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時刻はすっかり夕方となり、既に日が暮れようとしていた。
男子棒高跳びの競技は、伍代の5mクリアによって幕を閉じた。
若越は、高校生になってからの自己ベストである4m95cmを記録したものの、5mの壁を越えることはできなかった。
伍代と若越は、互いの健闘を称えることも、互いの跳躍に対する反省点を振り返ることもなく、無言で仲間たちの元へと戻ってきた。
不思議と張り詰めた空気は、周囲にも伝わっていた。
「…2人とも、お疲れ様!若越くん、公認記録樹立おめでとう!拝璃も、5m安定してきたね。」
真っ先に出迎えた桃木は、そんな空気を察したのか満面の笑みで2人を称えた。
しかし、若越はどこか上の空で「ありがとうございます。」と小さく頷いただけだった。
伍代も、表情を変えることなく「あぁ、ありがと。」と静かに頷いた。
「…2人とも、何かあったのか?」
桃木は2人の様子を不思議に思い、少し困ったように眉をひそめた。
その時、若越の元に蘭奈、巴月、紀良、高津が現れた。
「若越、凄ぇな!自己ベスト更新おめでとう!」
蘭奈は、いつもの調子で若越の肩を叩いた。
「自己ベストじゃねぇよ。」と否定しながらも、仲間に褒められた若越は満更でもなかった。
巴月と高津も、笑顔で若越を祝福した。
「やっぱ凄いね。ちょっと見直したよ。」
高津がそう言うと、若越は作り笑顔で賛辞に答えた。
「…ありがとう…。」
若越はそう感謝の言葉を述べた。
「それより、みんなはどうだったんだ?」
若越は、蘭奈たちに結果を尋ねた。
「私と紀良くんはダメだったけど、こいつは都大会進出決めたみたいよ。」
高津が蘭奈を指さしてそう言った。
蘭奈はいつも通りの得意げな表情で、その結果を堂々と披露した。
「あったりまえだろ?こんなところで負ける俺じゃねぇっての。まあでも、3位通過。お前に比べたら大したもんじゃねぇのが悔しいところだ。
それに、まだまだこんなもんじゃねぇ。俺が目指す先は頂点。その目標からしたら、初めの一歩みたいなもんだ。」
自信満々の割には、蘭奈の目にはまだまだ闘志の炎がメラメラと燃えているように見えた。
まだまだ底知れない彼の強さは、今後も更新されていきそうだ。
紀良は終始無言だった。
若越も、そのことに気づいていたが敢えて声をかけることはしなかった。
(…光季…。)
若越は心の中で彼の名を呟いた。
それは何処となく、半年前の自分の姿に重ねて見えていたのかもしれない。
一部始終を聞いていた紀良の心には、大きな釘を打ち込まれたかのような痛みが走っていた。
予選大会に勝って次の大会に進める。
しかも、十分評価に値する結果を出しても、若越も蘭奈もその記録に慢心することなく、さらなる高みを目指している。
そんな彼らの様子が、再び紀良の心を根本から崩してしまいそうな状態に落とし入れていた。
(…こいつらの強さに…俺は着いていけないのか…。)
紀良は俯いたまま、何も言わずにその場を後にした。
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音木は200mで全体の7位となり、都大会出場を決めた。
男子200mでは、惜しくも七槻は10位、蘭奈は16位と都大会出場とはならなかった。
大会からの帰り道、継聖学院の高薙兄弟は、それぞれ大きな課題を感じていた。
兄、宙一は、プレッシャーとの戦い。
弟、皇次は、若越に対する対抗心と、一歩及ばぬ自身の力に対して。
「…くそっ…!何であんな奴に勝てねぇんだっ!」
皇次はその悔しさを隠そうともせず、吐き捨てた。
「…皇次…落ち着け。そう喚いても結果は変わらない。俺たちは、この結果を受け止めて次に生かすしか…。」
宙一は兄として、弟を宥めようとした。
しかし、皇次の怒りは収まらない。
「…あいつ…!あいつだけは…!絶対に…!」
皇次の視線の先には、普段通り淡々とした様子の江國がいた。
その様子が、皇次の怒りに油を注いだ。
「…江國…てめぇ…!若越に負けて悔しくねぇのか!?自分は着々と記録を伸ばせればそれで良いって言うのか?あぁ?おい、何とか言えよっ!」
皇次は勢いのまま、周囲を忘れて江國の胸ぐらを強く掴み上げた。
彼より少し背の高い江國は、鬼のような形相で睨みつけてくる皇次の顔を、負けじと睨みつけるかのように見下ろして言った。
「…ごちゃごちゃうるせぇんだよ。
若越に負けて悔しい?俺にそんなことは関係ない。
俺の相手は“俺自身”なんだよ。
前回の自分に今回は少し勝った。だから俺は、悔しくもなんともねぇ。
…お前みたいに他人と比べて一喜一憂してる暇は俺にはない。
俺は自分に勝ち続ける。
それによって手にする勝利は、俺にとって何の価値もねぇんだよ。」
江國の打ち明けた本心は、皇次の怒りに更に油を注いだ。
皇次は強く握りしめた拳を江國にぶつけようとしたが、寸前で我慢した。
そのようなことをしても意味がないことは、さすがの皇次も理解していた。
2人の緊迫した様子を心配そうに見ていた宙一の心にも、江國の言葉は強く突き刺さっていた。
(…自分の相手は…自分自身…。)
宙一は、江國の言葉を反芻した。
自分はプレッシャーに負けて、本来の力を発揮できなかった。
本当に戦うべき相手は、自分自身だったのかもしれない。
後輩の秘めた思いに、宙一は大切な何かを気付かされたかの様に、その言葉を何度も脳内で繰り返した…。
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週末が明け、再び今度は都大会に向けての練習が始まった。
しかし、放課後の部活動に紀良の姿はなかった。
「…紀良…また、来てない…。」
巴月が、心配そうに言った。
「…連絡もつかない…全く、何を考えてるのやら。」
高津は呆れたようにそう言った。
彼女には、紀良が皆に黙って姿を消した理由が、何となく分かっているようだ。
「…困ったな…。」
若越は眉をひそめた。
紀良のことは、支部予選を終えてから心配していた。
「…先輩たちに、相談してる?」
蘭奈が提案した。
その日の練習後、1年生たちは七槻、伍代、桃木に、紀良のことを相談した。
「…光季、支部予選が終わってから、連絡もつかないんです…。」
若越は、心配そうに事情を説明した。
「…そうだったのね…。」
桃木は、深刻な表情で頷いた。
「…何か、心当たりはあるのか?」
伍代が尋ねた。
「…支部予選の後から…様子がおかしかった様な気はするんすよねぇ…。」
蘭奈が答えた。
「…支部予選の後?」
七槻が、眉をひそめた。
「…そう言えば…支部予選の後、跳哉くんと陸が都大会への出場を決めて皆で喜んでて…。
言われてみればその時、彼は何か落ち込んでるみたいだった気がする…。」
巴月が思い出しながらそう説明した。
先輩たちは、顔を見合わせながら困り顔をしている。
「…少し、様子を見てみようか。」
伍代がそう提案した。
紀良自身と話ができない以上、外野に何かできる事はないと、彼は少し割り切っていた。
しかしその後も、紀良は部活に顔を出すことはなかった。
そんなある日、音木が支度をしてグラウンドに向かう時、帰宅しようとする紀良を見つけた。
「…お前…。」
「…音木…先輩…?」
紀良は、驚いた表情で音木を見つめた。
音木は無愛想であるが故に、陸上部以外の後輩から若干恐れられている。
その圧の様なものに、紀良は逃げ出す事も出来ずに立ち尽くした。
「…少し、話がある。」
音木の表情は、真剣だった。
「…話…?」
紀良は、戸惑いながらも、音木の顔を見つめた。
「…お前…最近部活に来てないな?」
音木は単刀直入に尋ねた。
紀良は俯いたまま、何も答えなかった。
「…何か、悩みがあるのか?」
音木のその言葉に、紀良がゆっくりと顔を上げた。
その目には、深い悲しみが宿っていた。
「…俺…。」
紀良は、震える声で話し始めた。
「…俺…やっぱり…向いてないんです。」
音木は何も言わず、紀良の言葉を静かに聞いていた。
「…
紀良の秘めた思いが、溢れ落ちる様にその口から発せられた。
「…だから…もう…。」
紀良は少し、言葉を詰まらせた。
「…もう…陸上は…辞めようかと思って…。」