目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第15話

 久世が東條を昼食に呼びに来た。おれは気を取り直し、珠名の部屋に向かった。あの部屋に銀烏涙ぎんあるいがあるのなら、黒岩がそれを知れば珠名の身にも危険が及ぶかもしれない。所在を確認しておいた方がいいだろう。


 主寝室は確かに客間より広く、家具調度の類いも多い。小夜子の部屋に造りが似ているが、可憐で優美というよりも重厚感の強い内装だ。部屋の左手には安楽椅子とテーブルに加えて、大きな書棚と書き物机が据えられていた。部屋の奥には、小夜子の部屋にあったものと同じフランス窓と寝台がある。珠名は昼食に向かったのだろう、扉は施錠されていて室内には誰もいなかった。


 背の低い箪笥の上には珠名の荷物のほか、真っ白な綿布やガーゼが積まれていた。医療用のものに見える、小夜子のために用意したのかもしれない。

 書き物机の上には読みかけの本が数冊あった。いずれも婦人の医学や妊娠出産に関する、専門的な医学書に見える。その内の半分はドイツ語で、おれは珠名の賢さに舌を巻いた。東條は珠名を才女と評していたが、ドイツ語の専門書まで読みこなすほどとは思っていなかった。これは、大抵の男が色を失うほどの学者だ。珠名は友人のために惜しみない努力をしているようだ。


 背後の壁には一面の書架が据え付けられており、たくさんの本が詰まっている。しかし、多くが古い本に見える。おれが書架に手を突っ込むと、階下の図書室の本のようにすり抜けた。ここは本来書斎を兼ねた部屋なのだろうが、東條に読書の趣味はないらしい。

 書架を見回すと、本に交じって隅に黒い箱状のものがあった。何気なく手を伸ばすと触れられる。どうやら、これは東條の物のようだ。手に取って蓋とおぼしきところを持つと、それはぐいと伸びて蛇腹が姿を現した。これはカメラだ。

 東條の趣味は読書ではなく写真だったのか。裏蓋を開けてみたが乾板が入っておらず、撮影はできないようだ。覗いてみれば、レンズでたわんだ室内の景色が見えた。

 アルバムでもないかと周囲の棚を探ったが、それらしいものは手に当たらない。部屋を見回してもあるのは油絵ばかりで、写真の類いは飾られていなかった。このサイズのカメラで撮影できるのは、せいぜいが名刺程度の大きさの写真だ。飾るほどの大きさではなかったのかもしれない。


 銀烏涙はどこだろうか。書き物机を探ろうとしたが、机はあっさりとおれの手をすり抜けた。引出しのついた袖机や箪笥も、おれの手を受け付けない。

 フランス窓の前の寝台やサイドテーブルには触れられたが、それらしい隠し場所はない。こちらの窓の閂は無くなってしまったのか、閂代わりに珠名の物らしきリボンが取っ手に結ばれており、まるで小夜子の部屋を思い起こさせる可愛らしさだ。

 念のため隣室と共有だという浴室も覗いたが、女物の細々とした化粧品や洗面用具が並んでいるだけだった。化粧品のものとおぼしき甘いすみれの香りがし、いたたまれず早々に退散した。珠名はすっかりこの部屋を己が城としているようだ。


 いくら元は東條の部屋とはいえ、女の居室を漁るのは思ったよりも気が進まない。そもそも東條はこの部屋の家具に思い入れがないようで、おれが開けられる引出しすらろくにない。これではどうしようもない、おれは捜索を諦めることにした。


 おれは寝台の脇にある、隣室に続く内扉を見た。この扉は鍵がついていないようだ。隣室は静かで、小夜子は眠っているのかもしれない。一目小夜子の顔を見たいという欲が湧く。

 おれはしばらく躊躇い、あくまで小夜子の無事を確認するためだと己に言い聞かせ、ついに隣室にそっと足を踏み入れた。案の定、扉は小夜子の寝台の脇に続いており、そこに彼女は横たわっていた。

 小夜子はお伽噺に出てくる姫君のように眠っていた。枕に艶やかな黒髪が広がり、滑らかな頬は僅かに薔薇色を帯びている。小夜子に触れたい、という衝動を懸命に堪え、おれは顔を上げた。


 傍の小さな戸棚の上に、珠名が持ってきた林檎とナイフが置いてある。そしてその横に、蓋の閉じられた懐中時計が置いてあった。

 時計は銀の梨地に、精緻な蔓模様が一面に金で象篏されている。その蔓は柘榴石でできた葡萄に巻き付いていた。男物ではあるが、それにしては凝った意匠だ。高価な品に違いない。東條の物だろうか?

 しかしおれが触れようとすると、時計は手をすり抜けた。東條の物ではないのか? しかし小夜子が持つようなものでもない。だとすると、誰の時計なのだろうか。


 ふと、おれは小夜子の腹の子の父親のことを思い出した。うっすらと目の前が暗くなる。考えたくない話題だ。

 小夜子が寝返りを打った。その音に我に返る。おれは逃げるように小夜子の部屋を出た。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?