でも、彼女の動向を探る手がかりになり得る。僕や父だけでは、彼女の巧妙な言動に踏み込めないんだ」
そんなことを頼むなんて、どこまで自分勝手なんだろう――そう思う自分がいる。一方で、王国全体を巻き込む危険が迫っているというのも事実だ。シルフィは奥歯を噛みしめ、険しい表情を浮かべた。
「……私が協力したところで、何ができるというの。エリーザ様はあなた方にとって『現婚約者』でしょう。私が首を突っ込めば、ますます敵意を向けられるだけじゃない」
「だから、なるべく秘密裏に動く。お前は昔から礼儀作法や人脈を使って、繊細な状況を乗り越えてきただろう? もし、お前が社交界で培ってきた“情報収集”のやり方を使ってくれるなら、エリーザの弱みが見つかるかもしれない」
思わず嗤(わら)ってしまいそうになる。かつては“地味で魅力に欠ける”と見下され、婚約破棄されるまでの間ずっと「公爵夫人にふさわしくなるため」と努力してきた自分の力を、ここへきてラングレーは頼ろうとしているのだ。それも“情報収集”という、一歩間違えば危険な行為に――。
シルフィは深いため息をついた。以前なら、ラングレーの役に立つことこそが幸せだと思っていたかもしれない。だが今は、違う。自分が動くのは、“誰かのために”ではなく、“自分の意思”と“王国の平穏”のためだ。
「……わかった。協力するかどうか、今すぐ答えは出せないわ。だけど、あなたの話を聞いて、黙って見過ごせないとも思った。エリーザ様にやりたい放題されるのは、私にとっても悔しいことだから」
その返答に、ラングレーの表情は少し明るくなったが、同時にどこか切ない色も帯びる。
「……ありがとう。いや、すまないと言うべきかもしれない。お前にこんなことを頼む資格などないのに」
シルフィは返事をしない。ただじっと、ラングレーを見つめる。かつて愛した相手の面影がそこには確かにある。だが、それはもう過去のことだ。感傷に浸っている暇はないし、ましてや関係修復を望んでいるわけでもない。
不意に、倉庫の扉がきしむ音が聞こえ、三人が一斉にそちらへ振り向く。そこには、見覚えのある“影”の姿があった。フードを目深に被り、暗がりに立つその人物は、シルフィたちを見回しながら小さく呟く。
「どうやら、話は一段落ついたようだね」
ラングレーは即座に眉をひそめた。
「お前は……誰だ? 姿を隠しているが、僕にこの密会を提案してきたのは、お前だったのか」
「さよう。だが、自己紹介をする気はない。私の目的は、エリーザが背後に抱える危険な派閥の動きを止めること。公爵家が利用されれば、王国の未来も危うい――それは、君自身も理解しているだろう?」
“影”の言葉に、ラングレーは神経を逆立てたように険しい表情を見せるが、否定はしない。実際、エリーザへの不信感をきっかけに、こうして密会まで応じているのだから。
「……お前はエリーザの陰謀をどこまで知っている? 仮に事実だとして、なぜシルフィを巻き込む必要がある? お前が直接、王宮や貴族議会に訴え出ればいいだろう」
まくし立てるラングレーに、“影”は小さく嘆息するような素振りを見せた。
「証拠が足りない。いま告発しても“虚偽の噂だ”と跳ねのけられて終わる可能性が高い。それに、エリーザの背後にいる勢力は巧妙で、こちらの内部にも手を回している可能性がある。まずは、君自身が“エリーザを公爵家から排除する”動きを取らなければ、王国側も動きづらいんだよ」
「……それで、シルフィを利用するというわけか」
ラングレーが忌々しげに言葉を吐き出す。だが、“影”は平然としている。
「利用という言い方は心外だが、彼女の存在が不可欠なのは事実だ。シルフィはかつて公爵家の婚約者として内部をよく知り、なおかつエリーザの策略によって不当に破棄された当事者。……ラングレー公爵家が彼女をないがしろにした過去があるからこそ、いま協力を頼むのなら、よほどの誠意と覚悟を示さなければならない。それを理解しているのか?」
その問いに、ラングレーは苦い顔をしたまま言葉を失う。しかし、やがてうっすらと目を伏せて静かに頷いた。
「わかっている。……僕は、自分が何をしでかしたのか、その重みを受け止めるしかない。たとえ、シルフィから痛罵されようが拒絶されようが、今は公爵家を守るために道を探るしかないんだ」
その言葉を聞きながら、シルフィは自分の胸が微妙にざわつくのを感じた。もしかしたら、ラングレーもまた、“影”に促される形でこの密会に応じざるを得なかったのかもしれない。いわば、自分と同じ立場――“選択の余地がない”という意味で巻き込まれているのだろう。
話が一段落すると、“影”はラングレーとシルフィを交互に見やった。
「これから先、エリーザの動向を探り、反王家派閥との繋がりを示す証拠を掴むことが必要だ。君たちが手を取り合えとは言わないが、共通の目的のために情報を共有することが急務だろう。シルフィ、君には前に言ったとおり、危険も伴うかもしれない。それでもやる覚悟はあるか?」
“影”の問いかけに、シルフィは自分の中に生まれつつある決意を確かめるように、ゆっくりと深呼吸をした。すべては、自分が受けた理不尽な婚約破棄、そして王国を救うかもしれない未来のため。もう後戻りはできない。
「……やります。わたしも、ずっと黙っていたら後悔する。あの婚約破棄の真相を知りたいし、エリーザ様の好き勝手にはさせたくありません」
はっきりと告げると、ラングレーは小さく唇を引き結ぶ。そして、力無い声で言葉を継いだ。
「……頼む。僕は父と協力して、公爵家の内側からも証拠を探る。もし何か気づいたことがあれば、すぐに知らせてほしい。逆に、危険が迫ったときは……お前を守るために動く。少なくともそれだけのことはしたい」
かつてはシルフィを守ると言いながら、自分の都合で彼女を捨てたラングレー。だが、彼の目に宿る必死さは、あの頃とは違うように見えた。自分の過去の軽率な判断が、ここまで事態を悪化させてしまった――その罪悪感があるのかもしれない。
もちろん、シルフィは簡単に彼を許すつもりはない。しかし、自分一人の力だけでは大きな陰謀に立ち向かえないのも確か。仕方がないという思いで、シルフィはその申し出を受け止めるしかなかった。
“影”はそれを見届けると、小さく頷いてからランプの灯りから半歩退き、再び暗闇の中へ姿を溶かすようにして言う。
「決まりだな。いずれ、私からも連絡を入れる。どうか慎重に動いてほしい。証拠が見つかれば、私も水面下で最大限の力を貸すつもりだ。……ここは夜分で危ない。人目を避けて戻るといい」
そう告げて、フードを被ったまま音もなく倉庫を去っていった。“影”の行動は依然として謎めいているが、少なくとも今のところは敵対する様子もなく、エリーザの陰謀を阻止したいという点で一致しているのは確かだろう。
やがて倉庫にはシルフィ、ステラ、そしてラングレーの三人だけが残された。やけに広く感じられる薄暗い空間に、冷えた風が吹き抜ける。沈黙を破ったのはラングレーだった。
「ここまで付き合わせて、すまない。シルフィ……お前は、すぐ屋敷に戻るか?」
「ええ。これ以上の長話は無用でしょう。……今回の密会、わたしも人に知られたくありませんし」
シルフィの態度は冷たい。それを受けて、ラングレーも反論することなく目を伏せた。名残惜しそうな様子を見せるのは、もはや遅すぎるというものだ。彼は別れ際に一言だけ付け足すように言う。
「……どうか、気をつけて。エリーザの取り巻きが、お前に何か仕掛けてくるかもしれないから」
それを聞いて、シルフィはかすかに苦笑する。自分を捨てた相手に守られる立場など、冗談ではない。しかし、まったくの無関心でいるよりは、まだマシなのかもしれない。
「わたしに構うより、まずはあなた自身がエリーザ様に飲み込まれないように気をつけて。……では、失礼します」
それだけ言い残し、シルフィはステラとともに倉庫を出た。振り返らずに早足で裏路地を進み、侯爵家へ戻る道を探す。深夜の寒風が肌を刺すように冷たく、マント越しでも体が震える。だが、今は体の寒さ以上に、胸の奥に重くのしかかる思いが苦しかった。
“過去との決別”を心に誓っていたのに、再びラングレーと手を携える形になりそうだ。公爵家の破滅を望んでいるわけではないし、王国の平穏を守りたい気持ちも確かにある。けれど、これまで踏みにじられた自分の人生を思えば、わだかまりがそう簡単に消えるはずもない。
「お嬢様……」
ステラが心配そうに声をかける。シルフィはかすかに微笑もうと試みたが、うまくいかなかった。
「大丈夫よ、ステラ。……わたしは、ただ真実を知りたいだけ。エリーザ様の陰謀が本当に王国を脅かすなら、それを止めたい。結果的にラングレーが助かることになったとしても、それは仕方ないわ。わたしは……前を向きたいもの」
彼女の言葉に、ステラは「はい」と静かに頷く。夜道を歩く足音がひっそりと響き、まるで二人を急かすように冷たい風が背を押していた。