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第36話:Be Reborn

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フィールドでは、4m70cmのバーが静かに選手たちを見下ろしていた。


若越は、助走路の脇で深呼吸を繰り返していた。

インターハイ支部予選での屈辱的な敗北。その後の、伍代や江國、他のライバルたちの全国での活躍。

巴月や蘭奈、紀良、高津といった仲間たちの励まし。

そして、胸の奥に僅かに灯り始めた桃木への淡い想い。

若越のライバルになり得る、伍代の存在。


若越が高校生になってからのこの5ヶ月間は、彼にとってあまりにも濃密な時間だった。

1度は諦めかけた棒高跳び。それでも、再びこの場所に戻ってきた。

違う。以前の自分とは違う。


(…あの時の俺は、ただ跳ぼうとしていただけであった。あの出来事に囚われたくなくて、ただただ呆然と目の前の4m90を見上げていた…。)


若越は静かに目を閉じて、4月の入学当初を思い返していた。

伍代との跳躍勝負。初めての屈辱的敗北。


(…そんな思いのまま、中途半端な気持ちで挑んだから…。)


そして、インターハイ予選での跳躍を思い出す。

周囲の見えない圧に圧倒され、呆気なくマットに落ちた、あの情けない自分を。


(…でも、今は違う。…変わったんだ。変わらなきゃいけなかったんだ…。)


若越は目を開けて空を見上げる。

雲一つない青空は、あの時とは少し違う。


(…そうだ。俺は…生まれ変わってみせる。)



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若越は再び静かに目を閉じ、意識を集中させる。

風の向き、助走路の感触、ポールのしなり。

全身を研ぎ澄ませ、生まれ変わるための準備を整えていく。


目を開けると、若越は助走路に移動した。

真っ直ぐ、マットに向かって続くその道に立つと、全身で流れる風を感じながら、呼吸を整えてポールを強く握り直す。

背後から、優しくも心強い追い風が吹いてくるのを感じた。


(…行くぞ…!)


若越は勢いよく走り出した。助走のスピードは以前よりも増し、ポールの突き出しも力強い。

完璧なタイミングで踏み切ると、若越の体は高く舞い上がる。



(…行けそう…っ!)


棒高跳びピットの近くの観客席で見守る桃木は、両手を固く胸の前で握りしめながらそう祈った。


(…行けっ!…跳哉くん!)


ホームストレート側の観客席で見守る巴月も、目下で行われている予選第1組のレースを他所目に、少し離れた棒高跳びピットに熱い視線を送っている。




その跳躍は、以前六織や江麻寺が見せたような見る者を圧倒する迫力と、亡き父、浮地郎を彷彿とさせる、ダイナミックな美しさを併せ持っていた。

明らかにインターハイ支部予選の跳躍とは違う。

ポールは三日月を描く弓のように撓り、その反発から繰り出された若越の体は、天を射抜く矢そのものだった。

体は空中で弧を描き、バーの上を滑るように、いや、伸びやかに越えていった。


マットに着地した若越は、静かに立ち上がった。

その表情には、僅かながら安心感が伺えた。


審判員は白旗を高く掲げた。

観客席からは驚きから生まれたざわつきが聞こえたが、次第に大きな拍手が若越に送られた。



(…やっぱり末恐ろしいぜ…若越 跳哉…。)


選手の控えテントからその跳躍を見守っていた伍代の緊張感も、少し和らいでるように伺えた。

そして、迎えるこの後の自身の試技に向けて、再びユニフォーム姿へと着替えた。


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ホームストレートのトラックでは、男子100mのタイムレース決勝が行われている。

観客席では、巴月がタイムを記録しながらそのレースを見守っていた。

そこへ、軽く体を動かしに行っていた音木が戻ってきた。


「…第2組まで終わって、ボーダーラインは11秒50ってところか?」


両手をズボンのポケットに突っ込みながら、音木はゆっくりと巴月の隣に腰掛けた。


「…そうですね…。1組目の1着は11秒45、2組目の1着が11秒01。

都大会への出場権を手にするには11秒台前半、10秒台なら確実と言ったところですかね…。」


巴月は手元のパンフレットにメモした各組の記録を見ながら、冷静な分析を披露した。


「…ところで、1年坊たちの練習ベストはどんな感じなんだ?

紀良は兎も角、あの小僧はあれだけ豪語してるだけの実力はあるのか?」


音木はそう言いながら、トラックで次のレースを控える第3組の面々を眺めていた。

第7レーン、羽瀬高のユニフォームに身を包んだ紀良の緊張した様子は、観客席の音木の目にも十分伺えていた。


「…光季くんの練習でのベストタイムは…12秒63。陸の練習でのベストタイムは、11秒24ですね。」


巴月は手元にある練習の記録を綴ったノートを捲りながら、音木にそう伝えた。

2人のタイムに、音木は少し険しい表情を見せる。


「…小僧でギリギリ…ってところだな。安心しろ。勝馬は必ず支部予選を通過する。」


巴月は、聞かれなかったので兄である勝馬の記録は伝えなかったものの、音木は妙に自信満々にそう言った。

絶体的な信頼が、そこには存在していた。


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男子100m予選、第3組。

第7レーンの紀良は、スタートラインに立っていた。

緊張した面持ちで、深呼吸を繰り返している。


(…あいつら蘭奈や若越はあんなに活躍しているのに…俺は…。)


紀良の耳にも、第3コーナーでのフィールド競技の盛り上がりの様子が届いていた。

視線を横に移すと、自分と同じユニフォームを着た選手が、マットの上で小さくガッツポーズしている様子が映った。


(…俺は、あいつらのようになれるのか…?)


『…On Your Marks…。』


第3組の出走準備の合図がアナウンスされた。

両サイドにいる選手たちが、それぞれの呼吸を整えながらセットポジションに入る音が聞こえてくる。

紀良も周りに送れないようにと、そそくさとセットポジションに入った。

夏休みの練習期間に、蘭奈や七槻、音木から教わったりアドバイスを受けながら決めたセットポジションを、忠実に再現しようとするも、なんだかその動きはぎこちない様子であった。


(…余計なことは考えんな…。今はこの1本に集中…。)


邪念を振り払うように心を無理矢理落ち着かせながら、紀良は俯いた。


『…Set…。』


一斉に選手たちの腰が高く上がる。

そして、スタートの合図が鳴り響いた。


紀良は懸命に走り出すが、思うようにスピードに乗れない。

周りの選手たちの姿が、一瞬にして視界の両端に現れた。


(…ダメだ…足が…思うように進まない…っ!)


紀良は焦りを感じながらも、最後まで諦めずに走り抜けた。

もちろん、彼の前に何人かの選手がゴールラインを割っていた。

しかし、彼に続いてゴールした選手も0ではなかった。

記録は12秒42。現在の全体の中盤ほどの順位に終わった。


レース後、紀良は俯きながらトラックを出ると、肩を落としていた。


(…やっぱり…全然ダメじゃねぇか…。)


紀良の脳裏には、蘭奈や若越の活躍が鮮明に焼き付いていた。

彼らとの差は、紀良にとってあまりにも大きい。


(…どうすれば…どうすれば、あいつらに追いつけるんだ…?)


紀良は拳を強く握りしめた。

決して最下位などではなかったが、紀良にとっては2人に追いつけない悔しさが、彼の心を締め付けていた。


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再び助走路に姿を現した皇次は、大きな衝撃を受けていた。

完璧な跳躍。前回の若越からは想像もできない、力強く、美しい跳躍だった。


(…あいつ…何なんだ…。)


皇次は、控えテントにいる若越を見つめる。

皇次のその表情は、驚きと、僅かな畏怖の色を帯びていた。


「…続いて、高薙 皇次くん。準備をお願いします。」


審判員の声が聞こえ、皇次はハッと我に返り前を向いた。

しかし、その脳裏には若越の跳躍姿が離れずに鮮明に残っていた。


(…落ち着け…落ち着くんだ…。まだ70…。)


皇次は深呼吸を繰り返すが、心臓の鼓動は速くなるばかりだ。

予想外の緊張が、彼の体を支配していた。

初めてのインターハイで記録した自己ベスト、4m70cm。

その高さの更新を目指してこの数カ月間練習に挑む中で、皇次は既に次の記録を見据えていたはずであった。


荒ぶる脳内を無理矢理落ち着かせながら、皇次は助走に入った。

しかし、逸る気持ちの表れからか、踏み切りのタイミングをずらしてしまってバランスを崩してしまう。

何とか跳躍に持っていったものの、皇次の体はバーに触れてそのままバーもろともマットに落ちた。


審判員の赤旗が、無慈悲にも高く掲げられた。




続く江國は、難なく1本目の跳躍を成功させた。伍代もまた、自身の跳躍に集中しながら、安定感のある跳躍でバーをクリアしていく。


その後の宙一は、皇次と同様に1本目を失敗してしまう。ただならぬ焦燥感が、彼の表情に滲み出ていた。

しかし、2人とも2本目ではしっかりと各々の問題点を修正し、無事に4m70cmをクリアした。


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同時進行で行われている男子100m予選は、第7組まで進行していた。

第4レーンには七槻が、そのスタートラインに立っていた。


部長として新たにチームを引っ張らなければならない。インターハイでの悔しさを晴らさなければならない。様々な思いが、彼の胸の中に渦巻いていた。


(…今回は必ず、南関の舞台に進んでみせる…。)


七槻はインターハイ都予選大会でのレースを思い出す。

力及ばず、予選敗退。南関東大会に進むことができなかった、悔しい記憶。


(…でも、今回はあの時と違う。部長として、チームを引っ張る立場になった。

後輩たちに、背中を見せなければならない…。)


七槻は静かに目を閉じた。

紀良は先程のレースで悔しい思いをしただろう。初めて出場した大きな舞台でのレース。

レース後の彼の姿から、満足の行く結果と本人が捉えていないのは明白であった。

そして、第13組に控える蘭奈。彼自身の自信の表れから、然程心配には値しないとは思いつつ、まだ未知数の彼のことも、七槻は何処か心に引っかかっていた。

七槻は改めて、部長としての責任を感じていた。


(…俺が、生まれ変わった姿を示さなければ…っ!)


七槻は目を閉じたまま、深呼吸をする。

様々な思いを胸に、新たな決意を固める。


(…そうだ。伍代にばっかり任せるんじゃねぇ。俺自身が、チームを…新しいステージへ連れて行く。

それが、部長としての…俺の使命だ!)


七槻は静かに目を開け、鋭い眼光でゴールの先を睨みつけた。

スタートの合図を待つ彼の表情には、強い闘志が宿っていた。




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