王城のバルコニーに立ち、キッドは静かに眼下の光景を見つめていた。今の彼は、山小屋でのローブ姿ではなく、紺色の軍服に身を包んでいる。肩章や袖口には白の刺繍が施され、胸元には王国の紋章が銀糸で織り込まれ、端正な佇まいを一層引き立てていた。
城と併設された軍事訓練場では、王国騎士たちが朝陽に照らされながら剣を振るい、掛け声と金属音が交錯している。彼らの動きを目で追いながら、隣に立つルルー王女の気配を感じた。
「城での生活には、少しは慣れましたか?」
ルルー王女が楽しそうに微笑みながら尋ねる。おさげが風に揺れ、その赤茶色の瞳は朝陽を映したように輝いていた。彼女は淡いクリーム色のシンプルなドレスを纏い、胸元や袖口には繊細なレースがあしらわれている。腰には細いリボンが結ばれ、装飾は控えめながらも王女らしい品格が漂っていた。
「ええ、おかげさまで」
答えながら、キッドは王城に足を踏み入れた日のことを思い返す。
王女から誘いを受けたものの、城の中には自分のような外様の存在を警戒する者が少なくないと考えていた。ましてや、自分は緑の公国を追放された魔導士だ。うとまれるのは覚悟の上だった。
だが、意外にもキッドを迎えたのは、温かな歓待だった。ルルー王女をはじめ、大臣や騎士たちも敵意を見せるどころか、彼の知識と実力に期待を寄せていた。さらには、病床に伏す現国王にも拝謁を許され、「娘とこの国を頼む」との言葉まで賜ったほどだった。
この厚遇に、キッドは驚きとともに安堵を覚えた。最初の障壁となるはずだった反対勢力の説得が不要になったことで、彼は純粋に戦力の整備に集中できるのだから。
今、こうして騎士たちの訓練を見守るのも、彼らの実力を自らの目で確かめるためだった。
「……キッド様から見て、我が国の兵たちはどうですか?」
ルルーがそっと問いかける。
「士気は悪くないですね。王や、ルルー王女……あなたのために戦おうという意気込みが伝わってきます。きっと、あなたがたの人柄が影響しているのでしょう」
その言葉に嘘はなかった。城の者たちがキッドを受け入れたのも、ひとえにルルーの人徳ゆえだろうとも思える。
「ありがとうございます」
ルルーの顔がほころぶ。とはいえ、自分が褒められたことを喜んでいるのではない。それよりも、兵士たちが称賛されたことを嬉しく感じているのが、その顔から伝わってきた。
しかし、キッドの表情は次第に引き締まる。
「ただ……練度は決して高いとは言えません。この国はこれまで外交を重視し、実戦経験のある将校が不足している。その影響で、兵の動きに統制が取れていない。士気が高くとも、指揮官がいなければ、戦場での勝利は望めません」
「……なんとかなりますか?」
「俺は魔導士ですが、基本的な訓練を施すことくらいはできます。ただ……人手が足りませんね。この国は魔導士の数も質も、他国に比べて著しく劣っています。魔導士の訓練をしながら兵の鍛錬を進めるとなると、どこまでできるか……」
魔導士は、戦場における切り札たる存在だ。遠距離から強力な攻撃を放てる彼らの存在は、戦局を左右するほどの影響力を持つ。しかし、それゆえに各国は貴重な魔導士を失うことを極端に恐れ、その運用には常に頭を悩ませていた。
それはこの国も例外ではないが、この国の問題はそれだけではなかった。そもそも、この国の魔導士は、数が少ない上に、実戦経験がなくお世辞にも優秀だとは言えない。実戦で通用する水準にまで鍛え上げるには、相当な時間と労力が必要に思えた。キッドがその育成に専念すれば、騎士たちの訓練にまで手を回す余裕はなくなる。
「いっそ、魔導士の育成を諦め、騎士の練度を上げることに集中するか……。いや、それでは作戦が……」
キッドは顎を手に当て、深く思案する。しかし、使える駒は自分一人。どう考えても、決定的な解決策が見つからない。
「せめてあと一人、軍を率いたことのある騎士か、俺に近い腕の魔導士がいてくれれば……」
「申し訳ありません。我が国が人材不足であるばかりに……」
キッドのぼやきに、ルルーが申し訳なさそうに頭を下げる。だが、キッドに彼女を責めるつもりはなかった。
(そうか……だから俺が呼ばれたんだな)
王城の人々が歓迎してくれた理由が、ようやく理解できた。今のこの国には、外様だからといって、力のある者を拒む余裕などないのだ。たとえそれが、他国を追放された曰くつきの魔導士であったとしても。
前途は決して明るいものではない。それでもキッドはこの仕事から逃げるつもりはない。自分の隣で、ただ純粋な信頼の眼差しを向けてくれる少女――ルルーのために、やれるだけのことをするだけだった。
「大丈夫ですよ、ルルー王女。俺がなんとかしますから」
「……頼りにさせていただきます。ちなみに、この後はどうされます? 実は珍しい果物が手に入ったので、キッド様さえよければ一緒に――」
「いえ、この後は街に出ようと思っていました」
キッドの言葉に、ルルーは一瞬拗ねたような表情を浮かべたが、すぐに思い直したかのように明るい顔に戻った。
「でしたら、私もご一緒してよろしいですか? 王都なら案内もできますし――」
「いえ、それには及びません。ルルー王女もお忙しい身ですので、俺一人で行きますよ」
今度こそルルーは、頬を膨らませ明らかに不貞腐れた顔をした。だが、キッドは騎士たちの動きを見つめ続け、そんなルルーの様子に気づかないふりをする。
王都の様子を探る――それもキッドにとって重要なことだったからだ。紫の王国、さらにその先にある黒の帝国の脅威が迫る中、街が沈み、民から活気が失われているようなら、何か手を打たなければならない。もし、すでに諦観の色が広がっているのなら、それはやがて兵たちにも伝播する。だからこそ、キッドは自らの目で、肌で、街の現状を感じ取る必要があった。
しかし、ルルー王女が同行しては、民の反応が変わり、肝心の素の部分が見えなくなる。だからこそ、どうしても一人で行く必要があった。
「……いいですよ、別に。どうせ私は邪魔でしょうからね」
ルルーのつぶやきを、キッドは心の中で謝罪しながら聞こえなかったことにした。
王都の市場に足を踏み入れたキッドは、周囲を見渡しながら安堵の息を漏らす。
活気ある屋台、威勢のいい商人の声、笑顔で談笑する人々――隣国の侵攻が噂されているとは思えないほど、街には賑わいが満ちていた。
(為政者たちが、これまで尽力してきた証か……)
民がこの国を信じているからこそ、この賑わいが生まれるのだろう。税制などに見直す余地はあるが、少なくとも今すぐ手を打たねばならない状況ではない。
(これなら、俺は軍事面だけに集中できるな)
安堵と共に、少しばかりの疲労が押し寄せてくる。街を一回りしたキッドは、自分が朝から何も食べていないことを思い出した。
市場の端に食堂を見つけ、キッドはふらりと店内に入る。
昼時を過ぎた店内は客足もまばらで、静かな空気が漂っていた。カウンターの向こうでは店主が手際よく調理を進めており、香ばしい匂いが漂ってくる。
キッドは適当な席に腰を下ろし、料理を注文すると、椅子の背もたれに身を預け、深く息を吐いた。
あとは軍事面だけなんとかすればいい――だが、そのためにはどうしても人材不足が響いてくる。
「ミュウ並みの剣士か、俺に匹敵する魔導士……できればその両方を備えたような奴が、どこかその辺を歩いていないものかな……」
ふと口をついた言葉に、自嘲の笑みを浮かべかけたその瞬間、キッドの脳裏にある記憶が蘇った。
伝説の暗殺者シャドウウィンド。
その名は、本人が名乗ったものではない。風のように現れ、影のように消え、気づいた時には標的の命が絶たれている。その姿を見た者は、誰一人として生き残らない――そんな伝説じみた噂が生み出した通り名だった。
まだ緑の公国にいた頃、キッドはミュウとともにそのシャドウウィンドと対峙し、暗殺の標的を守り抜いたことがある。シャドウウィンドと戦い、生還を果たした者など、おそらく彼らが初めてだろう。
だが、その戦いは生きた心地がしない激闘だった。
独特の形の二本の短剣を流れるように操り、魔法すら自在に駆使する暗殺者。ミュウの剣技に応戦しながら、同時にキッドの魔法にも対抗するほどの実力――まるで、一人で軍勢に匹敵するかのような脅威だった。
生き残れたことが、今でも奇跡のように思える。
そして、その戦いの中、キッドにはいまだ忘れられない光景があった。
魔法の余波で、顔を隠していたシャドウウィンドの仮面が吹き飛ぶ。
仮面の下から現れたのは、意外なほど若い、女の顔だった。
漆黒の髪は夜の闇のように深く、まっすぐに伸びた長い前髪が左目の端にかかっていた。後ろで束ねられた髪が静かに揺れる。
切れ長の黒い瞳は、凍てつく刃のような冷たさを宿し、見つめる者を一瞬で貫くようだった。その瞳の奥には、感情の色を欠いた静寂が漂い、伏せがちの長いまつ毛の影が、かえって目元の美しさを際立たせている。
鼻筋は鋭く整い、唇は血の気のない薄い色。まるで氷で形作られた彫像のような顔立ちだった。肌は透けるように白く、青白い月光を浴びた彼女は、まるで人ならざる存在のようにすら見えた。
キッドは今でも時々夢に見る。戦慄するほどに恐ろしく、そしてそれ以上に美しいあの顔を――。
「そうそう、ちょうど今、俺に料理を運んでくるあのウェイトレスの顔のような――」
思考が現実に重なり――キッドの意識が凍りつく。
「嘘だろ!? どうしてこんなところに!?」
驚愕と疑念が交錯し、キッドは椅子を蹴るように立ち上がり、反射的にそのウェイトレスの腕を掴もうとした。
しかし――彼女は最小限の動きで、それをかわす。
「お客様、いかがされました?」
冷静な声。
まるで何事もなかったかのように、ウェイトレスは淡々と料理をテーブルの上に置いていく。
キッドは、改めて彼女の顔をじっと見つめた。
(間違いない! あの時の顔だ!)
忘れようとしても、決して忘れられるはずがない。恐ろしくもあり美しくもあるあの暗殺者の顔を。
「シャドウ――!」
キッドがその名を呼び終わる前に、ウェイトレスの手が音もなく伸びる。そして、静かに、確実に――キッドの口を塞いだ。
「……外でお話ししましょうか」
穏やかでありながら、刃のように冷たい声。
射貫くような視線に、キッドは無意識に息を呑む。
張り詰める空気の中、彼はただ黙ってうなずくことしかできなかった。