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第39話:Going a Step Further

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4m90cmの試技が始まった。


若越が助走路に立つ。

見上げるバーは威圧感を放っているように感じた。4m85cmをクリアした時の高揚感は、既に昨日の事のようなものとなっていた。


若越は深呼吸をして、向かいくる威圧感を振り払おうと鋭い視線を正面に向けた。


若越は穏やかな追い風が吹く中、走り出した。

助走はスムーズ。踏み切りも悪くない。

しかし、バーの上を越える直前に、彼は空中でバランスを崩した。

まるで、見えない何かに足を引っ張られたように、そのままバーに触れ、バー諸共若越の体はマットに落ちた。


マットの上で空を見上げる若越は、小さく舌打ちをして右拳で軽くマットを叩いた。

悔しさは確かにある。しかし、それは今まで何度か感じてきたマイナスな絶望感ではなかった。

何が原因だったのか、若越は自分でも分かっていた。修正できる。そう確信していた。



その傍で、皇次は若越の失敗を冷静に見つめていた。

若越の跳躍は確かに完璧に見えた。

しかし、最後の最後で何かが狂った。

皇次には、それが分かった気がした。

それは若越自身も把握している。次は必ず修正してくる…。


皇次は若越とは違う。

彼は、考えるよりも先に体が動くタイプだ。

若越に負けたくない。その一心が彼を奮い立たせる。


助走路に立った皇次の目に、バーは大きく映った。

しかし、彼の心には迷いはない。ただ、目の前のバーを跳ぶ。それだけが、彼が若越に勝つ唯一の手段。


力強い助走、渾身の踏み切り。

皇次の跳躍は、技術的には粗削りかもしれない。

しかし、彼の強い意志だけがその跳躍に力を与えていた。

皇次の体はバーの上を確実に越え、クリアした。その瞬間、皇次は小さくガッツポーズをした。


(…見たか、若越…!俺は跳んだぞ…!)


皇次の視線の先の若越は、まるで自分の事など見ていない。それがより、皇次の心に火をつけた。



続く江國は、相変わらず無表情で助走路に立った。

彼は、周りの状況に一切気を取られることなく自身の跳躍だけに集中していた。

無駄のない助走、正確な踏み切り。

彼の跳躍は、やはり精密機械のように正確だった。

しかし、今回は僅かにタイミングが合わず、バーに触れてしまった。


伍代も、1回目の跳躍を失敗した。

後輩たちの勢いに、僅かに気圧されているのかもしれない。

しかし、彼は今回のメンバーの中では確かな実力者だ。

焦りを見せることなく、冷静に修正点を探していた。


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4m90cm、2回目の試技。


若越は、再び助走路に立った。

皇次の成功跳躍が、微かに若越の脳裏をよぎる。

しかし、すぐに意識を振り払った。

今は、成功した者の事など考えている場合ではない。

自分が、この壁を越えることだけを考えなければならない。


(…跳ぶ…俺は跳ぶんだ…。)


若越は、自分に言い聞かせた。

『誰よりも高い空を跳ぶ。』揺るぎない、若越の大きな目標だけを掲げて。


若越は走り出した。

迷いのない助走、踏み切り、揺るぎない気持ちによって、全てがスムーズに繋がった。

バーをクリアした瞬間、若越は小さく息を吐いて安堵の表情を見せた。

まだゴールではない。ただ、ゴールに辿り着く為のポイントは一つ一つ踏んでいく。


江國は2回目の跳躍で、改善点を完璧に修正して難なくクリアした。

彼の跳躍は、相変わらず無駄がなく美しい。

しかし、成功を収めようと江國の表情は変わらない。

彼はただ、自分自身との果てしない勝負のみを考えていたのだ。


伍代は、2回目の跳躍も失敗した。

後輩たちの跳躍に、僅かに圧倒されているのかもしれない。

しかし、彼は焦りを見せることなく冷静に修正点を攻略する。それが伍代の強さの1つでもあった。

そして、3回目の跳躍で見事にクリアした。


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4m95cmの試技。


第1跳躍者の若越が、助走路に立った。

4m90cmの1回目の失敗が、僅かに脳裏を過る。

しかし、過去に拘っている時間はない。1歩でも前に、目指す場所に向かって。



観客席から若越を見つめてる桃木が、どこか不安そうな眼差しを送っていた。


(…若越くん…。)


漸くその実力を露見し始めた若越に、安心感や期待感は感じつつも、

まだ桃木には、若越が必死に何かに囚われまいと藻掻いているように見えていた。


(…大丈夫。何も思い詰めないで、若越くん…。

私は味方だから。私は、若越くん自身を純粋に、応援してるから…。)


その時若越は背後に、優しく背中を押すような追い風を感じた。

体が軽くなったように感じた。まるで、誰かが優しく背中を押しているような…。


(…風が…。)


若越はふと、観客席に視線を送った。

胸の前で固く両手を握りしめ、祈るように見守る桃木の姿が映る。


(…桃さん…っ!)


若越はこの追い風を逃すまいと走り出した。

助走は、余計な力を感じさせずに、リズムよくスピードに乗っていった。

踏み切りで一気に左足を踏み込む。体が、軽々と宙に舞い上がった。


若越の体が、高く宙に舞い上がった。

バーを越える瞬間、若越は確信した。


(…これを越える。これでやっと、スタートラインだっ!)


会場が割れんばかりの大歓声に包まれた。

マットに着地した若越が目を開けると、バーは微動だにせずに遠くに映っている。

思わず、小さくガッツポーズをした。



続く皇次、江國、伍代は、1回目の跳躍を失敗した。

皇次は依然、若越への対抗心を燃やしつつも、焦りを感じ始めていた。


2回目の跳躍。皇次、江國はまたも失敗。

皇次の対抗心は、次第に焦りに変わっていく。

江國は失敗するも、何か手応えを感じ取っていた。

伍代は、2回目の跳躍で成功。若越への脅威と対抗心を、改めて感じていた。


その後、皇次、江國は3回目の跳躍を失敗。


「…クソッ…!」


皇次は両腿を思いっきり握りしめた両拳で叩きながら、悔しさを吐き出した。

江國は悔しさを感じつつも、冷静な表情のままマットを降りた。

彼は既に、次への課題を見つけているようにも思えた。


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男子100mは、全てのレースを終えた。

その結果が競技場内の電光掲示板に映し出されると、その競技場にいる殆どの人がその結果に注目した。


1着は第12組に出場し、蘭奈の前にゴールした選手の名前が表示された。

正式記録は10秒74。2年生の選手であった。


蘭奈は珍しく、黙ったまま大人しく電光掲示板を見つめていた。

その隣には七槻も黙って立ちながら電光掲示板を見つめている。

紀良は電光掲示板に目もくれずに、座って靴紐を結び直していた。




蘭奈は、全体の3位で都大会出場を決めた。喜びを爆発させる蘭奈。

しかし、内心では1位通過できなかったこと、東京都高校生記録に届かなかったことを悔やんでいた。


2着には第5組で1着であった2年生の選手の記録が表示された。

少しずつ、蘭奈の鼓動が早くなる。



(…次は、陸…。)


観客席からその結果を見守る音木と巴月も、その結果を心配そうに見つめていた。

巴月は祈るようにして電光掲示板に目線を送る。



"3 蘭奈 陸 羽瀬 10.90 Q"


その結果が表示されると、蘭奈の表情に満面の笑みが込み上げた。


「…よっしゃぁぁぁっ!!!」


蘭奈は激しくガッツポーズをして喜びを露わにした。

七槻も笑顔を浮かべながら、蘭奈の肩に手を回して共に喜んだ。


「やるじゃねぇか!言うだけの結果は出せたな!」


七槻は自分のことのようにそう言って蘭奈を褒めた。


(…3位…まだまだ、上は目指せるっ!)


蘭奈は喜びを露わにするも、その瞳には更なる高みを見据える強い光が宿っていた。


公式発表は、5位までの結果を表示した。

5位の選手の記録は、10秒98。七槻の記録はまだ表示されていない。

彼は喜びもつかの間、不安そうに再び電光掲示板の結果を見つめていた。


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男子棒高跳びは、バーの高さが5mに上がった。


この時点で残るのは、若越と伍代の2人のみ。

都大会への出場権は確実であったが、まだ競技は終わっていない。



(…5m…。)


若越は助走路で出番を待ちながら、バーを見上げる。

この高さを跳べることができれば、過去の自分の記録を塗り替えることができる。

それに、見据えた全国大会でも上位に入る事ができる記録を手にできる…。


ふと、若越の脳裏に2つのことが浮かび上がった。

夏に見たインターハイ全国大会。九皇院第一の選手や宙一の決勝での対決。

彼らは5mを越える高さの中で、ハイレベルな戦いを繰り広げていた。


そして、ある記録。それは高校生日本記録である5m51cm。

それはかつて、亡き父、浮地郎が記録した記録。

中学生日本記録は自分が塗り替えた。次に狙う記録は、この記録。


(…誰よりも高い空。狙うべき高さは、5m51cm。

そこに辿り着く為には、これを跳ぶ…より一歩先へ…っ!)


若越の気持ちが、少しずつ逸る。

手の届きそうな位置までやってきた、目指すべき場所。

鼓動が早まるのを感じながら、浮つきそうになる足を必死に落ち着かせる。



1本目の跳躍。若越の高みを目指す気持ちとは裏腹に、焦る気持ちが先行した。

先程までとは違う。バーがより高い場所にあるような感じた。

バーと共にマットに落下した若越は、マットの上に立ち上がると、ふと視界に助走路で待機する伍代の姿が入ってきた。


伍代は越えてくる。


確証もない思いが浮かぶ。

しかしそれには、彼の実力と過去の記録がその思いを現実にするような気だけが若越にはしていた。



伍代の1本目の跳躍。若越の予想が、現実となった。

ダイナミックな跳躍で、伍代はバーの上を華麗に越えてマットに着地した。


(…負けたくねぇ…。)


再び助走路に立ち、2本目の跳躍を待つ若越の視線の先には、観客席に喜びを表わす伍代の姿。

それを向けた先には目を向けなかった。若越は知っている。

その相手が、若越が今最も勝利の姿を見せたい相手であることを確かなものにしてしまっては、焦る気持ちに油を注ぐだけである。


若越は2本目の跳躍に集中する。

僅かだが、伍代が見せた成功跳躍は若越に見えない傷を与えていた。

しかし、それを気にしていては勝てない。


思いを込めて走り出した助走は、力強く速い。

踏み切って振り上げた足先で、バーの上を狙う。

しかし、バーは若越の胴体部分に磁石のように吸い付き、ぶつかった。


着地の瞬間、若越はマットを強く叩きつけた。悔しさが押さえきれない。


(…跳ばなきゃ…。)


見上げた空は、見事な青空が広がっていて綺麗だ。

しかし純粋ではない今の心では、その空の青さも何処か薄暗く、淀んで見える。


睨むように観客席を横目で見ると、桃木は心配そうな表情をしていた。


(…俺が跳んだら、伍代先輩あの人の時みたいに笑ってくれますか?桃さん…。)


大きく息を吐き出す。

自分が目指す高みを手にしたい気持ちはもちろん、今はそれだけが全てではない。


ここまで来たら、後は気持ちで勝つしか無い…。




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