――その国では、恋をすると死ぬ。
「恋愛は人を狂わせる。破滅の種だ」
そう謳われて久しい国、ルステリア王国。人々は“
その掟が、七歳のオフィーリア・フォン・アルディアからすべてを奪った──。
春の陽射しが降り注ぐ午後だった。
中庭には紅白の薔薇が咲き誇り、風が吹くたびに花弁が舞っていた。
オフィーリアは、姉の部屋で偶然一通の手紙を見つけた。便箋には、丁寧な文字でこう記されていた。
『あなたを、愛しています』
それはこの国で最も恐ろしい言葉だった。
ほどなくして邸宅は騒然となり、兵士たちが押し入ってきた。叫び声、金属音、破られる扉の音。連行される家族の姿が、幼いオフィーリアの目に焼きついた。
父は姉をかばい、母は必死に何かを訴えた。けれど、兵士たちは一言も発せず、ただ黙々と命令を遂行していく。
姉は「お願い、あの人だけは殺さないで!」と嗚咽まじりに声を張り上げていた。
気づけば、オフィーリアは王都の広場にいた。身を寄せ合う民衆の最後尾、誰の手も引かず、ただ一人で。見上げた先――高く組まれた処刑台の上に、家族がいた。両親と姉は、「反逆の罪」に問われ、王命により断罪されたのだった。
数日後。邸宅の焼け跡で、オフィーリアは崩れた柱の陰にひとり、静かにしゃがみ込んでいた。
探していたのは、姉の形見。白い陶器の花があしらわれた小さな髪飾りだ。不意に、背後から足音が忍び寄った。
「何か、探し物? 一緒に探そうか?」
見知らぬ少年だった。年は、オフィーリアとさほど変わらない。
その髪はまるで陽だまりをすくい取ったような金色で、気高い血を宿す者だけが纏う、静謐な輝きを放っていた。
「あなた、誰……?」
「名前は言えない」
彼はそう答えると、言葉を続けた。
「でも、その……君の家族のこと、本当に、すまないと──」
彼は言いかけて口を噤むと、足元を探し始めた。やがて、すすけた瓦礫の下から髪飾りを見つけると、微笑んで言った。
「ほら、見つけたよ」
「……ありがとう」
それだけのやり取りだった。けれど、オフィーリアはそのとき感じた。この少年の瞳の奥に、どこか自分と同じ色の孤独があると。
少年は去り際、振り返って言った。
「──オフィーリア」
「どうして、私の名前を知っているの……?」
「秘密。なんとなく、呼びたくなったんだ。……じゃあね」
少年は名乗らなかった。けれど、その声だけは、不思議と胸の奥にそっと残り続けた。春風に混じって、灰の香にまぎれながらも、どこかで微かに薔薇の香りが漂っている気がする。
深く傷ついた心の底で、あの少年の存在だけが、夢のように優しかった。
無力なその手が、それでも必死に涙に寄り添おうとしてくれたとき――あの一瞬だけ、胸の奥にふわりと灯ったものがあった。それは恋と呼ぶにはあまりに儚く、けれど確かに、心の輪郭を優しく揺らしていた。
あれから十年。季節は巡り、花が咲き誇る春が訪れていた。
親戚の貴族に引き取られたオフィーリアは、気づけば十七歳となっていた。銀の髪は背中で揺れ、白磁のような肌は春の陽にほのかに透ける。無垢な美しさの奥に、誰も踏み込めない静けさを宿していた。
邸の中庭で、白い花が風に揺れている。
オフィーリアは、まるで風景の一部のようにそこに佇んでいたが、その足元には誰にも触れられない影が、ひっそりと落ちていた。
「……綺麗ね」
花に目を向けたオフィーリアは、ぽつりとつぶやいた。けれど、そこに香りはなかった。
記憶の中の薔薇は、甘く、ほろ苦い香りがしたはずなのに――今はただ、無風の静けさだけが鼻先をすり抜けていく。
それもそのはず。あの日、血塗られた断頭台の前で家族の最期を見届けた瞬間から、オフィーリアの世界は静寂に沈み、香りという名の色彩さえ、彼女の感覚からそっと失われてしまったのだ。
親戚の家では、どこか距離を置かれるように扱われた。感情を見せない令嬢――誰かがそう呼ぶのを聞いたことがある。
けれど、それでよかった。この国では恋情を抱くことは罪であり、死を招くもの。だから、そもそも感情を持たなければ、罰せられることはない。
感情を失った少女は、淡々と日々を積み重ねていく。けれどその胸の奥に、誰にも見せることのない空白だけが、確かに存在していた。
かつて栄華を誇った旧アルディア侯爵家。本家筋はすでに断絶し、今なお残るのは遠縁の分家のみ。唯一、本家の血を引くオフィーリアは、その命を“使える器”として繋ぎとめられていた。
そして今、その器が王家によって利用されようとしていた。
感情を持たない令嬢――それは、国王が求めた理想の花嫁像。
血筋の整合性と、“危険因子でない”ことを証明されたオフィーリアは、王太子であるリアンの婚約者として選ばれたのだ。
だがそれは、オフィーリアにとっても都合のよい話だった。なにしろ彼女は、遠い昔から王家の人間への報復を胸に秘め、その時を待ち続けていたのだから。
たとえ人殺しになっても構わない――王族を、あの王を、この手で殺すためなら。
宮廷に弦楽の調べが響く中、オフィーリアはリアンの隣に立っていた。
今日、彼女は王太子の婚約者として紹介される。ただの形式で、心のない政略婚。それが与えられた役割だった。
リアンは、隣で静かに笑っていた。どこか作られたような、しかしどこまでも誠実に見えるその微笑。
ふとした瞬間、彼の瞳がオフィーリアを捉える。その視線には、警戒よりもわずかな信頼が滲んでいた。
その様子を、まるで舞台の幕が上がるのを見届けるかのように、静かに見守っていた。――すべては計画通り。すべては、手のひらの上で。
「君は、まるで硝子のようだね」
ある夜、リアンはそう言った。
「美しくて、触れたら壊れそうで、でも……きっと誰よりも強い」
その言葉にすら、オフィーリアは浅く微笑むだけだった。だがその言葉は、固く閉ざしていた心の奥に、そっと触れてきた。
そんなある日。リアンは、オフィーリアのもとを訪れ、淡々と告げた。
「──君との婚約を解消したい」
その言葉に、胸の奥がざわついた。けれど、それを悟らせまいと静かに頭を垂れた。
「ご随意に」
その瞬間、オフィーリアの中で復讐心とは異なる、けれど確かに存在していた何かが音を立てて崩れた。もしかすると、それはほんの一瞬、芽生えかけた“心”の兆しだったのかもしれない。
リアンとの婚約を解消して、数週間が過ぎた頃。
王命により、旧アルディア家に連なる者たちは「血筋の再燃を防ぐ」という名目で粛清された。
かつて王権と拮抗するほどの魔術的素養と政治的影響力を持ち、反王政の思想を掲げていた一族。たとえ今は沈黙していても、「同じ血を引く者はいずれ牙を剥く」と、王は恐れたのだ。
濡れ衣だった。だが、それは口実としては十分だった。令状ひとつで、一族郎党はことごとく捕らえられ、処刑場の土となった。
ただ一人、オフィーリアを除いて。
それは偶然ではない。頼まれごとで出かけていた彼女が帰邸した時、邸は煙と火に包まれていた。
逃げねばならない。門が破られる音と血の匂いが、風に混じった。夜雨に外套を濡らしながら、燃える邸の裏口から這い出る。まわりには、もう誰の気配もない。
行き先もなく、泥に沈む靴で、ぬかるんだ道を歩く。裾は汚れ、髪は頬に張りつく。それでも進むしかなかった。家族も言葉も居場所も──すべてが雨に流された夜だった。
(……あの日と同じように、一人ぼっちになってしまった)
オフィーリアはその夜を境に、なにかを置いてきた。もう、失うものなど何もないのだと――ただ、それだけを悟りながら。
気づけば、森の入り口に立っていた。霧が割れ、誰かに呼ばれたようにオフィーリアは迎え入れられた。光の届かぬ木々の間を、進む。ぬかるみに足を取られながらも、歩みは止まらない。行くあても帰る場所もなく、ただ何かに導かれるように、奥へと進んでいった。
やがて、木々がわずかに開け、そこに一軒の小さな小屋が現れた。屋根には蔦が這い、煙突からは白い煙が細く立ち上っている。オフィーリアが戸口に近づくと、ギイ、と自然に扉が開いた。
そこにいたのは、黒衣の女だった。長い黒髪に深紅の瞳、まるで夜の化身のような風貌。だがその目には、どこか人の営みに似た光が宿っていた。
オフィーリアが立ち尽くしていると、女が口を開いた。
「ここに来る者の顔は、大体似ているのよ。何かを失い、何かを求める者の顔。……あなたも、復讐の匂いがするわね」
オフィーリアの目が、微かに揺れた。彼女は、どうやら自分の中に渦巻く復讐心を見抜いているらしい。
「……似ているのよね、あなた。あの頃の私に。あのとき、もし誰かが手を貸してくれていたら――なんて、今さらかしら」
女が小さく呟いた。オフィーリアが首をかしげると、彼女は気を取り直し、問いかけてきた。
「ねえ、あなた。力が欲しい? 悔しいんでしょ? なら、私と契約する?」
彼女の紅い瞳が、すっと細くなった。
「私はノアール。“魔女”よ。欲しいものがあるなら、代価を払ってもらうわ。――さあ、あなたは何を差し出すの?」
唐突な問いに、オフィーリアはわずかに眉をひそめたが、すぐにかぶりを振った。
「……何も、持っていません」
「なら、とりあえず皿洗いでもしてもらおうかしら」
冗談とも本気ともつかない調子でそう言って、ノアールはくすりと笑った。
それからオフィーリアは、小屋で掃除や薬草の仕分けなど雑事を任されるようになった。文句ひとつ言わず黙々と働く彼女に、ノアールは時折お茶を淹れさせたり薪を運ばせたりして、「まったく、便利な子ね」と笑った。
「……これ、本当に魔女になるための修行なんですか?」
ある日、オフィーリアが疑問を口にすると、ノアールは眉を上げて言った。
「嫌なら契約しなくてもいいのよ? ただの家事手伝いでも歓迎するわ」
その軽い調子に、オフィーリアは初めて小さく笑った。自分の口元が歪んだことに、少しだけ驚く。
ある夜。小屋の一角にある鏡の前で、オフィーリアはひっそりと「令嬢の笑み」の練習をした。口角を上げて、目元を和らげて――けれど、どこか不自然なまま。
「これが“正しい令嬢の笑み”。感情なんて、もう必要ない。演じてさえいれば、それでいいのよ」
自分に言い聞かせるように呟いた。そのとき、台所から聞こえたノアールの鼻歌が、不思議と胸の奥に滲んだ。
束の間の、名もなき温もり――それは、オフィーリアが人として最後に触れた安らぎだったのかもしれない。
数ヶ月後。霧深い森の奥、石造りの小さな祭壇で、オフィーリアはノアールと対峙していた。契約の儀を前に、彼女は静かに尋ねる。
「一応、確認しておくわ。あなたが差し出す代償は“感情”でいいのね? 私と契約すれば、それは徐々に失われていく。そして最終的には──何ひとつ、感じられなくなるわ。……その運命を、受け入れる覚悟はあるの?」
オフィーリアは迷いなく答えた。
「感情なんて、家族を奪われたあの日にとっくに捨てたわ」
その言葉に、ノアールは無言で小刀を差し出す。血を捧げた瞬間、空気が震え、光が祭壇の周囲でうねりながら渦を巻き始めた。
オフィーリアの中に、異質な力が静かに満ちていく。
『自分を愛した者の心臓に呪いが降りかかる』──その禁呪を、今、彼女は手にした。
それはただの殺しではない。王族の魂を媒介に、血統と共に国の根幹をも滅ぼす術。
ひとたび発動すれば、天は裂け、大地は崩れ、王都ごとすべてが呑まれる。
罪と血脈、そして王国を断罪する。それがこの呪いの本質だった。
(彼ひとりの死では足りない。王という存在が、王国という枠が、あの罪を正当化してきたのだから。──ならば、すべてを終わらせるしかない)
契約が完了すると、ノアールはふと笑みを浮かべて言った。
「ちなみに──復讐が終われば、私はあなたの記憶から消えるわ」
オフィーリアは静かに頷いた。ノアールとの時間は、まるで短い夢のような癒しだった。彼女には友情に近い感情さえ抱いていたが──それでも、リアンへの憎しみのほうが、ずっと強く心に残っていた。
「私は絶対にリアンを許さない。再び彼と婚約を結んで、必ず復讐を果たすわ」