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第37話:Seize the Victory

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~夏休みが終わり、2学期が始まったある日。

夕焼けが校舎を茜色に染める頃、七槻は1人部室で静かに目を閉じていた。


(…本当に、俺が部長でいいんだろうか…。)


七槻の脳裏には、昨日の事のように室井の姿が鮮明に焼き付いていた。

圧倒的な実力、それに伴う影響力、それらを踏まえた、チームを一つにまとめる統率力。

全てにおいて、七槻は室井に遠く及ばないと感じていた。

しかし、そんな前任の彼が次なる部長に指名したのは、自分であった。


(…室さんみたいに、俺は強くもないのに…。)


インターハイで南関東大会に進むことすらできなかった自分。

そんな自分が、室井たちが築き上げてきた羽瀬高陸上部を率いていくことができるのだろうか。

七槻は不安を感じていた。


その時、部室のドアが開く音がした。

振り返るとそこには、引退したはずの泊麻が立っていた。


「…よっ、勝馬。元気そうだな。」


泊麻は笑いながら右手を挙げて、そう言って部室に入ってきた。


「…束咲さん…!どうしてここに…?」


七槻は驚きながら泊麻を迎えた。


「…明日の体育、体育祭の競技練習だから。ランシュ(※1)取りに来た。」


泊麻はそう言うと、七槻の異変に気がついたのか、彼に近づくと彼の肩を軽く叩いた。


「…勝馬、何か悩みでもあるのか?」


泊麻は珍しくそのように尋ねた。

基本的にマイペースで、周囲のことを良くも悪くもあまり気にしない泊麻が、誰かを心配する事は珍事に値した。


「…えっ…まぁ…その…。」


七槻は歯切れ悪くそう言った。


その様子を、泊麻は少しの間黙って見つめていた。

そして、七槻が続きを話し始めるよりも先に、口を開いた。


「…勝馬。お前は、お前だ。それは当たり前のことだ。人間、皆違うんだからな。」


泊麻の言葉に、七槻は驚いたように目を丸くした。

七槻がまだ何も言っていないにも関わらず、泊麻が的を射た答えを出してきたのだ。


「…大切なのは、自分らしくやることだぜ?

透治のようになる必要はない。お前には、お前だけのやり方があるはずだ。」


少し間を置いて、泊麻は続ける。


「…あんまり熱くなりすぎんなよ。

別に真剣にやることを否定してるんじゃねぇ。真剣になりすぎて周りが見えなくなるほどになっちまうのは、競技者としても部長としても、望ましくねぇのかなって、俺は思うからね。」


泊麻の言葉が、七槻の心に深く刺さっていた。

七槻は溢れそうな感情を何とか抑えながら、泊麻へと感謝を告げた。


「…ありがとうございます…束咲さん…。」


「…礼を言われるまでも。透治あいつもそうだったから、最初。

物事に囚われすぎなくなってからだったかな?あいつがあそこまで強くなったのは。確か、な?」


泊麻はそう言うと、当初の目的であったシューズの回収をして部室を後にした。


「…ま、期待してんよ。お前ら後輩たちに。」


泊麻はそう言い残し、背を向けながら右手を挙げて七槻に挨拶をし、部室を出て行った。

俯いていた七槻は顔を上げ、しっかりと泊麻の後ろ姿を見つめた。

その瞳には、先程までの迷いが消え、強い決意が宿っているように思えた。




_


トラックでは、男子100mの第7組が始まろうとしている。

第4レーンには、七槻の姿がある。


(…泊麻さんの言う通りだ。周りを見ずに、突っ走るだけじゃ…ダメなんだ…。)


七槻は深呼吸をし、目線を動かしながら周囲を見渡した。

横に並ぶ他の選手たちの表情、観客席のざわめき、そして、視界の脇に見える棒高跳びのピット。

全てが、七槻の視界に入ってきた。


(…部長として、チームを引っ張るために。

まず自分が…!)


『…On your marks…。』


選手たちがセットポジションに入る。

七槻も、落ち着いてスターティングブロックに両足を掛けた。


『…Set…。』



競技場内の空気感、緊張が最高潮に達する。




パンッッッ!!!




乾いたピストルの音が鳴り響いた。


七槻は研ぎ澄まされた集中力で、ピストルの音と同時にブロックを蹴り出した。

力強いストライドで、七槻は他の選手たちをぐんぐんと引き離していく。



(…行ける…!行けるぞ…!)



七槻の体は、風を切るようにトラックを駆け抜けていく。

その隣に誰も寄せつけない。圧倒的な立ち位置を維持し続けた。



ゴールラインをトップで駆け抜けた七槻のタイムは、11秒01。

自己ベストを大きく更新する好記録だった。


電光掲示板の示すタイムに、七槻は息を切らしながら、小さく拳を握りしめた。


(…やった…!自己ベストだ…!)


喜びも束の間、七槻はすぐに冷静な表情を見せた。


(…でも…10秒台には届かなかった…。

束咲さんたちは…これよりもっと速いんだ…。)


七槻の表情には、僅かな悔しさが滲んでいた。

その悔しさは、次なる都大会に向けた新たな決意へと変わっていった。


_


フィールドで行われている男子棒高跳び決勝。

バーの高さは4m75cmに上がっていた。



若越は、この高さを再びパスすることを選んだ。彼は既に、次の4m80cmを見据えていた。



江國、伍代、宙一は、落ち着いて1回目の跳躍で4m75cmをクリアした。


皇次は、3回目の跳躍で辛うじてクリア。

しかし、未だ若越への複雑な感情が、彼の心をざわつかせていた。



続けて、バーの高さは4m80cmに上がった。



若越は、静かに助走路に立った。

先程の4m70cmの跳躍で得た、確かな手応え。

それは、彼の変化に対する勢いを助長している。


(…こんな所で悠長にするつもりはねぇ。

今回で必ず証明してみせる。俺の本当の実力をっ!)


若越の瞳には、燃え盛るような闘志が宿っていた。

その視線は、獲物を狙う鷹のように鋭くバーを見つめている。


「…行きます。」


そう宣言し、助走を開始した若越のスピードは、先程よりもさらに力を増していた。

決して力んでいる様子はない。寧ろよりスムーズな動きを見せている。


助走の勢いを申し分なく受け取り、力強く踏み切って宙に放たれた若越の体は、軽々と上下反転する。

再び見事にポールの反発力を受け取ると、バーの上目掛けて真っ直ぐにその体を運んでいった。


最後まで握っていた右手をポールから離すと、その体に翼を得たかの如く、その体はもう一段階高く浮き上がった。


その跳躍は、更に圧巻だった。

バーと若越の体との差は15cm近く広がっていた。



観客席からは先程とは異なり、間髪入れずに地鳴りのような歓声と拍手が沸き起こった。

自然とその量が、1本前の跳躍の時よりも大きくなっている。


熱狂の渦の中、審判員は白旗を振り上げた。

若越の公認自己記録が、目まぐるしく更新されていく。


(…やはり…末恐ろしい…。)


伍代は若越の一連の跳躍を見つめながら、心の中で静かにそう呟いた。

その瞳には、若越に負けたくないという強い意志の炎が沸々と燃えている。


(…追いつかれてたまるかよ…。勝つのは、俺だっ!)


伍代は、決意を改めて強い視線を若越に向けた。




江國は相変わらず無表情だった。

前回呆気なく散った若越が、自分たちに迫り来る圧巻の跳躍を見せようとも、江國が動揺する事は無かった。

彼にはまだ、見えていない。自分自身しか。




続く皇次は、若越の跳躍に完全に心理状況を乱されていた。


(…マジ何なんだよ、あいつはぁっ!マジで気にくわねぇ!)


深呼吸を繰り返すが、心臓の鼓動は速くなるばかりだ。頭に上り続ける血が、皇次の冷静さを蝕み続ける。

彼の体は、次第に重い鎖に纏わりつかれているかのような不自由感を、強く感じていた。


結局、皇次の4m80cmの1本目の跳躍は、全てのタイミングをズラして失敗に終わってしまった。


続く伍代、宙一も、若越の跳躍に触発された力みからか、1回目の跳躍を失敗してしまう。

それぞれの表情には、焦りや悔しさが滲んでいた。

彼らの心は、既に難解な若越という鎖に支配されてしまっている。


しかし、同様に4m80cmの1本目の跳躍を失敗した江國だけが、その鎖の影響を受けていなかった。

自らの修正点に納得し、次なる跳躍のシュミレーションを既に脳内で行っていた。


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男子100mは、第12組目までのレースが終了していた。


観客席では、巴月が手元の記録を見ながら不安そうな表情を浮かべていた。


「…陸の練習ベストは11秒24…。現状の上位8位の記録が11秒23で、僅か0.01秒差…これは…。」


音木も、深刻な表情で頷いた。


「…厳しい戦いになるかもしれないな…。」




既にレースを終えた七槻も、心配そうにトラックを見つめていた。

未知数の実力を持つ蘭奈の公式レースを初めて目にする期待と不安を、七槻は感じていた。



しかし、蘭奈自身が不安や緊張といった感情を全く持ち合わせていない事は、冷静に考えれば容易に導き出せる事であった。


(…東京の高校記録が、10秒22…。全国で勝つための、最初の壁はこいつだな…。)


蘭奈は既に目の前のゴールラインではなく、その先に築き上げたより大きなゴールラインを見据えていた。

周囲のざわめきも、緊張感も、彼には関係ない。

彼の見えている世界は、目標記録達成のチャンスとその先に掲げる大きな目標だけであった。




遂に、運命の第13組。蘭奈の出走に向けたセットポジションの合図が出された。


『…On Your Marks…。』


蘭奈の表情が変わった。

その真剣な眼差しは、普段の蘭奈からは全く想像出来ない程に、アスリートのである。


彼の一連の様子を、同組第3レーンの選手が静かに睨みつけていた。

継聖学院のユニフォームを着たその選手のその目は、どこか挑戦的であった。


かつての泊麻のライバルであった都筑。

まるでその関係を引き継ぐかのようなその選手は、都築の後輩、司波 一しば はじめであった。

司波は、蘭奈の研ぎ澄まされた雰囲気に、言いようのない圧力を感じていた。


(…羽瀬高…泊麻 束咲の後輩…。何なんだよ、この異様な雰囲気は…。)


司波は既に、蘭奈の存在は知っていた。

かつての全中出場者。実力よりも底知れぬ圧倒的存在感。

しかし、実際に目の当たりにした蘭奈の姿は、司波の想像を遥かに超えるものだった。



『…Set…。』


静寂が競技場を包み込む。

観客席には、異様な緊張感が漂う。特に巴月、音木、七槻は、固唾を呑むように真剣な表情でトラックを見つめていた。



パンッッ!!!




乾いたピストルの音が、静寂を切り裂いた。



そのレースは、これまでの12レースよりも明らかな注目を集める事となった。



レースは、異常なまでの高速展開となった。

スタート直後、僅か5歩で全体のトップに躍り出た蘭奈。

彼のポジションは、後続との差が既に人1人分は開いていたのであった。


中盤で若干、後続選手にその差を詰められ先行を許す展開となるも、50m地点で蘭奈の前を行くのは、僅かに1選手のみ。

そしてそのタイムは、明らかに前のレースまでより速い。


ゴール直前、蘭奈は猛烈な追い上げを見せたものの、僅かに及ばず2着でゴール。

その記録は10秒91。驚異的なタイムだった。


1着でゴールした選手のタイムは10秒73。全体のトップタイムを叩き出した。

しかしその選手の表情は、勝利の喜びに満ち溢れているというよりは、どこか戸惑っているようであった。


(…羽瀬高の奴…何なんだよあの圧迫感…。

猛獣に追っかけられるのって、多分こんな感覚なのか…?異様な恐怖感から逃げるのに必死だったぜ…。)


司波は組で4着。記録は11秒24。

惜しくも予選通過とはならなかった。

彼は、悔しそうな表情でただ蘭奈を睨みつけていた…。


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レースを終えた蘭奈は、トラック脇で大声で悔しさを露わにしていた。


「…ぬぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!

まだまだ全然じゃねぇかチクショーッ!!」


周囲の選手は、思わず驚いて蘭奈を見た。

10秒91という驚異的なタイムを出したにも関わらず、彼は全く満足していない様子である。


両膝を突き、俯きながら両手で頭を抱えて困惑した様子を見せていた蘭奈の表情であったが、一瞬にしてその姿は一変した。


蘭奈の瞳には、既に次の目標を見据える強い光が宿っていた。


(…まぁ、10秒台は出せた。都大会ではもっと速く。

必ず、俺の存在をもっと知らしめてやる…!)


蘭奈は空を見上げながら、心の中でそう呟いた。

続けて、彼は若越に向けた思いもその胸中で呟いた。

もちろんそれが、離れた棒高跳びのピットにいる若越に届くはずがない。

しかしそれは確かに、若越への熱いエールだった。



(お前も見せつけてやれ。お前自身の、圧倒的な実力を…!)


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