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第1支部の女子100m決勝のレースが終わり、第1支部としての都大会出場者8名が決まった。
続く第4支部の女子100m決勝。
トラックの第3コーナーで、諸橋と紡井は最後のウォーミングアップを行っている。
観客席でそのスタートを待つ室井たち羽瀬高メンバーの元に、1年生たち3人も合流した。
「…すみませんでした…。」
若越は、桃木や室井、伍代にそう言って頭を下げた。
皆、特に怒っている様子はなかった。
「…とりあえず、お疲れ。若越。」
伍代だけが一言そう言った。
すると、競技場のアナウンスが第4支部の女子100m決勝の開始を告げる。
各組2着までと、それ以降のタイム順上位2名が都大会への出場権を得る。
その為、全体の着順はもちろんの事タイムレースとなるが故に記録が大きくものを言う。
その1組目には、紡井が登場する。
『…第5レーン、紡井さん、羽瀬。』
アナウンス通り、紡井は第5レーンでの出走となる。
紡井は名前を呼ばれると、高く右腕を上げてスタンドの観客たちに大きく一礼をした。
拍手と歓声が、彼女を鼓舞する。
「…頼むよ…紡っ…!」
橋本も祈るようにして紡井の姿を見ていた。
皆が見守る中、決勝1組目のレースの号砲が鳴った。
8人横一線にして50m付近までは殆ど同格。
しかし、そこから第4レーン、第6レーンの選手が前に出始める。
必死に喰らいつく紡井は、
「…4着…。」
蘭奈は大きく肩を落として、その結果を呟いた。
タイムは13秒21。1着の選手が12秒59という好タイムを叩き出している事からも、上位に入れるかどうか五分五分といったところだ。
続く2組目。
諸橋は3組目に控えている為、ここは羽瀬高選手はいないが、この組の結果は1着が11秒89という最速タイムを記録した。
2着の選手は12秒87、3着の選手は13秒04という事で、この時点で紡井の上位入賞の可能性は無くなってしまった。
最終第3組。
諸橋は第4レーン。場所は悪く無い。
諸橋はというと、小学3年生から陸上を始めており、中学校は室井と同校。
室井にとって幼馴染とまでは言えずとも共に戦ってきた同志である。
『…第4レーン、諸橋さん、羽瀬。』
その名が呼ばれると、諸橋も高く両手を上げて大きく一礼した。
高校では後輩たちからも一目置かれる美貌で、噂が絶えないと言われている彼女の、所作一つ一つは確かに美しい。
ゴールラインの先で待つ紡井も、強く両手を胸元で握りしめてそのレースを見守った。
第3組がスタートする。
スタートを得意とする諸橋は一気に先頭に躍り出た。
現状、2組終えての3着以降の上位タイムのボーダーは、紡井の前にゴールした選手の13秒12である。
50m地点での諸橋の順位は1位。
このままゴールを抜ければ、組1位での着順勝ちが可能である。
しかし、運命はそこまで甘くはなかった。
70m付近で後続2人の選手に追いつかれると、そのまま3着でゴールラインを通過した。
羽瀬高メンバーに緊張感が走る。
ゴールした諸橋は、紡井と抱き合い検討を称え合っていた。
そして、電光掲示板に第3組の結果が表示される…。
3. 8439 諸橋 美来 羽瀬高 13.13
諸橋が崩れ落ちる様子は、スタンドから見ていた羽瀬高メンバーの目にも映っていた。
100分の1秒差。
小さいようで大きな壁を越えられなかった諸橋の姿は、その様子を見ていた2年生や1年生にも衝撃を与えた。
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その後行われた第4支部男子100m準決勝。
2組目に出場した七槻は…。
「「…11秒03!?」」
蘭奈と巴月が、先程の諸橋のレース後の消沈状態とは打って変わって、大はしゃぎしながら喜んだ。
「…まさか、ここで自己ベストを大幅更新するとはな…。」
室井も七槻の健闘に感心した。
10秒98で走り抜けた1着の選手の後ろは、七槻を含む3選手での混戦となった。
3着の選手が11秒05、4着の選手は11秒11での速報結果が表示される。
つまり、七槻は準決勝2着での着順決勝を果たした。
七槻のこれまでの自己ベスト記録は11秒34。
予選ではベストの走りとまではいかなかったものの、目の前での諸橋と紡井のレースがいい刺激になったのか、自己ベストを更新する結果となった。
続く最終第3組に姿を現す泊麻にも、大きな期待が寄せられる。
予選を11秒12の組1着で通過した泊麻。
泊麻の自己ベストは、前年の新人戦で記録した10秒98だが…。
「…継聖学院の
室井が不安そうに泊麻の隣の選手を見てそう呟いた。
都築という選手は、前年のインターハイ全国大会にて準決勝敗退。その後の新人戦南関東大会では10秒55のタイムを叩き出して優勝している。
今シーズンのベストタイムは10秒75。
泊麻が最も追いつきたいライバルの1人である。
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『…On Your Marks…。』
競技場が静寂に包まれる。
8人の選手が、各々気持ちを昂らせながらスターティングブロックに足を掛け始めた。
泊麻は大きく息を吸うと、空を見上げた。
(…どうでもいいとか思ってたけど、案外どうでも良くねぇな。)
泊麻は目を閉じながら、ブロックに足を掛けた。
何度も調整してきた。何度も走ってきた。何度も喜んだり、悔しい思いをしてきた。
たくさんの時間と経験を経て築き上げてきた自分の
感覚だけでもしっかりと両足はセットされた。
(…都築…もうお前の後ろ姿は見飽きた…。たまには俺の背中、見せてやるよ…。)
『…Set…。』
8人の腰が上がる。
泊麻は依然、目を閉じたまま感覚を頼りに構えていた。
スタートの号砲の僅かな音を、泊麻の耳はしっかり拾い上げる。
それはまるで、百人一首の選手が読み手の一音目を拾い上げると同時に札に手を掛けるかの如く…。
スタートから50m付近まで、泊麻は8人の先頭にいた。
すぐ横に都築が並んでいるが、そのままゴールすれば判定的にも泊麻の方が前に出ている。
70mを越える。まだ泊麻の位置は変わらない。
80m。先頭は既に泊麻と都築が並んで前に出ていた。
90mを過ぎると、2人の差はもう目視では判別できない。
雪崩れ込むようにして2人の体がゴールラインを越えた。
体勢を崩しながらゴールした2人は、地面に転がりながら大きく息をしている。
勝負の行方は…。
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インターハイ東京第1・4支部予選大会は、2日間の全日程を無事終了した。
2日目、男子砲丸投げ決勝では、
19人の選手が参加する中、15m78cmという2位との差3mという大差で、室井が優勝。
男子5000mでは、羽瀬高から3年の
聖野、坂下がそれぞれ3位と5位で都大会出場を決めた。
泣いても笑っても、結果が覆る事はない。
羽瀬高陸上部は、都大会出場を決めた選手たちがそれぞれ一言ずつ決意表明をしていた。
「…まあ、自己ベストで都大会に進めたのは自分の中で少しは満足しています。
…都大会では、
泊麻ははっきりとしない口調でそう言っていた。
泊麻の結果は、10秒79の自己ベストでの組2着。
一方の都築は、10秒78で1着でのゴールとなった。
全体の中でも2位の結果を残したにも関わらず、泊麻は満足にしてなかった。
「…自分はまだまだ、結果に及ぶ実力にないと思ってるので、もっと成長できるように精進して、必ず泊麻さんのような結果を出してみせます!」
そう決意を表明したのは、七槻であった。
全体では6位の記録。1~5位までが10秒代、後続が同組の3、4着という事もあり、彼もまた自分の結果に満足していないようだ。
「今回の跳躍はまだまだです。
どんなシチュエーションでも常に自分の限界まで出し切れるように、調整します。
今年の目標は、全国の決勝の舞台に立つ事。そして、入賞を狙います!」
伍代の決意は、皆の次元より一つ上にいるようであった。
それは、後に続く室井も同じだ。
「…俺の目標は全国優勝。まずはその1ステップを無事に越えられた事は安心している。しかし、伍代の言う通り、この後何が起こるかわからない。
何が起こっても、目指す先は変わらぬように精進する。」
室井の決意は誰よりも大きく、そしてパワーを感じた。
彼は、部を代表する立場というよりは、一競技者として仲間や後輩を引っ張っていると言うに相応しい。
そして、支部予選にて惜しくも敗退してしまった諸橋と紡井は、ここで部を引退する事となった。
紡井は、目にいっぱいの涙を浮かべながら、言葉を詰まらせていた。
「…決して努力してないなんて…自分で言うのもアレだけど…思ってはいない…。だから…だからこそ…悔しい思いをしないように…後輩の皆さんには…これからの練習に…励んで欲しい…です。」
続けて、諸橋の番となった。
彼女の目に涙はなかったが、その瞼の腫れ具合から気持ちの整理をつけてきたのだという事は皆が理解していた。
「…紡の言う通り。頑張って頑張って、それでもあと一歩届かない。こんなに悔しい思いは、みんなにはして欲しくない。
後悔しない為にも、これからまだチャンスがあるみんなは、一瞬一瞬を大切に。
1年生のみんなは、つーちゃんやむろの姿を最後までしっかり目に焼き付けておいて。
彼らから、多くのものを盗んで。
そして2年後、私たちにいい結果を自慢しに来てね。」
諸橋と紡井の言葉を聞きながら、若越の胸に鋭く突き刺さるものがあった。
"後悔しない為"。
結果が伴わない中、仲間たちの存在を再認識した若越だが、その胸中にはまだ煮え切らない思いを秘めてるのかもしれない…。