「…
江國という選手はそう言うと、軽く会釈をした。
伍代や若越、高薙 宙一と比較したら随分と大きな身体を持つ彼は、その見た目からも迫力を感じられる。
「江國は中学も棒高跳びをやっていた経験者だ。
こいつ、地元は神奈川だからあまり馴染みないかもしれないが、既に練習で4m70cm近く跳んでるんだぜ。やばいよな?」
宙一は興奮気味にそう説明した。
江國自身は黙ったまま、伍代と伍代の側にいる若越の姿を見ていた。
「…宙、それを言ったらうちもやばいぜ。こいつは俺の後輩…聞いて驚け?
全中チャンピオンの若越 跳哉だ!」
「ちょっ…!」
宙一に負けんばかりに、伍代は宙一たちに若越を紹介した。
若越は予想外の展開に困惑して、ノリノリに話そうとする伍代を止めようとした。
「…若越…まさか、あの若越 浮地郎さんの息子って…!」
高薙兄弟は揃って驚いた顔で若越を見た。
江國は2人を他所に変わらずの表情で若越を見ている。
「…はい。亡き若越 浮地郎は、自分の父です…。」
若越は少し嫌悪の表情でそう言った。
棒高跳びを続ける事で、いずれ父親の話を必ずされる。
そしてその度に、何処か見えない闇の中に引きずり込まれてしまう。
その事を若越はずっと想定していたつもりであったが、いざその時となると動揺を隠せ無かった。
若越は胸が締め付けられる感覚を感じた。
「…そうか。期待してるよ、若越くん。」
宙一はそれ以上の会話はしなかった。
そう言い残すと、宙一は跳躍の準備を始めた。その兄の姿を見て、皇次も慌てて準備を始める。
江國は、じっと若越の姿を見ていたので若越もその目線に気がついた。
若越と目が合うと、江國は何かに納得したように準備を始めた。
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9:43
インターハイ東京支部予選男子棒高跳び。
出場選手は伍代、若越、高薙兄弟、江國の5人のみであった。
各種目8位までが東京都予選に出場できることになって入るが、種目によっては競技人口等の観点から特記事項が設けられている。
男子棒高跳においては、今年度公認記録3m40cm以上を持っていれば都大会に参加できる。
先に記録会にて4m65cmを達成している宙一と4m70cmを達成している伍代は、既に都大会への出場権を獲得していた。
高校生となってから初めての公式試技となる若越、江國、皇次にとっては、今大会での記録が今後の目標への1つの指標となる。
更に、3m40cm以上の記録を残せば、今大会の順位に関係なくいきなり東京都大会へと進出できるのだ。
3人とも、実力的には申し分ない。
今大会で必ず4m以上の記録を叩き出してくるだろう。
そんな期待や高揚感を持った人たちが、まだ東京支部予選にも関わらず観客席にびっしり詰めかけた。
中には、スポーツ誌を手掛けているであろう記者の姿も散見された。
「…相変わらず、すごい盛り上がりだな。棒高跳びは。」
周囲の人の多さを見渡しながら、その観客席から競技を見守っていたのは、
自身の種目を明日に控える室井であった。
同時刻に男子100m予選が行われる為、短距離陣は100mの応援へ出向いていた。
「…なんて言っても、昨年1年生ながら南関東で奮闘した伍代と高薙。
それに今年は、その弟皇次に日本記録保持者の息子若越がいるもの。
見た感じ、神奈川や千葉の高校も市場調査に来てるみたいだね。」
室井の横に小さく座っていた倉敷が、そう言った。
倉敷の言う通り、他支部の高校や都外の高校の名前の入ったTシャツを着た者もちらほら見受けられる。
「…拝璃はともかく…若越くんにプレッシャーが掛からないといいですけど…。」
倉敷の隣で見守る桃木は、心配そうにそう言った。
伍代と幼馴染の桃木は、伍代に絶対的な信頼を置いていた。
だからこそ、部としても伍代や桃木にとっても期待の星である若越に対し、心配していた。
「…俺があいつの出場を許可したのは、伍代の前例があったからではない。
あいつのこの2年半という長いようで短い時間を、無駄にしない為だ。
あいつ自身が、それを理解して経験として落とし込めれば、あいつは必ず2年後に全国制覇する。
…いや、下手したらその先、日の丸を背負うことも夢ではないだろう。」
そう言う室井の目は真剣そのものであった。
室井は1度たりとも若越を特別視しては無かったが、その胸中には確かな期待があった。
「部長、去年も拝璃にそう言ってましたもんね。」
桃木は懐かしげにそう言った。
伍代もかつて全国中学総体にて2位の実力者であったからこそ、周囲からの期待は想像を越えていた。
「…いや、伍代とは違う。」
室井は、桃木の考えを即座に否定した。
室井の思惑は、既に桃木の思う範疇を超えていた。
「若越には"全中優勝"、"中学記録保持者"、"父親が日本記録保持者"と3つもラベリングがされている。
…それに加えて、"父親の死"。あいつが抱えている重荷は伍代とは遥かに違う。
あいつ自身、棒高から逃げ出したいという気持ちがあった。だから、伍代はあいつを引っ張り上げた。
ボロボロに傷ついた黄金の羽、あいつが2度と羽ばたくことのできなくなる前に…。」
室井は全て見抜いていた。若越の胸中も、伍代の思惑も。
「…伍代くんも、若越くんの背負うものの大きさに少なからず気がついていると思うわ。
だからこそ、自分が彼を引っ張らなければと
室井の言葉を補足するように、倉敷がそういった。
2人の思考は繋がっているかと思うほどに一致している。
「…だから俺は、あいつに『おまえに興味はない。』と言った。
何も突き放す気ではない。ただ純粋に、あいつがもう1度背中に宿した黄金の羽に気づき、才能を開花させられるように…。」
室井の思考は完璧だった。それが故、本心を言葉にするのは苦手のようであった。
その思いを若越は正確に受け取ることが出来るのか…。
3人の見守る前で、若越は練習跳躍を見事に披露した。
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10:00
「それでは、競技に移ります。
最初の高さはどうしましょう?」
審判員は、5人が待機するテントにやって来てそう言った。
「…羽瀬の2人で決めていいぞ。なぁ?」
宙一は、伍代と若越に向かってそう言った。
余裕そうな宙一は、皇次と江國に確認するように2人の顔を覗くと、2人は黙って首を縦に振った。
「…どうする?若越。」
伍代は少し困ったように若越を見た。
若越は、他の4人を見渡すとすぐにその答えを出した。
「…4m50からいきましょう。いいですよね?」
そう言う若越も、余裕の表情であった。
…しかし、正確に言えば余裕を繕っていた。
継聖メンバーが少々気に食わないのか、その空気感に飲まれまいと若越は何とか自分の空気を醸し出している。
「オッケー。じゃあ、4m50からお願いします。」
宙一が代表して審判員にそう伝えた。
審判員は「わかりました。」と言って、補助員たちに競技の準備を指示した。
「…それじゃあ、第1跳躍者の高薙皇次くん。準備を始めてください。」
審判員がそう言うと、皇次は"KEISEI"と書かれた濃い紫色のTシャツと黒に紫のラインが入ったジャージのズボンを脱いだ。
「皇次、気を抜くなよ。」
宙一は、初めて高校の試合の舞台に立つ弟に一言だけそう言った。
「…当たり前だろ?兄貴。」
皇次はそう言って、ポールを持って助走路に向かった。
風は、選手たちにとって少し左寄りに吹いている。
皇次は、自分の助走スタート位置に置いたマーカーの元に立つと、グリップ(※1)を確認した。
風向きが少し追い風になった時、皇次はポールの先端を持ち上げて、大きく深呼吸した。
「…行きまぁぁっすっ!!!」
皇次が大声でそう合図すると、コーナー側で見守る継聖学院メンバー全員が大声で「はぁぁい!!!」と合図に答えた。
走り出しはゆっくりと、歩数を重ねるうちに段々とスピードを上げた皇次の助走は軽快なテンポを刻んでいる。
助走が11歩目を迎えた辺りで、皇次は素早くポールの先端をボックス(※2)に向かって下ろした。
14歩目、左足が力強く地面を踏み切ったと同時に、皇次が持つポールが大きく湾曲した。
皇次の体が遠心力によって勢いよく振り上がると、ポールはその形を戻そうと皇次に反発の力を与える。
皇次は、逆上がりをするように両足を天高く振り上げると、体の中心を軸に向きを180度回転させ、バーの上を10cm程高く跳んだ。
ポールを離した右手がバーの上を越えた時、大きな歓声と拍手が観客席から届けられた。
審判員が大きく白旗を上げた。
高薙 皇次、4m50cm1回目成功。
試技順を次に控える若越は、皇次の一連の跳躍を助走路に立ち、後ろから見ていた。
(…高薙 皇次ねぇ…。)
目の前で同学年の選手、ライバルといえる存在が跳躍を成功させようと、若越に動揺はなかった。
皇次がマットから降りている時には、既に若越は助走路上でグリップ位置を確認していた。
「…若越、大丈夫そうか?」
ふと、若越が顔を上げると隣には伍代がいた。
伍代は心配そうに、初めてのインターハイ予選の舞台に立つ後輩の姿を見ていた。
「…まあ、何とか。それなりにはやるつもりです。」
若越は少し冷たく無愛想にそう言うと、両手で持つポールを地面に押し付けて曲げてみせた。
「…周りの声は気にするな。お前はお前だ。気楽にやれよ。」
伍代はそう言うと、若越の背中を軽く2回叩いて選手控えテントに戻って行った。
(…言われなくても、気にする気はない…。)
バーの位置が正常である事が確認されると、審判員は若越を向いて白旗を振り下ろした。
若越の跳躍開始の合図だ。