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「…嘘だろ…何なんだよあいつ…。」
6月に入り、徐々に蒸し暑くなる空気の中。
集まった選ばれし者の前に現れたのは、"圧倒的な強者"であった…。
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神奈川県川崎市にある、等々力陸上競技場。
今年の南関東大会の会場である。
大会3日前までは連日の悪天候に見舞われ、選手たちはコンディション調整に悩まされていた。
羽瀬高として、この大会に選手として参加するのは僅かに3名。
砲丸投げにて、見事16m27cmの圧倒的な記録で優勝した室井。
棒高跳びにて、4m85cmにて優勝した伍代。
そして…。
「…いやぁ…流石に暑すぎて走りたくねぇわ…。」
羽瀬高ベンチのブルーシートの上で、顔にタオルを被せて大きく大の字で寝転がりながら、うちわで自分自身を扇ぐ泊麻はそう言った。
彼は、東京都大会にてその後、見事準決勝を通過。迎える決勝で、予選で出した10秒81を上回ることさえ出来なかったものの、10秒83の記録で見事5位入賞。
南関東大会への切符を手にしていた。
「…何言ってんのよ。せっかくあたしが付いてきてあげたんだから、しっかり走りなさいよね?」
そう言って、勢いよく泊麻の顔のタオルを引き取ったのは、橋本であった。
南関東大会は、羽瀬高での全校生徒参加の伝統行事の日程と重なっており、陸上部全員での応援は叶わなかった。
各選手1人ずつサポートの部員のみが、学校行事の参加を免除され選手に同行することが許された。
室井には投擲マネージャーである倉敷、泊麻には、彼が直接指名した橋本がサポート役として同行した。
伍代は、若越か桃木かを選択するよう顧問のみならず教員たちからも説得されたが、伍代の必死の懇願により、両名が同行することなった。
「…全く…若越くんがいるんだから、ちゃんとしなさい?束咲。」
後輩の前でだらしない姿を見せる泊麻を、橋本はピシャリと叱咤した。
南関東大会に訪れた羽瀬高陸上部員の中で、唯一の1年生としての参加となった若越は、苦笑いしながらその様子を見ていた。
「…るせぇなぁ…。ったって、若越だって実力的には十分俺達と同じように、南関に参加できたはずだぜ。まぁ、連れてくように教師ども説得してくれた伍代に感謝しろよ。…って言っても、来年からはお前も自力で参加するようにはなるとは思ってるけどな。」
泊麻は、若越を見ながらそう言った。
どこかデリカシーに欠けるような発言にも聞こえるが、泊麻なりに若越に期待を寄せているようにも聞こえた。
「…はい。十分に感謝してるつもりです。」
若越は、少し萎縮しながらそう答えた。
その姿を見て、今度は倉敷も橋本と共に泊麻に叱咤していた。
泊麻の言うことは最もであるが故に、若越の心には再び悔しさが込み上げていた。
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男子棒高跳びは、バックストレート側にピットが設けられ、控えテント内に選手が集まっていた。
若越と桃木は、スタンドの観客席から伍代の勇姿を見守っている。
既に競技は始まっており、ライバルたちの跳躍も何本か行われていた。
バーの高さが4m65cmに上がったところで、1名の選手を除き伍代含む10名の選手が出場。
4名の選手が既に競技を終えていた為、残る7名の選手が跳躍を行っていた。
「…明伯高校の
バーの高さは4m70cm。試技は1回目。
江國、皇次は1回目を失敗。続く宙一は見事クリアした。
そして、助走路で出番を控えている紺色のユニフォームを着た選手を見ながら、桃木がそう言った。
神奈川県の
神奈川県の県選抜選手として注目度の高い選手であり、新たな脅威となる存在であった。
「…僕も名前は聞いたことあります。跳躍を見るのは多分殆ど初めてですが…。」
若越もそう言って、注意深く大ヶ樹の跳躍を見守った。
大ヶ樹は大きく深呼吸をすると、「行きまぁぁす!!」と大声で合図を出した。
彼と同じ紺のジャージに身を包んだ同じ明伯高校の陸上部員たちが、「はぁぁい!!」と大声で合図に応えた。
大ヶ樹の走りは決して速くはなかったが、リズムの刻み方は模範的で若越も感心した。
バーの上を十分な余裕を保ちながら通過し彼がマットへ着地すると、大きな拍手と称賛の声が聞こえた。
若越はそれが少し、自分にとってもプレッシャーに感じていた。
伍代を、羽瀬高を応援する部員の数が少ない。
若越自身が継聖学院の統一感に圧倒されたように、伍代がそう感じぬように。と見守る若越は少し力んでいた。
「…それにしても、まだ跳んでない人いるよね?何でだろう…。」
若越が大ヶ樹の姿に目を奪われている中、桃木は控えテントの様子を見てそう言った。
確かに、大会パンフレットに書かれている名前には、ここまで跳躍をしてきた選手に加えてもう1人名前がある。
"
千葉県の
彼がどの人物なのか、観客席からは伺えない場所にいるようだ。
若越は観客席を見渡すも、"日高高校"の関係者は全く見当たらない。
「…4m70すらパスするなんて…余程自信があるのか、それとも自己ベストが5m近く無い限りありえないと思います…。」
若越はそう言った。素直な感想であった。
同学年ということで、ライバルになり得る存在であることもあるが、彼は単純にその異様な競技スタイルに恐れを覚えていた。
4m70cmの試技で、高薙 皇次が脱落。
残る選手は、江國、宙一、大ヶ樹、六織、伍代と、未だ競技を行っていない霧島の6名であった。
続く4m75cmの試技には、江國、六織、伍代が挑み、3人とも1回目にてクリアした。
そして、バーの高さは4m80cmへと上がる。
江國、宙一、大ヶ樹、六織、伍代が、それぞれ1回目を失敗。
遂に、
白のタンクトップタイプに黒の短スパッツのユニフォーム姿、背丈は165cm程であり小柄な体型。
高校生らしい短髪の髪型の整った顔をした彼こそが、謎に包まれた霧島 零である。
「…霧島…零…。」
若越は、その名を心に刻み込むように呟いた。
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その緊張感は、グラウンドの競技者たちも感じていた。
「…何なんだ?あいつ。80までパスして、ここから出てくるって何て度胸してやがる…。」
既に競技を終えて、ジャージ姿の皇次は控えベンチでそう呟いた。
彼が皆の総意を代弁するかのようにそう言った事で、周りの選手たちも大きく賛同の頷きをした。
江國以外は…。
「霧島は、陸上激戦区とも言われる千葉エリアでの棒高跳び代表者だ。中学時代、全国に出てない方がおかしい…。あいつに勝てるのは、中学時代にあいつより跳んでる若越くらいしか…。」
宙一がそう言うと、伍代は笑みを浮かべながら鼻で笑った。
「何言ってんだよ、宙。俺は勝つぜ。なぁ?江國?」
伍代はそう言うと、江國に賛同を求めた。
江國が先程から、高薙兄弟の会話や会場の霧島に対する雰囲気に気に食わない様子であったのを、伍代は察していた。
そんな江國に気を使ってか、伍代は霧島に対し強気の姿勢を示したのであった。
「…俺は興味ないです。誰がどんだけ跳ぼうが、大事なのは自分のパフォーマンスなので。」
江國はそう言うも、伍代の言う通り不機嫌な様子で控えテントを出ていった。
霧島の跳躍を目前にして誰もが注目する中、自分は興味ないと言う事を証明するかの如く、江國は軽く体を動かしていた。
「…大したもんだ、継聖の新生は。あいつが言うことは最もだ。」
六織であっても、江國の肝の座りようには関心していた。
「でも、勝つのは六織さんっすよ。1年坊たちが出しゃばりやがって…。」
六織が関心したことで、田伏は江國と霧島を睨みながらそう言った。
「負けた口がよく言うぜ、全く…。ま、この南関を勝つのは俺だ。」
田伏に釘を刺すようにそう言ったのは、大ヶ樹であった。
大ヶ樹は、右手首に強くテーピングを巻きながら霧島を見守っている。
「頼むよ、輝。期待してる。」
大ヶ樹にそう言ったのは、彼と同じジャージを着ている
彼は既に、4m60cmを失敗し4m55cmの記録で競技を終えている。
「あぁ…、任せろって。圭。」
棒高跳びピットでは、選手同士の勝負の緊張感が激しく漂っていた。
それは、東京都大会の時とは打って変わって激しく照りつける日差しの強さも相まって、見守る若越含めた観客たちにもひしひしと伝わっている。
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(…どいつもこいつも、うるせぇんだよ。全く。
4m80までパスしたからって、ギャーギャー騒ぐなよ。)
助走路に立つ1人の少年は、心のなかでそんな不満を漏らしながら両手にタンマグを馴染ませた。
そして、ふと観客席に視線を向けると、彼が見覚えのある人物がその視界に入った。
(…やっぱりいたのか…。若越…跳哉…っ!)
その人物が観戦していることに満足したのか、不敵な笑みを浮かべて彼は再び視線を正面に聳え立つ1本のバーに向けた。
(…お前程の奴が、なんで地区予選如きで敗戦してるのかは知ったこっちゃねぇが…。
その目にしかと焼き付けやがれ。中学の時からお前を追い続けた、俺の跳躍をなぁ…!)
審判員が、彼の準備完了を確認して白旗を大きく降った。
「4m80、霧島くん。1回目っ!」