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第7話

 冬の朝の凛とした空気の中、シルフィはいつものように屋敷の温室で過ごしていた。まだ夜明けの名残を感じる早朝だが、すでに何本かの花に水を与え、土の乾燥具合を確かめている。冷えきった土に触れる指先はかじかんでいるが、その作業に集中することで、今の自分を落ち着かせることができた。


 思えば、ここ数週間は怒涛のように過ぎ去った。かつての婚約者ラングレーと協力するという、想像もしなかった展開。エリーザが背後で糸を引く“反王家派閥”の陰謀を暴くため、シルフィは“影”と呼ばれる謎の人物を仲介役として、仕方なくラングレーと情報をやり取りしてきた。

 かつて受けた屈辱と痛みはいまだに癒えてはいない。だが、王国全体の混乱を防ぐため、そして何より“自分の人生を取り戻す”ためには、この道しかないと決意している。もしこのままエリーザの横暴を見過ごせば、公爵家だけでなく他の領地や大勢の人々にまで被害が及ぶ可能性があるからだ。


 表向きは「婚約者として輝かしい未来」を約束されているように見えるエリーザ。しかし、彼女の正体は政治的混乱を画策する派閥の手先なのではないか――そう確信を深めるにつれ、シルフィの胸には暗い不安が広がっていた。これまでは単に個人的な“ざまあ”を求める感情もあったかもしれないが、いまはもっと大きな責任感が芽生えている。かつて“捨てられた侯爵家令嬢”だった自分が、こんな重大な事態に関わることになろうとは想像もしていなかったが、逃げるわけにはいかない。


 温室の扉を開け放ち、清浄な外気を吸い込む。冬の朝日は弱々しいが、ガラス越しに差し込む光が花々をやわらかく照らし出している。その様子を見つめながら、シルフィはふと口元を引き結んだ。


「……あの人、どうしているかしら」


 そう呟いたのは、ラングレーのことではない。最近、ほとんど顔を合わせられていない伯爵家の青年、カリブのことだ。彼は領地での薬草研究に本腰を入れるため、一度王都を離れている。シルフィも本来なら、彼の領地で一緒にハーブや食用花のプロジェクトを進める予定だったが、エリーザにまつわる陰謀が明るみに出始めたため、今は王都に残らざるを得ない状況になっている。


 カリブはシルフィの抱える事情を大筋で知り、理解を示してくれた。「王国が危機に陥るかもしれないのなら、自分も協力を惜しまない」と言っていたが、具体的な協力体制を築く前に領地へ戻らなければならなくなったのだ。それでも彼は去り際に、はっきりと言った。


「あなたの中に眠る力を、どうか信じてください。シルフィ様には、まだまだ可能性があると、僕は思っています」


 その言葉はシルフィの心を深く支え、また温める。ラングレーからの裏切りで深く傷ついた自分にとって、心の底から尊重され、励まされるというのがどんなに嬉しいものか――それを教えてくれたのは、まぎれもなくカリブだった。そして、そんな優しさをまっすぐに受け取るたびに、彼への思いが少しずつ大きくなっている自分に気づかないわけにはいかない。


 しかし、いまは恋愛に心をときめかせている余裕などない。もしエリーザの陰謀が本格化し、公爵家が反乱分子に利用されるような事態になれば、王国全体が不安定になる。それに巻き込まれれば、カリブの領地も、彼とともに温めてきたプロジェクトも、すべて失いかねない。だからこそ、シルフィは一刻も早くエリーザの計画を白日の下に晒し、王家や有力貴族たちが正式に動き出せる環境を整えなければならないのだ。


 そう自分に言い聞かせながら温室を出ると、ちょうど侍女のステラが駆け足でやってくる。彼女は少し興奮した様子で息を整えながら、シルフィに告げた。


「お嬢様、先ほど“影”様から伝令の者がいらっしゃいました。ラングレー様と公爵家当主が、王宮の一角にある小会議室で密談を行うそうです。そこでエリーザ様の怪しい動きを記録した書類を確認するとのことで、“シルフィお嬢様にも来ていただきたい”とのことでした」


「王宮の……小会議室?」


 シルフィは驚きつつも、すぐに心がざわつく。おそらく、これは“影”が手配してくれた機会なのだろう。ラングレーや公爵家当主が、何らかの証拠を見つけたか、あるいは“影”から資料を受け取ったか――いずれにしても、エリーザの動向に関する重大な手掛かりに違いない。


「わかったわ。すぐに支度をする。ステラ、あなたもついてきてくれる?」


「もちろんです、お嬢様。……ですが、王宮の中は監視の目もありますし、入館手続きも必要になります。“影”様が既に手配してくださったとはいえ、緊張いたしますわ」


「ええ、私もよ。……でも、ここで恐れていては何も進まないから」


 そう言うと、シルフィは侍女とともに急いで着替えを整え、馬車の準備をさせた。王宮へ向かう道中、彼女の胸は高鳴りと不安でいっぱいになる。かつてはラングレーの婚約者として、“将来はしばしば王宮へ出入りする身分”になるのが当然だと信じていた自分。しかし、今こうして王宮の門をくぐるときの心境はあの頃とは全く違う。恋い焦がれた夢の舞台ではなく、“危機を食い止めるための戦場”として足を踏み入れるのだ。


 王宮の門衛は、事前に提出された“影”の手配書類を確認し、慎重にシルフィたちを通した。どうやら「公爵家の客人として極秘の用件がある」という扱いになっているらしい。下手に目立つことは避けたいので、厚めのコートと地味な帽子を被って顔を隠すようにする。かつての華やかなドレス姿で王宮を訪れた頃とは比べ物にならないほど慎重に、シルフィは石造りの廊下を歩いた。


 案内された小会議室は、通常あまり使われていない場所のようで、扉を開けると中は薄暗い。窓が小さく、光量が限られているせいで室内は深い影に包まれているが、それがむしろ秘密の密談には好都合かもしれない。そこにいたのは、ラングレーと公爵家当主、そして“影”の姿だった。公爵家当主――ラングレーの父は、以前シルフィを「ふさわしくない」として容赦なく切り捨てた張本人でもある。その人を目の前にすると、さすがに心が軋む思いがした。


「……シルフィ嬢、よく来てくれたな」


 そう言って頭を下げたのは、公爵家当主本人だ。歳は五十代半ばほどだろうか。立派な髭を蓄え、威厳のある物腰をまとっている。かつてはシルフィのことを“ラングレーにとって役不足”と評していたと聞かされているが、今の彼は厳かな表情とともにどこか謝罪の色を浮かべていた。


「このような形で再び会うことになろうとは、私も思わなかった。……お前には、本当に酷いことをしたと思っている。だが、今は王国の未来がかかっている事態だ。どうか、私どもに力を貸してほしい」


 その言葉を、シルフィはすぐには受け止めきれなかった。あまりに遅すぎる謝罪であり、あまりに虫のいい頼み。けれど、ここで感情を爆発させても意味がないのもわかっている。少なくとも、彼がラングレーとともに“本気でエリーザの陰謀を暴こうとしている”のは間違いないのだ。


「……状況はラングレー様から伺っています。どうか詳細をお聞かせください」


 努めて冷静に答えるシルフィに対し、公爵家当主は大きく頷いた。テーブルの上には数冊の帳簿と書状の束が置かれている。どうやら、公爵家の領地での商取引や財政支出の記録らしい。その多くに、エリーザとその取り巻きが絡んでいる痕跡が見られるのだという。


「これらの帳簿は、彼女が“公爵家の新しい婚約者”という立場を盾に、領主代理のような顔をして進めてきた案件の記録だ。具体的には、いくつかの貴族派閥への寄付金や新たな投資案件など……細かく見ていくと、不自然な支出や受領が多い。しかも、そのうちのいくつかは王家を敵視している噂のある勢力と繋がっている可能性が高い」


「ということは、これが事実ならば――やはり公爵家を通して“反王家派閥”に資金が流れている、ということ……ですよね?」


 シルフィが問いかけると、公爵家当主は渋い顔で頷いた。続いてラングレーが書類を広げ、指し示す。


「こちらは、エリーザが独断で取り決めた領地の運営方針だ。名目上は『より発展的な投資』と謳っているが、その実態は、領地の収入を手っ取り早く外部に流すようにしか見えない。父も怪しんで調べていたんだが、どうしても決定的な証拠にはならなかった。けれど、今回“影”の手助けで関連の取引先を洗ったら、どうやら裏に武器の供給ルートがあるらしくてね」


「武器の供給ルート……!」


 思わず息を呑む。民生品や生活必需品ならまだしも、武器を扱う取引となれば、それは明確に“戦乱”あるいは“反乱”の匂いがする。まさか、エリーザがそこまで周到に王国を揺るがす準備を進めているとは……。


「ひとまず、これらの書類をもって王家や貴族議会に訴えるのが最善だ。しかし、敵側も相当な影響力を持っている。下手に動けば『これは捏造だ』と言われかねないし、エリーザは社交界で“新星”と呼ばれるほどの人気者だ。だからこそ、公爵家だけでは足りない。各地の有力貴族の後押しがほしいが、うちの家名だけでは難しい状況があるんだ」


 公爵家当主の言葉に、シルフィは一瞬眉をひそめた。確かに、“公爵家”というのは王国内でも随一の高位貴族だが、それでも敵勢力の工作によって疑惑を返される可能性があるわけだ。特に、エリーザ自身が周囲を味方につけるのが上手く、批判する側が少数派に追い込まれかねないのだという。


「……だから私、というわけですか。私を含め、他の貴族たちと連携し、エリーザ様の裏の顔を周知させていけば、捏造ではないと証明しやすいと?」


 シルフィの問いに、公爵家当主は苦しげに視線を落とす。そして重々しく口を開いた。


「ほんの少し前まで、我々は“お前の存在”を軽んじていた。しかし、今こうして冷静に見てみると、お前は王都の社交界で一定の交友を持ち、なおかつ“理不尽な婚約破棄の被害者”という同情も集められる立場だ。……もちろん、それを利用するなどと言いたいわけではないが、シルフィ嬢の力が必要なのだ」


 シルフィは瞳を伏せたまま、胸の中に渦巻く感情を飲み込む。自分を「ふさわしくない」と切り捨ててきた人々が、今になって「必要だ」と口にする。ひどく皮肉な構図だ。けれど、そんなことを言っている場合でもないほど、王国は危機に瀕しているのだろう。ここで自分が動かなければ、エリーザの陰謀はさらに進んでしまう。


 どう答えるべきか悩むシルフィに、“影”がすっと近づいてきた。暗がりで姿ははっきりしないが、彼(あるいは彼女)の低い声だけが静かに響く。


「シルフィ、あなたが行動を起こすことは、自分の未来をも取り戻す行為になるはずだ。あの婚約破棄がいかに不当だったかを証明する絶好の機会でもある。あなたが隠し持つ貴族同士のネットワーク、そして一度は侯爵家の娘として積み上げた礼儀作法や社交のスキル――すべて活きるはずだ」


「……わかっています。覚悟はできています。私が動くことで、どれだけ事態が変わるのかはわからないけれど、やってみます」


 静かな声でそう答えると、ラングレーがホッとしたように目を細めた。「ありがとう、シルフィ」と小さく呟く彼を、シルフィは一瞬だけ見つめ返す。かつては心を焦がした相手だったが、今はもうその感情は残っていない。ここにあるのは、“共闘”の意識だけ。それでいいのだと自分に言い聞かせる。


 そのとき、扉の外から控えめなノックの音が響いた。緊張の面持ちでステラが扉を少し開き、中へ顔を覗かせる。


「お嬢様、近くの廊下をエリーザ様らしき一行が通っていくとの報せが……。噂では、この時間帯に王宮の偉い方と面会されるとか……」


 一瞬、部屋の空気が張り詰めた。エリーザが同じ王宮の中にいるということは、ひょっとしたらこちらの動きを探るために誰かを放っているかもしれない。否、むしろエリーザこそが王宮内で絶対の自信を持って動き回れる立場だ。彼女が何らかの「最終的な工作」を進めようとしている可能性もある。


「まずいな……。我々がここで集まっているのが知られれば、動きづらくなる」


 ラングレーは険しい表情を浮かべ、すぐに書類をまとめ始める。公爵家当主も重々しい面持ちで頷いた。


「シルフィ嬢、ここを離れましょう。廊下で出くわすようなことがあれば面倒だ。書類は私が預かって持ち出し、厳重に保管する。エリーザに感づかれないよう、いつでも動けるようにしておきたい」


「……わかりました」


 シルフィはステラに目配せし、荷物をまとめる。部屋を出る直前、“影”が再び声をかけてきた。


「あなたが社交界で行う小さな動きは、いずれ大きな波になるでしょう。カリブ伯爵家との繋がりも、きっと助けになるはずです。……どうか無理はせず、慎重に。あなたの未来こそ、あなたが守るのですからね」


 その言葉に、シルフィはそっと頷いた。

 王宮の廊下へ出ると、エリーザが近くを通っているらしく、衛兵がそこかしこで警戒している気配を感じる。シルフィは目立たぬように帽子を深く被り、ラングレーや公爵家当主とは別々の方向へ散って外へ向かった。背後に誰かの視線を感じるような気がしたが、振り返るわけにもいかない。まるで、いつ戦いが起こってもおかしくない戦場の最前線を歩んでいるかのようだった。


 屋敷へ帰る馬車の中、シルフィは窓の外に広がる冬の景色をぼんやりと見つめる。ラングレーとは和解したわけでもなく、公爵家当主に対するわだかまりが消えたわけでもない。けれど、“影”の言うとおり、いまは自分が動くことが未来を守るためにも必要なのだ。王国全体の安定も、カリブとの約束も――失いたくない大切なものが増えた今だからこそ、踏み出す勇気が湧いてくる。


「……真実の愛、か」


 ふと、呟くようにこぼれたその言葉。かつてラングレーを想っていた頃の自分は、「公爵家の婚約者となって幸せな結婚をする」ことだけが愛の形だと信じて疑わなかった。しかし、いまのシルフィにとって愛とは、誰かに従うことでも、華やかさを求めることでもない。むしろ、お互いを尊重し合い、困難を乗り越えようとする意思こそが、愛を育む土台だと思えてならないのだ。


 それを教えてくれたのは、カリブであり、ステラや周囲の使用人たち、そして自分の中に眠っていた“本来の力”だったのだろう。ラングレーとの関係が崩れ去った今こそ、愛の本当の価値に気づけた――それはなんとも皮肉な巡り合わせだが、もう後悔はしていない。むしろ、これからの未来に必要なのは、偽りではない“真の絆”を築く意志だと感じている。


 馬車が大通りへ合流すると、ちらほらと雪が舞い始めた。ひらひらと落ちる小さな雪片を見つめながら、シルフィは頭の中で「これからやるべきこと」を整理していく。エリーザを支持している取り巻き貴族たちへの根回し、過去に自分と親交のあった令嬢たちへの働きかけ、そして何よりも“自分の言葉”で不当な破棄の経緯を話すこと。そうして周囲の理解と同情を集めることで、エリーザの失墜を促す一助にしたい――それが、ラングレーと公爵家当主にできない“シルフィだけの強み”になり得ると、先ほどの会合で痛感したのだ。


 決意を胸に、シルフィは馬車の窓をわずかに開ける。冷気が一気に入り込み、ステラが心配そうに「お嬢様、風邪を召しますわ」と声をかける。シルフィは微笑みながら、「大丈夫」と答えて、胸いっぱいに冬の空気を吸い込んだ。この冷たい刺激は、揺らぎがちな心を研ぎ澄ますにはちょうどいい。


「わたし……やるわ、ステラ。もう、誰かに振り回されるのではなく、自分の力で愛も未来も掴み取りたい。そしてこの国を守りたい。そのために、こんなところで立ち止まっていられないわ」


「はい、お嬢様。……私も微力ながら、お支えいたします」


 ステラの心強い言葉に、シルフィは嬉しそうに頷く。馬車の揺れがやや強くなり、窓から見える景色が次第に雪化粧へと変わっていく。まるで、これから訪れる試練の数々を象徴するように、世界は白くかすみ始めているが、シルフィの心は決して白々しい偽りに染まることはない。

 真実の愛とは、決して誰かに与えられるものではなく、自分が意志をもって育むもの――それに気づいた彼女は、もう過去のように絶望することはないだろう。婚約破棄から始まった苦難が、いつしか“本当の自分”を取り戻す助走路になっていたのだから。


 王都の城壁が遠ざかるのを見送りながら、シルフィはそっと瞳を閉じる。心に浮かぶのは、カリブの笑顔と、あの優しい言葉。「あなたには、まだまだ可能性がある」。その言葉を胸に抱きながら、彼女は静かに微笑んだ。嘘や偽りの輝きではなく、本物の光を手にするために――。

 “微笑みの未来”を迎える準備は、すでに整いつつあるのだ。



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