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第8話:Impatience & Arrogance

若越の順番が合図されると、観客席で見守る室井たちは少し前のめりになった。


「…次は若越くんですね…。」


跳躍の様子を、動画に収める為にスマートフォンの録画ボタンを押しながら、桃井は心配そうにそう呟いた。

倉敷は特に動揺することなく、腕を組みながら視線を若越に向けている。


「…さて、どんなパフォーマンスを見せてくれるかな。」


室井はそう呟くと、その目線を真っ直ぐ若越に合わせた。



_



男子100m予選。

1組目が終わり、2組目がスターティングブロックのスタンバイに入った。


1レーンには、七槻 勝馬が出場する。

七槻は、スタートの調整の為に軽く10m程ダッシュした。


スピードを緩めてスタートに戻ろうと振り返った時、その視界に若越が見えた。


(…あいつも1本目か…。)


勝馬は2秒程立ち止まって若越を見ていたが、すぐにスタートに戻る為に歩みを進めた。


次の組には、音木がいる。

3レーンで待機する音木に、七槻は視線を向けた。


(…ああ。分かってるよ、勝。)


音木の目は、七槻にそう訴えかけているようであった。


ふと、七槻は自身の右側から強烈な風を感じた。

走者にとっては走りに影響する程の横風。

しかし、七槻に焦りはなかった。


(…天はお前の味方だぜ…。若越ぇ…。)


七槻は、そんな事を思いながら自身の両腿を大きく2回叩いた。

七槻の両足に刺激が走る。その痛みともエールとも取れる衝撃を感じながら、七槻はスターティングブロックの後ろに戻った。


_


少し離れた100mゴール付近の観客席には、七槻 巴月が両手にストップウォッチを握りながら競技場を見ていた。

その横に並んで、紀良と蘭奈もいる。


「…お兄ちゃん…。」


巴月は兄の姿を心配そうに見つめていたが、視線はチラチラと泳いでいる。

それを察したのか、横で見ていた紀良が口を開いた。


「…若越も1回目の跳躍に入るみたいだな…。」


心配そうに見守る2人を他所に、この男だけは第1レーンの七槻だけを見ていた。


「勝馬さぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!!!!!!

ファイトぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!!!!」


…蘭奈である。

相変わらずの声の大きさに、巴月と紀良は愚か周りにいた他校の人たちも一斉に蘭奈の方を見た。

巴月と紀良は、耳を抑えながら



_


若越は、背中に強い風を感じた。


(…チャンス…。)


若越はゆっくり息を吐くと、手に持つポールを持ち上げた。

…その時であった。


「勝馬さぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!!!!!!

ファイトぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!!!!」


スタンド(※1)から大きな声がした。

その声で、若越は視線の先に七槻がいることを初めて認識した。


(…七槻先輩…。)


若越に一瞬の迷いが生じた。

跳躍を一時中断しようかと思う若越の心理に反して、体は既に助走に向かっていた。


(…いや、行くしかない…。)


若越は、体の動きに反することなく右足を1歩踏み出した。

その足を1度後ろに下げると、意を決して若越は口を開く。


「…行きます。」



若越は走り出した。

吹き流し(※2)が追い風を示している。その風を目一杯背中で感じ、若越の助走は徐々にテンポアップし速くなった。


若越の助走は12歩。

8歩目辺りからポールを降ろし始めて、ボックスにポールの先端を突き刺し、跳躍する。


しかし、9歩目を越えた辺りで若越は素早くポールを降ろし、その先端をボックス内に収めた。

そのまま踏み切れば跳躍…となるはずであったが、若越は助走の勢いそのままマットに転がり込んだ。



審判員が赤い旗を大きく上げる。跳躍失敗の合図だ。

若越は、マットの上で天を仰いだ。それは悔しさではなかった。


(…やっぱ違うな。競技場は。)



パァァァァァァァァァン!!!!



若越が一瞬黄昏ていた時、ピストルの合図が競技場に響き渡った。

若越は驚いたようにトラックを見ると、自分と同じ羽瀬高ユニフォームの選手が力走する姿が目に映った。


(…七槻先輩…。)



_


スタートと同時に勢いよく飛び出した七槻は、その時点で組の上位を確実にする位置に躍り出た。


50mラインを越えた辺りで、その順位は3位。

先頭を走る選手との差はごく僅かである。



(…1年の前で…醜態晒すわけにはいかねぇんだよっ!!!!!)



七槻のスピードが上がった。

80m時点で先頭と並ぶ位置に浮上した七槻。


最後まで競り合いを見せるも、そのままゴールラインを越えた。

そのタイムは…。


「…11秒46…。」


巴月は手元のストップウォッチの時間を見て、そう呟く。


「…順位は!?1位か?」


蘭奈が興奮気味にそう言う。

それもそのはず。100m予選は出場選手の多さから15組編成での競技であり、各組上位1着+タイム上位9名が決勝に進める。



それにより1着以降の選手は、後続組のタイム結果を待つしか無い。

すると、場内アナウンスが速報結果を放送した。


『…1着、第7レーン…。』


七槻は、天に向かって「くそっ!」と吐き捨てた。

ぐっと拳を握りしめながら、七槻は一旦グラウンドから立ち去ろうとする。


『‥2着、第1レーン七槻君。記録、11秒41。』


その時、アナウンスが七槻の結果を伝えた。

巴月たちは驚きながらその結果を聞いた。


「…2着…!」


「1組目の2着が11秒62だったから…可能性あるぜ!これ!」


巴月と蘭奈は興奮気味に盛り上がっていた。

その2人の様子を引き気味に見ていた紀良は、水を指すように2人に言った。


「…でも、あと後続が13レースもあるんだろ?喜ぶにはまだ早いんじゃ…。」


そんな紀良の心配を、蘭奈が一蹴する。


「何言ってんだ紀良!残りの組、2着以降が11秒5以降だったらタイム繰り上げトップじゃねぇか!!」


…それはあまりにもポジティブ過ぎる…。

蘭奈の熱血具合に紀良は戸惑いを隠せずにいた…。


_



(…七槻先輩、2着か…。)


そんな事を考えながら、若越はポールを持ちながらマットを降りて控えテントに向かった。

テントの骨組みにポールを立てかけると、ベンチに座って大きく息を吐いた。


「…足、ドンピシャだったけど、次は行けるのか?」


伍代がそう言いながら、若越に近づいた。


「…タイミングが合えば…まぁ。」


若越は何処か他人事のようにそう返事をした。


「もっと楽にやればいい。俺と勝負した時の、4m90のイメージで跳べば楽勝だろ?」


若越が集中できていない様子を、伍代は察していた。

伍代なりのアドバイスを若越に伝えると、それを近くで聞いていた高薙兄弟は驚いたように互いの顔を見合わせた。


(…4m90…!?)


(…焦るな皇次…。仮にもこいつは全中優勝、しかも4m97の記録を持っている…。)


2人はまるでそう会話をしているかの様に黙って目を合わせた。


そんな様子を他所に、江國が1回目の跳躍の準備をした。

助走路に立つ彼の姿は、その体格も相まって迫力があった。


「…次は修正します。」


若越はそう言うと、徐に立ち上がりテントの外へ出て軽く走り込みをした。

その姿を、伍代は心配そうに目で追った。


(…どうした?…気負ってやがるのか…?)



伍代は、若越に"焦り"を感じていた。

消極的というか、どこか楽観的な若越の態度が本心ではない事に、伍代は気が付いている。


そんな伍代の心配を他所に、若越は助走路脇を軽く何回かダッシュしてみせた。

まるで、「自分はまだまだ出来る。」と周囲に見せ付けるように…。


ふと、マットに向かって突風が流れる。

マットに向かって逆方向に走っていた若越は、その風を正面から受けた事で、顔を背ける。

その目線が助走路の江國に向くと、彼はゆっくりとポールの先端を持ち上げていた。



「…行きます。」



江國は聞こえるか聞こえないか程の声量で、そう呟いた。自身の背に強烈な風を受け取った事が、彼にとってスタートの合図となる。


皇次の時は、その合図に返事で応えていた継聖学院メンバーも、風の音も相まってその合図を聞き逃していた。



誰もが突然のスタートに慌てる中、江國はゆっくり助走を始めた。

決して速度が速いわけではない。むしろ、ブランクのあった若越の方が助走スピードは速い方にも見える。

しかし、江國の助走は確実にテンポを刻みながら確実な歩を進めている。


助走が11歩目に差し掛かった辺りで、江國はポールの先端を少しずつ降ろした。

そして14歩目。高く突き上げた両腕と力強く踏み込む左足が、模範解答のような踏切を演出した。


湾曲するポールをしっかり握りしめた両手を軸に、まるでサーカスの空中ブランコのように振られた体を、上下反転に持ち上げる。


反発によりポールが元の形に戻る頃には、江國の体は旋毛から足裏を軸とし、地面に対して垂直になる程に高く上がっていた。

足先がバーの少し上を狙って蹴り上げられると、今度は体の向きを前後回転させて、そのバーの上を狙って越えるように跳ね上がる。


見ている誰しもが、江國の完璧とも思える程美しい跳躍に驚愕した。

しかしそれは、すぐに落胆する事になる。

若越が思わず、背にした棒高跳びピットの方に振り向いた程の突風が、足を引っ張る。


江國の腕は、惜しくもバーを巻き込んでしまった。

江國の体はバーを飲み込みながら、マットへ向かって落下した。


江國がマットに着地すると、すぐ後にバーも着地した。

審判員が、赤旗を振り上げる。



「…ったぁ!惜っしいぃ!!」


控えテントで見ていた宙一は、両手で頭を抱えながら、残念そうにそう言った。

その隣で見ていた皇次は、何食わぬ顔で江國の様子を見ている。

彼にとってはそう驚愕する程ではない、何ら変わらぬと言わんばかりの態度であった。


その2人の後ろで見ていた伍代は、江國の余りの勢いに驚愕して動きを止めていた。


(…なんなんだ…あいつは…。)




それは、若越も例外ではない。

審判員が赤旗を振るまで、若越は呆然と江國の跳躍から目を離せずにいた。

彼はハッと我に返ると、鋭い目つきで江國の姿を睨みつけている。


(…江國…途識…っ!)


若越のその様子は、悔しさによるものなのか。

それとも、まだ自分が勝てるという余裕のものなのか。


観客席からは、驚愕と落胆の歓声が入り混じって聞こえてきた…。


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