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第9話:Damaged Feathers

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「…若越、飲み込まれるかもしれないな。」


観客席から見守る室井は、江國の跳躍とそれに伴う現状況を見てそう呟いた。


「…えっ…それってどう言う…。」


桃木が室井にそう聞こうとすると、室井は目で合図を送った。

室井の目線の先には、自分たちが見ている場所の少し隣で見ている、継聖学院のメンバーたちであった。

10人程、主に新入部員と思われるまだ何処か幼い者たちと、数名先輩部員と思われる者が、一塊となって選手を応援していた。


その様子を見た倉敷が、納得したように話し始める。


「…継聖の戦略ってところね。

去年、伍代くんに負けてるからこそ、今年は数で有利な継聖棒高陣で少しでも勝ちたいって感じなのかな?」


継聖学院の一体感。それは会場の空気を見事に作り上げ、自分たちのフィールドとして完成させつつあった。

その空気感に、若越が飲み込まれるかも知れない。室井と倉敷はそう感じていた。


「…で…でも、若越くんは全中優勝経験もありますし…同じ状況は何度も経験しているはずです!」


桃木だけが、依然若越への期待を振らさずに持っていた。

桃木の意見に、室井は大きく息を吸って答えた。


「…どうかな。そうでないことを祈ることしか、見ている俺達には出来ない。

どれだけ仲間がいようと、陸上競技は最後は"個人戦"。己が己に勝つことしかその活路は生み出せない。」


室井の言葉の重さに、桃木は何も言えなかった。

室井以上にその言葉への説得力があるものは、他には居ない。




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若越が再び、助走路に立った。

江國の跳躍を見て尚、動揺している様子は無かった。


(…さっさと記録出して、この異様な空気をなんとかしないと…。)


やはり、若越は自身に向けられる"期待"という名のプレッシャーを感じていた。

観客席から自分を見守る羽瀬高メンバーの目線、そして他校の部員たちの目線。

競技場に同じ選手として立つメンバーの目線、そして関係者である審判員や補助員の目線。

そして何より、控えテントから見ているライバルたちの目線…。


室井の言っていた通り、他の選手たちが感じるよりも、数々のレッテルが貼られた若越の感じるは、比べ物にならない程の重荷となって若越に伸し掛かる。


「…4m50、若越君、2回目!」


審判員がそう言って白旗を大きく振り下ろす。

若越の2回目の跳躍の合図であった。


ポールの先端を真っ直ぐ行く先へ向けたまま地面に着け、左右の手のグリップ位置を確認する。

納得がいったのか、グリップ位置を決めると若越は顔を上げた。


しかし、見えない重荷がまた若越に負荷を掛ける。

違和感を抱えた若越は、1度ポールを握った両手を離し、ポールを地面に置いた。

そして、両手に溢れるほどタンマグを着けると、祈るように両手を擦り合わせる。



パァァァァン!!



若越は、その両手を勢いよく叩き合わせた。

その行動に、一瞬で周囲が少しばかり静かになったように感じられる。

それにより若越は、感じていた違和感という名の重荷を振り払ったようにも見えた。


再びポールを握った若越の手は、一発で先程合わせた握り位置を捉えた。

勢いそのまま、若越はポールの先端を持ち上げて1歩右足を出した。


「…行きます。」


呟く程の声でそう合図した若越に、今度は伍代がしっかり「はぁい!」と答えた。


(…かましてやれ…!若越っ!)


伍代は祈るようにしてそう若越を見つめた。

眩しいからだけではなく、眉間に皺を寄せた顔でただ黙って…。



1歩前に出した右足を再び後ろに下げるステップが、若越の助走スタートの合図だ。

1本目と同じ、徐々にテンポアップする助走が8歩目に差し掛かると、若越はポールの先端をボックスに向かって降ろし始めた。


踏み切りまでの3歩は、1番テンポを刻んで素早く両足が回転する。

それと同時に、両手を高く上げてポールを突き刺す。


ポールとボックスが接触する、ガツン!といった音と同時に、若越は左足で力強く地面を踏み切った。


江國よりも少し柔らかい(※1)ポールを使う若越は、江國よりも体格が小さいにも関わらず、江國と同じようにポールを綺麗な弧を描くように曲げてみせた。


ポールのグリップを軸に、逆上がりのように体を上下反転させた若越は、そのまま体を回転させながらバーの上を狙って跳ね上がった。


江國よりも乱雑に見えるその跳躍だったが、江國と同じくらいの高さに到達し、見ている者を圧倒した。



しかし、事はそう簡単には進まなかった。

完全にバーの上を体が越える前に、若越の体はマットに向かって落下を始めてしまった。

見事にバーを巻き込みながら、若越の体がマットに着地する。



観客席からは落胆の声が聞こえた。

審判員が赤旗を振ると、若越の2回目の跳躍記録に×印が付けられる。




10秒程、若越はマットの上で空を眺めた。

その腹部にはバーが伸し掛かっている。


(…上手くいく気がしない…。)


不安が若越を襲う。

その不安は、約半年ぶりの競技場での跳躍だからなのか。

それとも、高校の舞台の独特の緊張感から呼び起こされたものなのか。


否、若越の不安は第3者には分からない程、暗く深いものであった…。



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半年前、全国中学総体陸上競技。

男子棒高跳び。



4m90cmをクリアした若越は、喜びは決して見せずに黙って観客席にいる父親の元に向かった。



「…やったな!跳哉!これで優勝は決まったも同然だ!」


そう喜ぶのは、父親である浮地郎ふじろうであった。

試技順が1番最後であった若越は、他の選手が軒並み失敗する中1発クリアでその高さまで登り詰めていた。


「…優勝?ああ。でも、狙うのは中学記録だよ。父さん。」


当の本人が狙う先は、優勝のその先にあった。

父親が残した中学記録である4m94cmの更新。

それが、彼の中学時代の目標であった。


「ああ、そうだな。中学生の頃の俺を越えて見せろ。跳哉!」




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目を閉じた先には、あの時の笑顔の父親の顔が思い浮かんでいた。


(…中学の頃の父さんどころか、中学の頃の自分すら越えられなくなっちまったよ…父さん。)


胸中でそう呟いた若越は、ゆっくり立ち上がると補助員にバーを渡し、ポールを持ってマットを降りた。


すぐに、若越の元に伍代が駆け寄った。


「若越、プレッシャーを掛けるつもりはないが…あと1本しかないぞ。」


伍代の顔は真剣だった。

伍代の目に映る若越は、どこか呆然として今一歩本来の力を出せていないように見えていたからだ。


「…。」


若越は何かを言いかけて、グッと飲み込んだ。

伍代に言っても仕方のない事なのか、それとも自分自身で上手く消化できたのかは分からない。

何も言わずに若越は、黙って再び控えテントの下へと戻り、腰掛けた。



若越の姿を気にも留めずに、江國が跳躍の準備に入った。

江國は、若越程気負っている感じはなかった。それ故に周囲の期待は江國に向けられる。


審判員が白旗を振った。

江國の2回目の跳躍が始まる。



「江國ぃぃぃ!ファイトぉぉぉぉ!」

「江國ぃぃ!落ち着いていけぇぇぇ!」


観客席からの継聖学院の応援が聞こえてきた。

それは、流れを完全に継聖学院が飲み込んでいるように感じられる。


江國はゆっくりポールを持ち上げた。

その時、再び背後から追い風が吹いた。吹き流しが勢いよく靡く。


「…行きます。」


江國のその声に、継聖学院メンバーが答えた。

競技場にいる人々の注目が、一瞬にして棒高跳びピットに集中する。


江國の独特なテンポを刻む助走。

マットに近づいていくにつれ、見ている者の注目度を更に上げる。


1本目と同じ14歩目で踏み切った江國のポールは、やはり模範解答のような弧を描きながら江國の体を振り上げた。

誰もが、1本目の修正を完璧に仕上げてくる。と見ていた。




しかしその時、江國の右側から強い横風が吹いた。

江國は咄嗟に、真っ直ぐ元の形に戻ろうと反発するポールを手放し、華麗に宙返りするとそのままマットに着地した。

手放したポールは、反発の力を受けて独りでに跳ね上がりマットの左方向に倒れていった。



突然の横風に見ている誰しもに緊張感が走ったが、江國は難なく回避してしまった。

但し、2回目の跳躍は失敗に終わった。


江國自身は何てこと無いように、少し首を傾げながらポールを持ってマットを降りた。


「…大丈夫か?江國…。」


宙一は駆け寄ってそう言った。

江國は近寄る宙一を軽くチラッと見たが、すぐに目を逸らして左掌を見た。


「…まあ、なんとか。…ちょっと焦りましたけど。」


江國は無愛想にそう答えると、控えテントに向かった。


こうして、4m50cm時点での結果は

高薙 皇次のみ成功、若越、江國は3回目の跳躍待ち、高薙 宙一、伍代 拝璃はパス(※2)の状態となった。


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