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第27話:Crumbling Feet

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午前9時半を回った。

選手たちは各々ウォーミングアップを終え、跳躍練習へと移っていた。



「…若越くん。」


若越に小声でそう囁いたのは桃木だ。

何やら不安そうな表情の彼女に、若越は不思議そうな顔で何ですか?と返す。


「…拝璃、何かいつもと雰囲気違わない?」


そう言うと、桃木の視線はグラウンドの伍代に向けられた。

第3コーナーに設けられた2つの棒高跳びピットの脇に設置された控えテントの下に、伍代はいた。


「…ん?そうですか?全国大会となれば流石の伍代先輩も…。」


「…そうじゃないの。」


桃木が食い気味にそう返すので、若越は驚いた。

全国大会は予選大会とは違う。この試合で選手のレベルが明らかになる大会。高校生棒高跳び界における日本国内での地位が決まる試合。

その緊張感や普段との違いは、かつて全国大会の経験のある若越はよく分かっているつもりであったが、桃木が言う事はそういう事ではないようだ。


「…拝璃、いつもならどんな試合でも…それは、去年の全国大会もそう。いつもと変わらずに跳躍練習はこなすし、いつもと変わらない笑顔で過ごしてる。

それが…今日はずっと不安そうな顔をしているの。」


共に過ごした時間が語る経験則に基づく事実なのか、或いは"幼馴染の勘"なのか。

そんな桃木の心配を、若越は何処か別に捉えていた。


(…桃さん、伍代先輩の事そこまで見てたのか…。)


若越は、胸部を強く締め付けられるような息苦しい感覚を覚えた。

ズキっと刺さるような心音が、若越の中で少しずつ早く刻まれている…。




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(…やっぱり、完治はできなかったか…。)


若越が観客席で感じた胸の痛みと同じ感覚を、伍代は左足のハムストリング(※1)に感じていた。


上半身は既にユニフォームに着替えていたが、下半身は未だジャージの長ズボンを纏っている。


練習を最小限に抑え、伍代は祈るように控えベンチで俯いていた。



「…伍代。…体調、悪いのか?」


そう声を掛けたのは、白地に"東洋台北とうようだいきた"と書かれたタンクトップ型のユニフォームを纏った好青年であった。


彼の名は、森川 雄晴もりかわ たけはる

静岡県東部の東洋台北高等学校の選手である。


「…いや、体調はすこぶる良い。絶好調だ。」


伍代は、足の不調を隠すようにそう答えた。

しかし、無意識のうちに左足に触れていたのを、森川は見逃さなかった。


「…足…か?」


伍代は図星を突かれ、森川から顔を逸らした。


「…まあ、無理すんなよ。俺たちには来年がある。来年、お前がいない大会に俺は出てもしょうがない。

今年は…。」


森川がそう言いかけると、伍代は食い入るように言った。


「…分かっている。無理する気はない。

ただ、今年は今年しかない。今年戦えるメンバーは今年だけだ。」


「…お前が言いたいことも分かるけどさ…。」


伍代の決意に満ちた表情に、森川はそれ以上強く言うことは出来なかった。




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時刻は午前10時を回った。

男子棒高跳び予選が始まる。



2箇所のピットが設けられ、それぞれAグループとBグループにて予選が行われる。

予選通過記録は4m80cm。この高さをクリアするか各グループ上位6名が明日の決勝に進出する。



伍代は、Bブロックでの予選となった。

同ブロックには、霧島、大ヶ樹、森川、江麻寺、桐暮らがいた。


予選は4m60cmから跳躍がスタート。

霧島、江麻寺、桐暮の3人を除いた残りの全員がこの高さに挑む。




予選の跳躍が進み、伍代が4m60cmの1本目を迎える為に助走路に立った。

その彼の姿に、若越と桃木は声を失った…。



「…伍代先輩…足にテーピングしてる…!?」


若越がそう呟くように、伍代の左腿には頑丈にテーピングが巻かれていた。

これまで、足の違和感を周囲に伝えていなかっただけに、その光景にはチームメイトすら驚かされた。


「…だから…拝璃あまり練習で跳んでなかったのね…。」


桃木は不安そうにそう言った。

彼女のいう通り、ここ最近の伍代の違和感の正体がここにきて全て回収された。


「…あの人…でももうここまで来たら、あとは何事もなく終わる事を祈るしかできないですね…。」


若越はそう言った。

彼の中に残る不安は、怪我の悪化に対する心配だけではないようであった。

どこか、伍代に対して父親と重なる部分を感じていたのかもしれない…。



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そんなギャラリーの心配を他所に、伍代は助走路で大きく深呼吸をした。


(…大丈夫。確かに足は絶好調ではないけど…跳ない高さじゃない…。)



彼は心の中でそう何度も唱えていた。

すると、吹き流しが追い風を示した。伍代はポールの先を高く持ち上げて、跳躍に入る。



「…行きまぁぁぁぁぁぁぁぁっす!!!!」



騒つく周囲の空気を一蹴するかのような声で、伍代は出発の合図をした。

チームメイトや周囲のライバルがその合図に応えるよりも先に、伍代は助走の1歩目を踏み出した。


足の違和感を感じさせる事のない、いつも通りの走り。しかし、彼の踏み切りに対し若越は大きな違和感を感じた。


(…いつもよりも全然スムーズじゃない…。何処か誤魔化したように踏み切りに力が入りすぎている…あれじゃあ…。)


伍代の体はポールの湾曲に合わせて高く上下反転した。

バーの上を10cm程高く越えた彼の跳躍には、まだまだ余裕が感じられはした。



伍代がマットに落ちると、審判員が白旗を振った。

跳躍成功である。

しかし、マットから降りる伍代の顔にはまだ不安が残っていた。



伍代がコーナーの観客席に近づいてきた。

観客席の中から、桃木と若越の姿を見つけると手招きをして2人を呼んだ。



「…伍代先輩…その足…。」


若越は桃木を置いて一目散に伍代の元に駆け寄ると、息を切らしながらそう言った。


「…ああ、まぁ…肉離れかなぁって感じ。

違和感はあるけど跳ないわけじゃない。心配すんな。」


そこへ、遅れて桃木が辿り着いた。


「…拝璃…無理しないで…本当に…。ここで最後じゃないんだから…。」


「…それは違う。」


桃木が心配そうに伍代に声を掛けたものの、伍代はそれをピシャリと打ち切るようにそう言った。


「…今回のライバルたちが集まって戦えるのは、今回しかない。江麻寺さん、六織さん、他の奴らだって必ず来年も出てくるとは限らない。…だから、今年は今年しかないんだよ。」


伍代は初めて、2人の前でその胸中を吐露した。

その本心を吐き出した事で、伍代の口調は普段より少し強かった。


「…。」


桃木は何も言えずに黙り込んでしまう。

そんな彼女の姿を横目に、空気を察したのか否か若越が鋭い剣幕で伍代を睨んだ。


「…じゃあ…じゃあ、来年は?来年は今年よりももっといろんなやつが出てくるっていうのに…今年無理したせいで来年のチャンスが無くなってもいいって言うんですか!?」


肉離れで大袈裟な…といったような表情の伍代であったが、若越の言う事を蔑ろにしている様子はなかった。

寧ろ、伍代は追い詰められた状況下で狭まっていた視野を、若越の言葉によってこじ開けられたような感覚がしていた。


(…こいつ…言うようになりやがって…。)


そんなことを考えながら伍代は少し俯いた。

しかし再び顔を上げると、彼の顔は先程より少し険しくなっているように見えた。


「…後悔、したくねぇから。」


それでも伍代は折れなかった。


「…肉離れだったから、あの時ベストコンディションだったら、そんな後悔をして、後から思い詰めたくねぇんだよ。

どんな状況だろうと、できる限りやり尽くしてやり切る。そこに本当の結果が付いてくる。

その結果を踏まえて、次なる目標を目指したいんだよ。」


伍代の口調は益々強くなっていく。その思いの大きさや覚悟が、伍代の言葉の節々から2人に向かって投げられる。


「…行くわ。」


伍代は一言そう言い残すと、若越と桃木に背を向けてピットへと戻って行った。



伍代の姿が遠くなっていくと、若越も黙って観客席に戻ろうとした。


「…僕、絶対あの人に勝ちます。」


若越の怒りに似た悔しさのような感情を込めたその一言を、桃木に残して。


またも置いて行かれた桃木は、俯いたまま若越の背中を追った。




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Aピットでは既にバーの高さが4m70cmに上げられていた。

4m60cmをクリアした六織や志木など6名の選手と、4m60cmをパスした江國、宙一が続く4m70cmの高さに挑もうとしている。


一方のBピットでは…。



4m70cmをパスした霧島、江麻寺、桐暮を除く選手のうち、大ヶ樹、森川と新潟の1年生の選手のみが2回目以内にその高さを成功し次へと駒を進めていた。


3回目を迎えるのは残り3選手。

そこには、伍代の姿も残されていた…。


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