ささやかな雪が舞い散る冬の夕暮れ。シルフィは侯爵家の書斎で、小さな書き物机に向かいながらペンを走らせていた。机上には数枚の手紙と、メモ用紙。そして脇には王家直轄領の地図や、公爵家の財政関連文書の複写などが山積みになっている。
この数週間、シルフィは連日忙しく動き回っていた。かつての婚約者ラングレー、それに公爵家当主、そして“影”の助力を得ながら、エリーザという“新星”が裏で画策している不穏な動きを少しずつ突き止めてきたのだ。
知れば知るほど、エリーザが進めている計画は王国の根幹を揺るがしかねない。貴族たちの好感を得て「公爵家の新たな婚約者」として立場を固める一方、軍事転用可能な武器や資材を横流しし、反王家派閥と結託する可能性が高い——そんな情報が、いくつもの書類から浮かび上がっている。にもかかわらず、社交界では彼女の人気は依然として絶大で、堂々と疑いをかけられる状況ではなかった。
だからこそ、シルフィは地道な情報収集と根回しに奔走している。エリーザの手の届かない相手と連絡を取り、書簡の片隅にさりげなく“彼女の資金の流れを注意してほしい”と記して送る。表向きは季節の挨拶や小さな近況報告の体裁を取りながら、裏ではエリーザへの疑念を少しずつ広げるのだ。これは根気のいる作業だったが、長い間“公爵夫人の教育”を受けてきたシルフィの礼儀正しさや人脈作りの経験が、思わぬ形で活きていた。
そんな地道な取り組みに集中していると、部屋の扉がノックされ、侍女のステラが姿を見せる。彼女はどこか浮き立つような笑みを浮かべていた。
「お嬢様、カリブ様からお手紙が届きましたわ。領地の用事が落ち着いたそうで、近々王都へいらっしゃるとのことです」
「本当? ちょうど心配していたところよ。少しでも早く王都に戻れるといいんだけれど」
カリブ・アルモント伯爵家の青年は、シルフィの抱える事情を一通り知った上で、「協力できることがあれば遠慮なく言ってください」と言ってくれている。王都から離れていたあいだ、領地の薬草研究がひと段落したらまた戻る、と約束してくれたのだが、想像以上に早い知らせだった。
シルフィはステラから手紙を受け取り、急いで封を切る。そこにはいつもの穏やかな筆跡で、こう記されている。
> 親愛なるシルフィ様
そちらの厳しい状況が続いていると聞き、気を揉んでおりました。幸い、領地の一件はひとまず区切りがつきそうなので、私も王都へ向かいます。
近々、大規模な舞踏会が開かれるそうですね。もしシルフィ様もご出席であれば、ぜひそこでお話を——。
カリブ・アルモント伯爵家次男
その文面には大した飾り気もないが、カリブの温かい人柄が滲み出ている。彼が再び王都へ戻る時期と「大規模な舞踏会」の開催日が重なっていることも、シルフィには心強い話だ。なぜなら、この舞踏会こそが、エリーザやその取り巻きが「決定的な動き」を見せる可能性が高いと囁かれている。
「ステラ、やっぱりあの舞踏会こそが勝負ね。エリーザ様が意気揚々と社交界の頂点に立とうとしている場になるはず。そこに私も出席して、絶対に彼女の陰謀を阻止しないと」
「はい、お嬢様。……怖いこともあるかもしれませんが、カリブ様がいらっしゃるなら、きっと心強いかと」
ステラは笑顔で答え、シルフィも目を細める。かつては、公爵家のラングレーこそが「自分を守ってくれる唯一の存在」だと信じていた。だが、裏切られ、婚約破棄を突きつけられた今、シルフィは初めて「自分の力で未来を掴む」という意味を理解している。そして、その道を並走しながら支えてくれるのがカリブという存在なのだと思うと、胸がじんわりと温かくなるのを感じた。
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舞踏会の前夜
舞踏会当日が迫り、王都の貴族たちはそわそわと落ち着かない様子を見せている。なにしろ今回は、王宮の大広間を貸し切るだけでなく、国境を越えて駐在している外国使節や軍部の上層部までが招かれる“過去最大規模”とも呼べる夜会だ。
しかもその実態は、エリーザを筆頭とする華やかな一派が「公爵家こそが王国の中心」だと誇示する場になるだろうというのが専らの噂だった。彼女が誇らしげに“新星の伯爵令嬢”として迎えられ、ラングレーや公爵家当主は「名ばかりの添え物」にされかねない——そんな危惧さえ広まっている。
しかし実際には、エリーザの影で武器商人や反王家派閥が蠢き、取引契約の最終段階にこぎ着けようとしている可能性が高い。もしここを逃せば、エリーザは公爵家の巨額の資金と国防に関する物資のルートを手中に収めるだろう。彼女が王国をどのように振り回し、どれほど大勢を不幸に陥れるか想像もつかない。
そんな凶兆が張り詰める夜、シルフィは屋敷の書斎で最後の確認を行っていた。手元には、ラングレーや公爵家当主から提供された財政記録や領収書の写しがある。明日の舞踏会で、下手をすればエリーザ側に「捏造だ」と言われるかもしれないが、真実は書類に刻まれている。何か“決め手”となる場面が来たとき、この書類が王家や有力貴族たちの目に留まれば、エリーザを追い詰められると信じたい。
「……ステラ、準備はいい?」
隣で控えていた侍女は「もちろんです」と力強く頷く。シルフィの胸にも、不安と緊張が混ざり合いながら、それを上回る意志の炎が揺らめいていた。
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舞踏会当日
降り積もっていた雪が少しだけ解け始めた冬の朝。ついに王宮での大舞踏会が幕を開ける。昼間から晩まで、招かれた人々は途切れることなく大広間へ足を運び、華麗な衣装で席を飾り、盛大な宴と舞踏を楽しむ——それが形式上の“名目”だった。
しかし、シルフィはわかっている。この日は“華やかな夜会”という仮面をかぶった、もう一つの“決戦”だ。エリーザはここで一気に支持者を増やし、舞台裏で反王家派閥との契約を成立させる可能性が高い。その成功を阻み、公爵家の資金や領地が悪用されるのを防ぐために、彼女自身が行動しなければならない。
シルフィはステラの手を借りつつ、派手すぎず、それでいて凛とした印象を与えるエメラルドグリーンのドレスを身に纏った。昔は「ラングレーの婚約者に見合う淑女」としてドレスを選んでいたが、いまは違う。この装いは“私自身”のためであり、王宮を揺るがす陰謀を阻むための“戦服”なのだ。
ブーケ状にまとめた花飾りを髪に挿し、鏡越しに自分を見つめる。以前よりも背筋が伸び、瞳に静かな決意が宿っているのを感じた。あの日、婚約破棄を告げられてすべてを失いかけた頃とはまるで別人のようにも思える。しかし、過去があるからこそ、いまの自分がある。奪われたものも、裏切られた痛みも、すべてを乗り越えるためにここまで来たのだ。
「ステラ、行きましょう。……勝負はこれからよ」
「はい、お嬢様。どうかお気を確かに」
馬車に乗り込み、王宮へと向かう道すがら、シルフィは胸の奥にうずまく緊張と高揚を感じていた。今日はカリブと再会する予定もある。あの優しい青年が、この決戦の場でどんなふうに支えてくれるのか、想像すると少しだけ心が軽くなる。いまや、シルフィの心を真に穏やかにしてくれる異性は、ラングレーではなく、カリブなのだと痛感させられる。
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決戦の舞台
王宮の大広間は、まさに人で埋め尽くされていた。貴族たちは高価なドレスやタキシードをまとい、海外からの使節も色鮮やかな民族衣装を纏っている。照明は昼夜を問わず煌々と灯され、音楽隊が優雅な旋律を奏でる。さながら夢のように美しい空間だが、この場が“嵐の目”になる可能性も秘めているのだと思うと、シルフィは寒気さえ感じる。
案の定、エリーザは大広間の中央付近を悠々と歩き回り、取り巻きとともに来賓に挨拶をしている。公爵家当主やラングレーもいることにはいるが、まるで彼らこそが“付き人”のように見えるほど、エリーザのほうが目立っている。周囲の人々は「さすが新星の伯爵令嬢」と口々に賛辞を送る。
その様子を目にしつつ、シルフィは気づかれないように廊下の陰で一瞬立ち止まり、呼吸を整えた。まずは舞踏会の雑談や小さなやり取りを通して、彼女を疑う人々を少しずつ増やしたい。ラングレーらが裏付け書類を王家側に見せるまでの時間稼ぎも必要だし、何よりエリーザの気持ちを逸らしておけば、彼女が“決定的な契約”を結ぶ瞬間に割って入れるかもしれない。
そう考えていると、後ろから「シルフィ様」と柔らかな声がかかった。振り返れば、そこにいたのはカリブだった。深い藍色を基調とした、落ち着いた貴族服をまとい、どこか安心感を与える雰囲気を纏っている。
「よかった、間に合いましたね。……思っていたより盛大ですね。あの中央にいるのが、噂のエリーザ様でしょうか?」
「ええ、そうよ。あそこまで堂々としていると、まだ何も知らない人は“さすが公爵家の婚約者候補”と賞賛するでしょうね。でも、私たちは……このままでは終わらせないわ」
カリブは表情を引き締め、シルフィの意志を確かめるように頷く。領地の人々を守る使命と、シルフィに対する静かな想いが相まって、彼もまた強い決意を抱いているのが伝わってきた。ふと、視線が交わった瞬間、その瞳の奥に確かな信頼が宿っているのがわかり、シルフィの胸にほんのりとあたたかさが広がる。
「シルフィ様、もし危険なことがあれば、ためらわず私を呼んでください。ここは王宮とはいえ、何が起きるかわからない。あなたを守るためなら、私は何だってするつもりです」
「……ありがとう。でも、私ももう昔のままじゃないわ。カリブ様には感謝しているけど、守られるだけではなく、私もあなたとともに歩きたい」
その言葉に、カリブは優しく目を細めて微笑む。まるで今が大乱の前夜であることを忘れてしまいそうなほど、穏やかな空気が二人の間に流れる。けれど、今は時間がない。シルフィは気を引き締め直し、「それじゃあ、私は私の役目を果たすわね」と言ってカリブと別れ、大広間へと歩み出した。
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エリーザとの対峙、そして…
舞踏会の華やかな空気を装いながらも、シルフィは関わりのある友人や知人に次々と声をかけ、エリーザが公爵家を隠れ蓑に危険な取引を進めているらしいことを遠回しに伝えていく。もちろん「証拠はあるのか」と詰め寄られることもあるが、「王宮に届け出る準備が進んでいる」とだけ答え、核心には踏み込まない。下手に騒ぎを起こすと、エリーザが先に手を打ってくる可能性があるためだ。
やがて、ある令嬢が耳打ちしてくる。「ラングレー様が、近くの控え室で王家の重臣と話をしているそうよ。もしかして、本当に何か大きな暴露をなさるつもりなのかしら……」
それを聞いて、シルフィは内心で安堵する。ラングレーや公爵家当主が動き始めたということは、“影”が手配した証拠書類を提出する段取りに入ったのだろう。ならば、あと一押しが必要だ。もし王家がエリーザへの捜査を検討し始めたところで、社交界全体から「いや、エリーザは潔白だ」と声が上がれば、足踏みしてしまうかもしれない。それを避けるため、シルフィはもう少し情報を広めねばならない。
そう決意して、もう一度大広間のほうに戻ろうとした矢先、視界の端にチラリとエリーザの姿が映った。わずかながら、こちらを睨むような視線を感じる。すると、取り巻きの令嬢たちがエリーザに耳打ちをし、彼女は唇にうっすらと笑みを浮かべながらシルフィのほうへ優雅に歩み寄ってきた。
「まあまあ、これは……久しぶりね、シルフィ様。最近になって、やけに社交界で動き回っていると噂に聞いたわ。まさか、まだ“ラングレー様の気を引こう”なんて考えていないわよね?」
語尾に滲む嫌味。相変わらず、エリーザはシルフィを見下している。もはや勝ったも同然とばかりに強気なのだろう。周囲に集まる取り巻きも、冷たく嘲るような笑顔を浮かべている。だが、シルフィはひるまなかった。
「お気遣いなく。あなたがラングレー様とどんな関係かなんて、私には興味もないわ。……ただ、これだけは言っておく。あなたが王国を私物化しようとしているのなら、絶対に阻止します」
「まあ、また随分と大きな口を叩くのね。何を根拠にそんなことを言っているのかしら?」
エリーザは薄く笑い、周りの取り巻きがクスクスと笑う。それでも、以前のシルフィなら萎縮したかもしれないが、いまは違う。どんなに華やかなドレスを着て、どんなに取り巻きを引き連れていても、真実をねじ曲げることはできないのだから。
「根拠は……いずれ明らかになるわ。あなたがこの舞踏会で“とある決定的な取引”を進めようとしていることも、私は知っています。すべての証拠が揃えば、あなたが何をしてきたのか明らかになる。……そのときは、どう弁明なさるの?」
「ふふっ、言うじゃない。……まあいいわ。あなたのような地味な令嬢が騒いだところで、誰も信じやしないでしょうしね。それより……次に会うときは、公爵家に踏み込む力も残らないように気をつけることね」
含みのある言葉を残し、エリーザは踵を返して去っていった。周囲の取り巻きがシルフィを嘲笑するが、その視線に昔のような恐怖は感じない。どこか、エリーザも焦燥を滲ませているのだろう——これまで無視していたシルフィに、わざわざ敵意を示すような言葉をかけてきたのだから。
“絶対に阻止する”。自分で口にしたその言葉が、シルフィの決意をさらに固くする。もう後戻りはできない——いよいよクライマックスが近い。ラングレーや公爵家当主が王家に証拠を見せるタイミングさえ合えば、エリーザの立場を崩すことは可能だろう。そのとき、シルフィが“民衆の前”で真実を指し示せば、いくらエリーザといえども逃げ場を失うはずだ。
「私はもう何も失わないわ。たとえ過去がどうであれ、今度こそ自分で選んだ未来を手に入れる……」
小さく呟き、シルフィは再び人々のあいだをすり抜ける。情報を広めれば広めるほど、エリーザへの疑念は増幅する。それが、彼女の取引を阻止する大きな歯車になるはずだ。その手応えは確かにあった。
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微笑みの未来
舞踏曲が最高潮に達し、華やかなダンスに沸き立つ大広間。その片隅で、シルフィはラングレーからの合図を待ち構えていた。王家の重臣たちはすでに公爵家側の書類を手にし、エリーザの動向を確認中らしい。うまくいけば、このままエリーザが呼び出され、反逆の容疑で取り調べを受ける展開もあり得る。
そのとき、どこからかカリブがシルフィのもとへ近づいてきた。彼の瞳には期待と不安が入り混じった光が宿っている。
「シルフィ様、もしエリーザが弁明を試みたり、逆にあなたを誣告したりすれば、また混乱が起こるかもしれません。どうか、最後まで諦めずにご自分の正しさを貫いてください。僕もどんな形でも力になります」
「……ええ。あなたがいてくれるだけで、私は何も怖くないの」
短い言葉ではあったが、シルフィの心は不思議なほど安らぐ。振り回されてきた過去を乗り越え、“真実の愛”がどんなものかを彼女はようやく知り始めている。偽りの派手さや権勢ではなく、互いを支え合う関係こそが愛の本質なのだと——そう気づかせてくれたのは、カリブという青年の存在だった。
この後の展開は、王宮内でも重大な問題として扱われ、やがて多くの人々の前でエリーザの不正が明るみになるだろう。どんなに抵抗しても、結局は公爵家の財政書類と武器商人たちの証言という決定的な“事実”を覆すことはできない。
そして、婚約破棄の真相が「シルフィの非ではなく、エリーザの陰謀によって誘導されたもの」だと知れ渡れば、かつて彼女を冷遇した人々も大きく見方を変えるに違いない。それが、シルフィの“過去”を清算するきっかけになるだろう。
煌びやかな舞踏曲がひと区切りし、大広間を包む喧騒が一瞬だけ沈黙に変わる。まるで運命の転換を告げる静寂のようだった。ラングレーが公爵家当主とともに高台へ上がり、王家の重臣から何かを手渡されている姿が見える。いよいよ決着のときがやってくる。
シルフィは息を整え、花飾りに手を触れた。これは自分自身の“本当の始まり”を祝うための小さな象徴だ。過去の痛みを振り切り、これからは自分が“笑いたい”と思ったときに笑う。誰かの都合や権力に振り回されるのではなく、互いを尊重し支え合える相手と歩んでいく。それが、シルフィの見いだした“微笑みの未来”だった。
「……さあ、最後まであきらめないわ」
カリブの伸ばした手を、そっと取りながらシルフィは心の中でそう宣言する。もう婚約破棄された“捨てられた娘”ではない。かつて失ったものを超えるだけの尊厳と、真実の愛が、すぐ手の届くところで輝いている。たとえ明日がどんなに厳しい現実をもたらそうとも、彼女はもう決して歩みを止めないだろう。
そう、これが最後の舞踏会。そしてシルフィが真に自由を取り戻し、思わず微笑みが零れるような未来へ続く、大きな一歩になるに違いない——。
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