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インターハイ東京都支部予選が明けた月曜。
板書をする教師の後ろ姿を呆然と見つめている若越の耳に、授業終了の鐘の音が聞こえてきた。
「…それじゃあ、来週小テストするから。しっかり勉強してこいよー。」
現代文の若い男性教師は、そう言うと荷物をまとめて教室を出て行った。
若越が高校生となってもうすぐ2ヶ月が経とうとしている。
「…ねぇ、若越くん?」
爽やかな石鹸のような香りに、若越がもう驚く事も無い。
声を掛けたのは、同じクラスである巴月であった。
高い位置で縛ったポニーテールを揺らしながら、彼女は若越の顔を覗いている。
「…あぁ、どうした?七槻さん。」
若越は動じる事なく巴月の顔を見た。
同じクラスの同級生の男子の中には、巴月に声を掛けられただけで大喜びする連中もいるが、若越はそうではなかった。
同じ陸上部という事もあるので、若越が巴月相手に高揚したりはしない。
むしろ、そうであるにも関わらず何処か余所余所しさすらある。
「…ねぇ、"七槻さん"ってさぁ…同じ陸上部なのに余所余所しくない?」
巴月は、若越のその態度が気に入らないらしい。
「別に、お兄ちゃんの事は気にしなくていいからね?もしかして、お兄ちゃんって後輩にギラギラしてる感じなの?」
お兄ちゃん…七槻 勝馬は、妹が同じ高校に入った事で血の気が多くなったと同級生から評されている。
それもあってか、話しかけられただけで高揚してしまう男子たちが沢山いる中で、巴月に近づこうとする者は余りいなかった。
「…ギラギラってなんだよ…それより、どうしたの?」
巴月のボキャブラリーレベルの低さに呆れながらも、若越は巴月が声を掛けてきた理由を問いかけた。
「今日、お昼休み蘭奈くんと紀良くんとお昼食べよーって言ってるんだけど、若越くんもおいでよ!」
余所余所しいと言う割には、自分も人のことを苗字で呼ぶじゃないか…と思いつつも、若越は回答を濁しながら言った。
「あー、いいけど…。」
何処かハッキリしない若越の言い方に、巴月は食い気味に返してくる。
「いいけど?」
「…ちょっと桃木先輩に呼ばれててさ。すぐ終わる用事って言ってたから、それ終わったら合流するよ。」
若越がそう言うと、巴月はただでさえ大きな目を更に大きく開きながら、今度は顔を近づけて小声で若越に話しかけた。
「…えっ、桃木先輩に呼ばれてるって…まさか…?」
巴月が想像してる言葉は、若越も想定していた。
巴月がその全てを言い切る前に、若越は答える。
「…んなわけねぇだろ?…それに、俺も桃木先輩にちゃんと一昨日の事謝らなきゃだし。心配させちゃったみたいだから…。」
浮ついていた巴月も、若越の言葉を聞いて少し大人しくなった。
一昨日の事。支部予選での事は余り触れない方がいいと巴月は思っているようだ。
「…わかった。じゃあ、私たち部室近くに集まる予定だから、終わったら来てね!」
巴月はそう言うと、友達を見つけたのか小走りで去って行った。
(…あいつは元気だよな…。)
巴月の天真爛漫さを、若越は少し羨ましくも思っていた。
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4限が終わり、1時間少々の昼休みになった。
若越は、桃木が指定した第1体育館の通路へと向かった。
「…あっ、若越くん!」
先に声を掛けたのは桃木であった。
制服姿の桃木を見る事は余りないので、若越は少しの間その姿に釘付けになっていた。
「…お、お疲れ様です。桃木先輩。」
「何それ、社会人みたいじゃん。」
桃木はそう言って笑っていた。
その笑顔も、普段部活の時には余り見ない顔であった。
「…その…ご心配をお掛けしてすみませんでした…。」
若越はそう言って頭を深く下げた。
そう言わないと、なんだか桃木の雰囲気に飲み込まれてしまいそうな気がして、若越は何とか自分のすべき事をしようと踏み切った。
「…いいのいいの。気にしないで。
それより、ちょっと座ってよ。」
桃木はそう言うと、その場に腰掛けた。
体育館へ向かう通路のその場所は日陰になっていて、5月半ばの少し強い日差しを避けるには丁度良かった。
それに、時折涼しい風も吹いてくる。
スカートを押さえながらしゃがみ込む桃木の仕草に、若越はまたも呆然と見つめてしまっていた。
桃木に不思議そうに首を傾げて見上げられて漸く、若越は慌ててその場に腰掛けた。
「…若越くん、無理してない?」
若越が座るや否や、桃木は心配そうにそう言った。
「えっ…。」
「…拝璃から、若越くんの事は何となく聞いてるの。
…拝璃の事だから、若越くんの事あまり考えずに誘ったんじゃないかって…。」
桃木と伍代は幼馴染ということで、互いのことはある程度理解し合っているようだ。
「…無理矢理誘われてはない…と言えば嘘にはなりますが、僕にとって再び陸上界に戻ったきっかけとしか思ってないですよ。
伍代先輩が誘ってくれなかったら、僕は多分陸上には2度と関わって無かったと思います。」
そう言う若越にお世辞を言っている雰囲気は無かった。
「…ただ…。」
若越は言葉を続けようとするも、次に言おうとしたことを1度躊躇った。
「…ただ…?」
「…やっぱり、続けていくのは難しいのかなと言うのか…まだ自分の中で迷いが消えてないっていうのが現状です。
これまでと違うのは、今は仲間がいる。1人で戦っているわけじゃないというのは理解しているつもりです。
…ただ、僕自身の目の前の壁は、仲間がいれば越えられるものなのかって。」
若越は何故だか、纏まらない言葉であってもその胸中を桃木に晒す事ができた。
これまで、母親にも同級生にも友達にも、誰にも言えずに胸に秘めていた思いを。
「…難しい事は私は分からないけど…。」
桃木は若越の苦しそうな姿を見て、その言葉を遮るようにそう言った。
そして、若越の目を真っ直ぐ見つめる。
「若越くんを見てると、去年の拝璃を思い出すの。」
桃木の言葉に、若越は口をポカンと開いて不思議そうな顔をした。
「…ほら、拝璃も一応、全中2位って結果を背負って
当時、今東京体育大学にいる三ツ谷先輩って人がいて。
その人と自分との差に悩んでたのよ。
今考えれば、拝璃は決して負けてた訳じゃない。と言うか、今の拝璃はもうその人との差なんてほんの僅かくらいだと思ってる。」
桃木の話の中に出てきた三ツ谷という人物を、若越も耳にした事があった。
父親が注目していた選手でもある。
その人が羽瀬高出身だったという事は、若越も今知ったばかりなのだが。
「…その頃から今の拝璃を考えれば、別に比べる必要なんてなかったんだって思うの。
だって、幾ら頑張っても拝璃が三ツ谷先輩になれる訳じゃない。
それは、若越くんも一緒なのかなって私は思うの。
若越くんは若越くんとして、凄いものを持っているって。
全中優勝とか、中学生記録とか、そうじゃなくてね。
…だから…。」
桃木はそこまで言うと、急に黙ってしまった。
下を見て、次に言う言葉を必死に考えているように若越には見えた。
「…若越くんがどういう道を進むのか、私には分からないし私には決められないけど…
私は見てみたいなって思ったの。若越くんの成長?若越くんらしい生き方みたいなものを。
…なんか偉そうに言ってる感じになっちゃったけど、そうじゃないの。
私が初めて拝璃の跳躍を見た時に感じたものとは少し違う。
若越くんの跳躍を初めて見た時に感じたのは、それよりも少しワクワクした。
だから、難しく考えないでね。若越くんは若越くんらしい、進み方を私は見てみたいから。」
桃木の思いに、若越の胸で何かが大きく動く感覚を若越自身は感じた。
これまでに受けてきた期待や評価とは違う。
この人は、自分の姿を見て何か興味を持ってくれている。
若越にとって初めての感覚であった。
「…なんか、言いながら私もよく分かんなくなっちゃった。ごめんね。
まあ兎に角、無理はしないでね。
私は跳躍マネージャーだから。もちろん若越くんのこともサポートするからね。何かあったら何でも言ってね!」
桃木はそう言うと、徐に立ち上がりその場を去っていった。
桃木に言われた言葉の、8割ほどは若越の脳内には既に残っていなかった。
若越はただ、桃木に感じた思いの正体をひたすら見つけ出そうと必死に考えていた…。
少し呆然とした後、巴月との約束を思い出して
若越はお昼ご飯を手に部室へ向かった。