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4m80cmの2回目の試技。
皇次は先程の失敗を振り払うように、力強く助走路を駆け抜けた。踏み切りも完璧。
しかし、彼の意識は目の前のバーではなく、跳躍を終えた若越に向けられていた。
(…見ていろ、若越…。俺だって…!)
皇次の跳躍は高さこそ十分だったが、バーとの距離感が僅かに合わず、バーに接触してしまった。
しかし、辛うじてバーは落ちなかった。
会場からは、安堵のどよめきが起こった。
マットの上の皇次は、大きなため息を吐いた。
成功は成功。誰に何を言われようと、その結果は揺るぎない筈である。
しかし、満足はしていない。
圧倒的な跳躍でクリアした若越と、ギリギリ踏ん張って何とかクリアした自分との差が、皇次を更に焦りへと導く。
続く江國は、相変わらず無表情で助走路に立った。
彼は周りの状況に一切気を取られることなく、自身の跳躍だけに集中していた。
無駄のない助走、正確な踏み切り。彼の跳躍は、まるで精密機械のように精巧な動きで織りなされる。
1本目の問題点は既に修正され、バーを難なく越えると軽々しくマットに着地した。
観客席から賛辞の拍手や歓声が響く。
しかし、江國がそれに喜びや感謝を示すことはなく、淡々とマットから降りるとポールを手に取り、少しだけ踏み切り位置を確認して控えテントに戻っていった。
(…まだだ。俺はまだ、先に進める…。)
江國の後に跳躍を控える伍代は、若越と皇次の跳躍を冷静に見つめていた。
2人が魅せる、見えない衝突を感じ取り、彼の闘志はさらに燃え上がっていた。
(…まだまだ、後輩たちに負ける俺ではないっ!)
伍代はそんな思いを込めた力強い助走から、完璧な跳躍を見せた。
バーをクリアした瞬間、彼は小さく拳を握りしめながらマットへと着地した。
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宙一は、2回目の跳躍も失敗。3回目の試技を迎えていた。
4m80cm。インターハイでは予選でも難なくクリアし、決勝ではその独特の空気感の中、周囲のライバルたちに置いて行かれまいと、それよりも高い記録に挑んだはずであった。
しかし、今の宙一にとってその結果が大きなプレッシャーとなっていた。
そのプレッシャーに押しつぶされ、本来の力を発揮できない。それが、今の宙一だった。
ポールを手に、助走路に入る。
普段から使い込んでいる、馴染み深いポールであるはずなのに、今日は思うように曲がる気がしない。
それに、何故だか今日は少し重く感じる。
(…落ち着け…今は支部予選の舞台だ…。)
迫りくる重圧を振り払うように、意を決して宙一は走り始めた。
しかし助走のスピードは上がらない。踏み切りも弱々しい。
宙一の体は、まるで重い鎖に繋がれたように自由に動かない。
バーに触れ、マットに落ちた。
3回目の跳躍失敗。
宙一は、マットの上でしばらく動けなかった。
深い絶望が、彼を包み込んでいた。
(…ダメだ…。これじゃぁ…。)
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バーは、4m85cmに上がった。
皇次は依然、若越を睨みつけていた。
その視線はまるで、獲物を狙う虎。しかし、その視線の先の獲物は百獣の王のようなオーラを纏っている。
(…絶対に…絶対に…あいつにだけは負けない…!絶対に…!)
他の事など、何も考えられない。
皇次の世界は今、若越と目の前の記録だけだった。
皇次の獲物は今、助走路に立って目の前のバーを見つめてる。
(…周りのことを、まるで見ちゃいねぇ。けどそれは、江國の
俺のことなんて眼中にねぇんだ。それが気に食わねぇ。悔しい…。)
出番を控える皇次は、静かに拳を握りしめた。
(…ここまで来た。…ただ、越えるべきはこの先にある。)
もう誰も、若越のインターハイ予選の結果を気にしている者はいなかった。
彼の4m80cmの跳躍が、既に棒高跳びを見ている観客の視線を釘付けにしたのは明白な事実である。
今、目の前で跳躍しようとしているのは、全中優勝、中学生記録を更新したスーパースターであると、誰もが期待の眼差しを寄せていた。
(…これも越える…越えてみせるっ!)
若越は走り出した。風は味方し、彼の背中を心地よく押している。
助走を駆け抜けて踏み込んだ左足は、寸分の狂いもなく踏み切り位置を押し蹴った。
ポールが湾曲し、若越の体が宙に運ばれる。
その反発力が伝わる頃に、上下反転した体の足先はバーの上を仕留めた。
ポールを離し、宙で海老反りになると、若越の視界の端にバーがあるのを確認した。
(…まだまだ、余裕はあるっ!)
そこから勢いよく体を逸らし、バーに当たらぬようその上を華麗に越えた若越の体は、真っ直ぐマットに落下した。
審判員が白旗を挙げる。
先程よりも大きな歓声が、若越に向けて送られた。
若越はマットの上で立ち上がると、賛辞を送る観客たちに軽く一礼をし、感謝を示した。
若越がポールを手にして控えテントに戻る頃に、既に助走路では皇次がその番を待ち構えていた。
(…何としてでも…若越に勝ちてぇ…。)
皇次の全身で熱意に燃える血が巡る。
目に見えないオーラが、彼のその身を燃えるように包みこんだ。
覚悟を決めて走り出した皇次のスピードは、これまでで1番速かった。思いがその足一歩一歩に込められる。
渾身の力で踏み切り高く跳び上がったその跳躍は、力強さに溢れていた。
高く跳ね上がる皇次の体は、バーの上を難なく跳び越えた。
結果2人とも、4m85cmを1回目の跳躍でクリアした。
会場からは、今日一番の大歓声が沸き起こった
2人の間に、目に見えない火花が散るような激しい跳躍バトル。
その様子は、観客の目にも分かるほどに映っていた。
続く江國は、1回目の跳躍をまたも失敗した。
しかし、彼は慌てることなくすぐに修正点を見つけ出し、2回目の跳躍で難なくクリアした。
若越と皇次の激闘も、この男にとっては蚊帳の外の出来事であった。
伍代は、若き2人に負けじと気迫のこもった跳躍を見せた。
1回目の跳躍で4m85cmをクリアし、2人に食らいついていく。
2人の激闘に、彼の闘志もますます燃え上がっていた。
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競技は進み、バーの高さは4m90cmに上がった。
若越にとってこの高さには、特別な意味が込められていた。
高校生になってから、まだクリアできていない高さ。
中学時代、全中決勝で中学記録を塗り替えた彼にとって、どうしても越えなければならない記録である。
助走路で試技を待つ若越の脳裏に、鮮烈な光景が蘇った。
全中決勝。大歓声が鼓膜を震わせ、無数のスポットライトが自分だけを照らしているように感じたあの景色。
助走路を駆け抜ける足音、ポールの撓り、風の感触、あの時はその全てが研ぎ澄まされていた。
ありったけの力強く踏み切り、宙に舞う。バーをクリアした瞬間は、その世界の時間が止まったようにすら感じられた。世界が輝いて見えた。
あの時の高揚感、達成感は、今でも鮮明にその身に刻まれている。
(…あの時は…最高だった…。)
しかし、高校に入ってから4m90cmの壁に阻まれた。
伍代との若越の跳躍人生を賭けた勝負。僅かに越えられなかったその壁。
今の若越にとって、全中決勝での成功の記憶よりも、あの時の失敗、敗北感の方が強くその身に刻まれている。
(…分かっている。思い知らされた、あの時。伍代先輩に負けた、あの日。)
中学時代は、ただ無我夢中で跳んでいた。
高く跳ぶのが勝利の栄光だった。父親が、家族が、友人が、その栄光を褒め称えてくれた。
しかし、今は違う。
自らの勝利に自分のことのように喜んでくれる父親はもういない。
母親は褒めてくれるかもしれない。しかし、彼女は心の何処かで"棒高跳び"に嫌悪感を持っているかもしれない。
(…でも…それでいい…。)
若越は、過去に縋る必要はないことに気づいた。
今の自分は、過去の自分とは違う。
見守る仲間も、ライバルも変わった。
だからこそ、勝ちたい。勝って、
(…俺は…勝つんだ。伍代先輩に…ライバルたちに…っ!!)
若越の瞳に、強い光が宿った。
彼は漸く過去の幻影を振り払い、今の自分と向き合った。
(…見ていてくれよ…伍代先輩…桃さん…そして、父さん…っ!)
若越は、静かに息を吸った。彼の表情はこれまでとは全く違っていた。
迷いは消え、強い決意が宿ったその瞳は、まるで未来を見据えているようだった。
(…跳ぶんだ…もっと先へ…!)
彼の
雛鳥が初めて巣を離れ、その翼で大きな世界を目指し、羽ばたこうとしている…。