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第13話:Dark Clouds Gather

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4m70cmの1本目が行われようとしている。


助走路に立つのは、残された選手のうち試技順が先の伍代であった。

伍代は特に変わった様子はなく、比較的落ち着いた表情をしている。



控えテントでは、宙一がジャージの長ズボンを脱いで次の跳躍へのスタンバイをしていた。

しかし、ふと脱ぎかけていたズボンを履き直し、宙一は若越の隣に座った。

宙一は、皇次や江國に聞こえないように小声で若越に話しかける。


「…若越、そろそろ顔上げたらどうだ?」


宙一の声掛けに、若越は全くの無反応で俯き続けた。


「…伍代が跳ぶぞ。1回くらいは、お前の先輩の勇姿を見てやってもいいんじゃないか?」


(…この人は、どの立場でそんな事を言っているんだ。先輩だから?強いから?若越俺自身の事は全く無視って事か?)


若越は、宙一に対して嫌悪感を覚えた。

どうしてこの人は、自分にそんな事を言うのだ。と。

宙一は、恐らく若越の事情を少ししか知らない。

ニュースでも大々的に取り上げられていた"浮地郎の死"に関しては知っているのかもしれない。

しかし、それからの若越の葛藤や、伍代との出会い。そして若越が今回の大会に出場するまでの事を、この男はどこまで知っているのだろうか。


「…すみません。僕の事は放っておいて下さい。」


俯きながらも漸く吐き出した若越の言葉は、弱々しい。

感情を表に出さない様に慎重に選んだ言葉は、結果として鋭い刃物のようになってしまった。


生意気な若越の態度に、宙一は怒るどころか寧ろ笑ってみせた。

しかし、次に放った言葉に宙一の感情の全てが込められた。


「…これから羽瀬高お前らとは刺激的な戦いができると思ったが…

これからは継聖学院俺たちの時代になるのか。」




伍代が行きます!と大声で叫び、走り始める。

風は若干の追い風。助走も申し分ない。



(…俺が魅せなければ…。若越後輩に…。)



伍代は気負っていた。自己ベストを考えれば、まだ気負う程の高さではない。

しかし、後輩の結果や前年結果の見えない圧が、伍代の背中に知らず知らずのうちに伸し掛かっている。


そして、伍代が気負うもう1つの理由。



(…俺を見ろ…桃っ!)



伍代が棒高跳びを始める前から、伍代が何かを成し遂げたり1番になった時には、自分のことのように喜んでくれていた桃木。

しかしその桃木は今、伍代の跳躍よりも若越に心配をしていることは、先程の桃木の態度から伍代は感じていた。

興味感心が、自分から他人に向いたことへの拗ねる感情とは少し違う。

その感情にピッタリの言葉が、1つある。それは…



4m60cmの時とは、見て分かる程に伍代の動き一つ一つに力が込められている。

助走は16歩目を迎える。

左足で踏み切った伍代は、違和感を覚えた。


先程の1本目に比べて、見える景色が近く感じた。

焦る伍代はいつもよりも素早く足を高く振り上げて、バーの上を狙う。


体を捻り、バーを越えようとした伍代の腹部を、バーが掠める。


(…あれっ…高さがっ…!)


ポールに最後まで掛けていた右手を、バーの上から離そうと振り上げるが、その動きよりも早いタイミングで右手がバーを巻き込んだ。




審判員が、少し残念そうに赤旗を振り上げた。

伍代の4m70cmの1本目に、"跳躍失敗"が記録された。



悔しさを滲ませながらも、伍代はマットを降りるとすぐに踏み切り位置を確認した。

本来の位置に左足を置くも、たった今の跳躍の踏み切りの感覚とは違う。

その足を10cm前に出してみると、その感覚は近づいた。


気負うことで焦った伍代の感情が、一連の動きに現れてしまった。

助走速度が上がり、踏み切り位置が本来よりも前に出てしまった事で、それ以降の動きを展開するポジションが少しずつズレてしまっていた。

それが結果として、本来は掠めることのないバーを勢いよく巻き込んでの跳躍となってしまった。



踏み切り位置の確認を終えた伍代は、振り返り控えテントへと下がっていった。

その時、助走路で跳躍を控える宙一と目が合った。

宙一の目は、まるで標的を目の前にして追い詰めた虎のように鋭く伍代の姿を捉えているように見える。



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伍代の4m70cmの1本目の跳躍が終わると、先程のようにアドバイスを求めてくると思い、桃木は観客席の最前列に降りていった。

しかし、伍代は真っ直ぐ控えテントに戻っていってしまった。


「…拝璃…?」


桃木は不思議そうに伍代の姿を見つめていた。

するとそこへ、100mの観戦を終えた蘭奈、紀良、巴月が合流した。


「桃さん、お疲れ様です!」


巴月がそう声を掛けるも、桃木は依然グラウンドを見つめていて気がついていない。


「…桃さん…?」


巴月がそうつぶやきながら桃木の顔を覗き込んだことで、漸く桃木は気がついた。


「…あっ、ごめんね?100m見ててくれてありがとう!巴月ちゃん。」


気を取り直して桃木はそう言うと、3人を室井たちのいる所まで連れて行った。



席に戻ると、室井と倉敷が険しい表情で棒高跳びのピットを見ていた。


「…おっ、お疲れ様です!部長!」


流石の蘭奈も、少し萎縮しながらそう挨拶する。

室井はおう。と一言呟くも表情や体勢は一切動かしていない。

1年生3人は恐る恐る室井たちの前の列の席に座った。


「…若越のやつ、どんな調子だろうな…。」


「…記録無し、よ。」


えっ!と蘭奈、紀良、巴月が同時に振り返った。

記録無しを告げたのは、倉敷である。


「…4m50を3回失敗。泊麻が走り終わった頃には、その結果が出てた。」


淡々と結果を話す倉敷がそう言い終わると、1年生3人はそれぞれ顔を見合わせて驚いた。

3人はもちろん、若越が入学当初に伍代と対決した時のことは知っていたし、その後練習でも伍代に負けず劣らずの跳躍をしていたことは度々目にしていた。


「…今は4m70の1本目。伍代くんは1回目を失敗。次は継聖の高薙くんの番ね。」



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その高薙 宙一の4m70cmへの跳躍の1本目が始まった。


行きます!と大きな声で宣言し、それに継聖学院メンバーが応えて宙一は走り始めた。

風は僅かな追い風。しかし見た目の風向きと言うより、全体の空気感を指す風向きは完全に宙一にとって追い風であった。


先と同様、宙一の助走は力強い。見ている誰もが他の選手と比べても、その差は歴然である。

リズムは先程より少しだけ速く刻まれていて、助走の勢いが増しているのが見て取れる。



ポールの長さとバーの高さにそこまで差がないこの4m70cmの高さのうちに、流れを引き寄せたい。

仮に2人共がこの高さを越えたとして、ここから先の高さを先にクリアしていくという勝負は、伍代にとっても宙一にとってもそう安易ではない。


しかも、今期まだ公認記録は宙一の方が伍代よりも上だ。

宙一にとって、最も喉から手が出るほど欲しいチャンスが、今目の前にある。




踏み切り位置の手前に設置したマーカーを横目に捉えて、宙一はポールをボックス目掛けて降ろし始める。

その時であった。

宙一は背中に強烈な追い風を感じた。瞬間的な突風であったが、宙一にとって十分すぎるサポートである。


追い風を背負って、宙一は力強く地面を踏み切った。

素早い反転動作を行い、宙一の体はバーの上20cm程高い場所を通過していった。


宙一は落下している最中、バーを越えたことを確信して空中でガッツポーズをした。

マットに着地したところで、審判員が白旗を振り上げる。


宙一が4m70cmを1本目で成功した。


「…っしゃぁぁぁ!!!」


マットの上で立ち上がった宙一は、観客席の継聖学院メンバーに向けて拳を突き上げた。

大きな歓声が宙一の合図に答えるように響き渡る。


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踏み切り位置を確認して、宙一が控えテントに戻ろうと振り返る。

今度は2本目を控える伍代が助走路に立っていた。


伍代はポールを握る両手をじっと見つめていた。

その姿を見て、宙一は伍代が焦っていると感じた。



宙一の時に吹いていた追い風の影響であろうか。

風は不規則に追い風と横風を繰り返しながら吹いている。


しかし、伍代にとっての空気感は完全な向かい風状態となった…。




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