数ヶ月ぶりに社交界に現れたオフィーリアは、喪服のような黒のドレスを纏っていた。その姿は白磁の肌とあいまって、月夜に咲く一輪の毒花のように人々の目を奪った。
オフィーリアが、なぜ今になって再び宮廷に呼ばれたのか――社交界の誰もが、その真意を測りかねていた。
親戚もろとも粛清され、行方不明になっていた少女が、数ヶ月の沈黙を経て戻ってきた。
ある者は囁く。あの娘は、魔女と契約を交わしたのだと。
事実、旧王政派の失脚とともに、勢力図は塗り替えられ、彼女の名は再び「王太子妃候補」に刻まれた。
「魔術を使ったのではないか」──広間の隅では、そんな声がひそやかに交わされていた。けれどオフィーリアは動じず、堂々と歩を進めた。
やがて国王とリアンの前へ出る。かつての婚約者。その瞳に自分がどう映るかなど、もう知る気もなかった。
恋情の有無を測る宮廷の装置──
「……恋情は、存在しないようだな。ならば、脅威にはならぬ」
その言葉を境に、場の空気が静かに変わった。誰もが口を閉ざし、納得したふりで視線を逸らす中、ただ一人、リアンだけが目を逸らさなかった。無表情の奥に、一瞬だけ揺らぎが見えた。
オフィーリアは感情のない笑みを浮かべる。ただ、復讐の仮面だけが完璧に貼り付いていた。
リアンとの再婚約が決まったあとも、オフィーリアは淡々と日々を過ごしていた。
王宮の庭園をリアンと並んで歩くときも、昼食の席でささやかな会話を交わすときも、オフィーリアの顔には穏やかな微笑みが浮かんでいた。その笑みの裏には、礼儀正しさという仮面に隠された、本当の心がそっと潜んでいた。
リアンは最初こそ距離を取っていたが、次第にその微笑みに
十年前、瓦礫の中で出会った少女を、ずっと忘れられなかった。その少女こそ、まさに幼い日のオフィーリアだった。
最初は後ろめたさや同情が勝っていた。だが、あのまっすぐな瞳に触れてしまった瞬間から、彼女を守りたいと――そう願ってしまったのだ。
あのときの少女が婚約者として選ばれたと知らされた瞬間――リアンは、息を呑んだ。
想定外だった。けれど、時が経つにつれ、彼女への視線は自然と深まり、気づけばその姿を目で追う日々が始まっていた。
だが、この国では、恋は“罪”とされる。王太子である自分が、それを犯すわけにはいかなかった。
だから手放した。せめて、彼女が傷つかないよう、別の縁談を整え、自分から身を引いた――はずだった。
なのに。父王はリアンの秘めた想いを読み取り、勝手に動いた。あろうことか、彼女の血縁者を“王家への脅威”と断じ、粛清を命じたのだ。
本来なら、オフィーリアもその標的に含まれていた。だが彼女だけが、皮肉にも生き延びてしまった。
なぜ父が今さらオフィーリアを再び婚約者として迎え入れたのか、リアンにはわからなかった。もしかしたら、彼女が本当に魔術を使ったのかもしれない。
そんな疑念と後ろめたさを抱えながらも、彼はオフィーリアの姿が視界に入るたび、胸の奥が軋むのを止められなかった。
オフィーリアはリアンの視線に気づき、心の中で呟く。「あと少し。彼は堕ちかけている」と。
しかし、彼のふとした言葉や手が触れそうになるたび、胸の奥に微かな疼きが走った。痛みというより、淡い不安。けれど、オフィーリアは迷わずそれを打ち消す。魔女との契約が、己を縛っているのだから。
夜の王宮は昼とは異なる静けさに包まれていた。月明かりが中庭に差し込み、白薔薇が風に揺れる。
石畳に響く足音に、花びらがわずかに震えた。薔薇のアーチの下、黒のドレスをまとったオフィーリアが佇む。その姿は月光に照らされ、絵画のように静謐だった。
そこへ、リアンが静かに歩み寄る。
「こんな時間に、まさか君がここにいるとは思わなかった」
「同じく、殿下」
それだけの短い会話。だが、沈黙は続かなかった。リアンは少しだけ息を整えると、オフィーリアの前に立ち、瞳をまっすぐに向けた。その目には、微かな震えがあった。
「その……オフィーリア。俺は、君のことを……」
リアンがそう言いかけた瞬間、時が止まったかのようだった。
胸の奥で、何かが軋んだ。感情など、もうほとんど残っていないはずなのに。抑えてきた何かが、ほんのわずかに揺れた。
次の瞬間、リアンの胸元に黒い紋が浮かんだ。空気が震え、呪いが彼の奥深くへと染み込んでいく。
オフィーリアは瞬きもせず、その紋を見つめていた。自分にしか見えない、それを。
――呪いが、発動しかけている。
彼はオフィーリアを愛してしまったのだ。唇がわずかに持ち上がるも、それは笑みではなく形だけの反応だった。
次の瞬間、胸に鋭い痛みが走った。息が詰まり、視界が揺れる。心臓が灼けるように熱く、脈打つたびに冷や汗がにじんだ。思わず後ずさり、リアンから距離を取った。
「……っ」
「オフィーリア……?」
リアンが差し出した手に指先が触れた瞬間、オフィーリアの身体が微かに震えた。振り払うこともできず、彼女はただ、自分の震える指先を見つめていた。
おそらく、これは呪いの副作用だ。“自分を愛した者が死ぬ”――それだけではない。自分の中に同じ想いが芽生えたなら、その瞬間、命はふたつ同時に崩れていく。
ノアールの警告が、今さらのように脳裏をよぎった。
それでも、消えなかった。リアンが言いかけた言葉の余韻が、まだ胸の奥に残っていた。
(なぜ、私はあの人の愛にこんなにも心を揺さぶられてしまうの……?)
自分でも、なぜそんなことを思ったのかわからなかった。けれど、それが嘘ではないことだけは、はっきりしていた。
王城の北塔。その最上階──立ち入り禁止とされて久しい呪術の祭壇跡に、風が吹き込んでいた。
かつて使われた魔術の痕跡が、黒ずんだ石床に滲んでいる。灰のように細かい粉塵が、舞い散る花びらのようにふたりの間をすり抜けていく。
オフィーリアがリアンをここに連れてきたのは、すべて計画通りだった。
あの日、家族を失った瞬間から始まった復讐――彼の「愛」を引き出し、呪いの引き金とするために。
この祭壇に彼を立たせれば、呪いは自動的に発動する。愛を口にした瞬間、その代償が彼を蝕む。
「リアン。大事な話があるの」
静かに、誘うようにそう口を開いた。
「実は俺も、君に話があるんだ。……こちらから先に話していいかな?」
オフィーリアは頷き、息を呑んだ。思惑通りに事が進めば、次に彼の口から出る言葉は──
「……俺は君を愛している」
沈黙ののち、リアンは目を伏せ、静かに言った。
その瞬間、彼の胸元に黒い紋様が浮かび上がった。皮膚を裂くように広がる、呪いの印。リアンは膝をつく。
「やっぱり、君だったんだね……」
リアンは微かに笑った。けれど、それは哀しみと受容に満ちたものだった。
「呪いを……かけていたんだろ? ずっと前から。なんとなく、気づいていたよ。でも……それでも、俺は君の傍にいたかった」
オフィーリアは目を見開く。
「君の家族が処刑されたあの日、俺は恐怖で何もできなかった。父が君の親戚に危害を加え、家ごと潰そうとしたときも、同じように何もできなかった。今度こそ君を守ろうと動いたのに──また、失敗した」
彼の指は血で濡れ、床を掴むようにして震える。その声は微かで、だが確かに届いた。
「こんな無力な俺に、君を愛する資格なんてない。それでも……この想いは止められなかった。どれだけ手を伸ばしても、決して届かないと分かっていても……せめて、君の未来だけは守りたかったんだ」
その言葉の響きに、胸の奥が軋んだ。
「オフィーリア……」
リアンは傷の痛みに顔を歪めながら名を呼んだ。その声は、かつて瓦礫の中で自分を呼んだ少年のものと同じだった。
あの日──姉の髪飾りを探していたとき、声をかけてきた名も知らぬ少年。「名前は言えない」と微笑みながら、何かを悔いていた、あの優しい瞳。それが、リアンだった。
「まさか、あのときの……」
思わず、声がこぼれた。一度も結びつけなかった二つの記憶が、今ようやくひとつになった。
リアンの胸にあった光が、ゆっくりと消えていく。
同時に、オフィーリアの掌に黒い一輪の花が咲いた。それは生花にはない、艶やかで冷たい光沢を放っていた。――呪いが結実した証だった。その瞬間、ふと何かが鼻先をかすめた。
「……香り……?」
確かに、甘く、淡い香りがした。匂いなどとうに失ったはずの自分にとって、それはありえない感覚だった。
呪いがすべてを貫いた瞬間、リアンは糸の切れた人形のように力を失い、オフィーリアの腕に沈んだ。言葉にならなかった彼の願いだけが、焼きつくように残った。
胸元に指を当てても鼓動は感じられない。けれど、体はまだ温かい。
オフィーリアはそっと彼の髪を撫でた。血の香りの奥に、あのときの春風の匂いが、確かに混じっていた。
「これで、すべてが終わったのね……」
もう二度と、名を呼んではくれない。もう二度と、その声を聞くことはできない。声にならない言葉が喉の奥で震える。悲しみたいのに、胸の奥は静まり返ったままだ。
そのときだった。祭壇に黒い亀裂が走り、瞬く間に塔全体へと広がった。
床が震え、古びた石の壁が軋みを上げる。天井の一部が崩れ落ち、そこから差し込んだ陽光が、舞い上がる灰と舞い散る花びらを照らした。
オフィーリアは、その場から一歩も動けずにいた。
ふと風が止まり、時間が歪んだような感覚に包まれる。すぐ近くで誰かが、囁くように言った。
『もう、ここにはいられないわよ』
懐かしい声だった。
「ノアール……?」
その影は見えなかったが、空気の中に、彼女の残した魔力の気配があった。
柔らかな光が全身を包み、次の瞬間、崩れ落ちる高塔の空中からオフィーリアの姿は、ふっと掻き消えた。
目を開けると、そこには炎に呑まれた薔薇園の亡骸が広がっていた。
かつて彼と歩いた薔薇園は、今や赤黒い瓦礫に埋もれ、崩れた噴水から流れた水は、灰と泥に混ざって赤黒く染まり、地を濡らしていた。
オフィーリアは理解していた。王都の崩壊──それは呪いが成就した証。そしてその重さは、生き残ったオフィーリアの胸に静かに沈んでいた。
(おかしい。なぜ、私はまだ生きているの……?)
呪いの副作用──本来なら命を蝕むはずのそれは、オフィーリアの中から消えていた。
考えられる理由はただ一つ。リアンの愛。それは呪いを発動させる鍵でありながら、同時に彼女を守る盾ともなった。彼は最後まで、命を代償にしてでも、オフィーリアの未来を守ろうとしたのだ。
(あなたの“愛”が、私を生かしたのね……)
オフィーリアは黒い花を見つめる。彼の胸で芽吹いた呪いの花。かつての愛の証であり、呪いの結末。
再び、ノアールの声が聞こえてくる。
『復讐は成就したわ。あとは――予定どおり、私があなたの記憶から消えるだけ』
その声には、静かな寂しさがにじんでいた。
次の瞬間、霧が晴れるように彼女の気配が消えた。短い間とはいえ共に過ごしたはずなのに、思い出そうとすればするほど指の間から零れ落ちていく。
契約は果たされた。代償として、オフィーリアは完全に感情を失った。
オフィーリアは静かに立ち上がる。ドレスの裾がひらりと揺れ、足元の灰を巻き上げた。辺りを見渡しても、もはや誰もいない。
だが、それでも空の果てには、かすかな光が射し始めていた。希望などではない。世界が燃え尽きても、朝は容赦なく訪れる。ただそれだけの、冷たい夜明けだった。
ふと、鼻先をかすめる香りに気づく。甘く、微かに残った薔薇の香気だった。焼け落ちたはずの庭園の中で、それだけが、生きていた。
オフィーリアはその香りに目を伏せ、そっと唇を綻ばせる。
「……私は確かに、彼を愛していた」
浮かべたのは、形ばかりの微笑だった。けれどその奥には、紛れもない“感情”が宿っていた。呪いも、感情の喪失も――すべてを乗り越えたあとに、それでも胸の奥に残ったもの。
それはオフィーリアにとって、何よりも大切な“魂に刻まれた真実”だった。呪いに奪われることのなかった、唯一の光。
かつて愛した人の名を胸に刻みながら。名前すら思い出せない、けれど確かに心を支えてくれた誰かのぬくもりを抱きながら。
オフィーリアは、焼け落ちた王国を背に、ひとり歩き出した。夜明けの光に向かって。