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第3話 ウェイトレスは暗殺者 その2

 店の裏手にある薄暗い路地へと連れてこられたキッドは、黒と白のクラシカルなウェイトレス姿の暗殺者と対峙することになった。

 路地裏に漂う湿った空気の中、キッドは相手の気配を探る。魔導士である彼にとって、一瞬の油断が命取りとなる間合いだった。逃げ道などない。もし彼女がその気になれば、次の瞬間には喉を掻き切られているだろう。

 緊張に包まれたまま、キッドは慎重に口を開いた。


「なぜこんなところでウェイトレスをやっている? 暗殺しごとか?」

「はい、給仕しごとです」


 即答だった。落ち着いた声には一切の揺らぎはない。


(やはりか……。この格好も、街に紛れるためなんだろう。俺も顔を見るまでは、完全に普通のウェイトレスだと思っていた。……それどころか、今こうして向き合っていても、殺気をまるで感じない。恐るべき技量だ。それにしても、ターゲットは誰だ? まさかルルー王女ではあるまいな?)


 暗殺者が自らの標的を明かすはずがない。しかし、確かめずにはいられなかった。


暗殺対象あいては?」

対象客あいてですか? この街の人間なら誰でもかまいません」

「――――!?」


 まるで今夜のおすすめ料理を伝えるかのような、穏やかな口調。

 しかし、その意味するところはあまりに凶悪だった。キッドは一瞬、耳を疑った。だが、彼女の無機質な声音が、冗談ではないことを告げている。


(誰でもかまわないだと!? それはつまり、無差別大量殺人ということか!?)


 それは、キッドの知っているシャドウウィンドのやり方とは大きく異なっていた。ただ確実に、そして静かにターゲットを仕留める――それがシャドウウィンドの流儀だったはずだ。しかし、彼はシャドウウィンドのすべてを知っているわけではない。


(何のために? 王都で混乱を引き起こすためか? 誰がこんなことを依頼した? 黒の帝国ほどの戦力があれば、こんな手を使う必要もない。紫の王国の仕業か? だが、俺の知る限り、あの国の王がこんな卑劣な手段を用いるとは考えにくい……)


 考えれば考えるほど、迷宮に迷い込んだかのように思考が堂々巡りする。


「……誰に頼まれたんだ?」

「誰に? そうですね……店長でしょうか?」


 その言葉にキッドの思考が一瞬、凍りついた。


(な、なんだと!? この店の店長が、王都での大量殺人を目論んでいるというのか!? 理解不能だ!)


 彼女の言葉は、あまりに淡々としていた。それだけに、嘘や冗談だと片付けることもできず、キッドの混乱は深まるばかりだった。


「一体、何が目的でそんなことを?」

「…………? 自分の料理を多くの人に食べてもらいたいからではないでしょうか?」


 暗殺者は小首をかしげ、まったく悪意のない表情で答えた。

 彼女から感じる純粋さはどこまでも透明で――美しいとさえ思った。

 キッドはただ彼女を見つめる。


「…………」

「…………」


 沈黙が二人の間に漂う。まるで空気が凍りついたかのような静寂の中、キッドはようやく、自分が何か決定的な誤解をしているのではないかと気づき始めた。


「……もしかして、本当にこの店でただのウェイトレスをしているのか?」

「ですから、最初からそう言っているではないですか」


 その瞬間、キッドが先ほどまで感じていた恐怖が、まるで蜃気楼のように消え去り、代わりに自分の勘違いに対する恥ずかしさが胸に込み上げてくる。


「……すまない。どうやら俺の思い違いだったようだ、シャドウ――」


 彼女は鋭く指先を伸ばし、キッドの言葉を制した。


「その名前で呼ぶのはやめてください」


 唇に触れる指からは、氷のような冷たさではなく、人間らしい温かさを感じた。


「その名前はとうの昔に捨てました。今の私はただのルイセです」

「ルイセ……本当の名前か?」

「ええ」


 暗殺者が自分の本名を名乗る――それは、普通ならあり得ないことだった。しかし、逆に言えば、目の前にいる彼女は、もう暗殺者でなく、ただのウェイトレスであることの証明でもあった。

 キッドは、ようやく彼女が本当に何一つ嘘を言っていないのだと理解した。


「……もう暗殺はやっていないのか?」

「はい」

「どうして?」

「おかしなことを聞くんですね。仕事に失敗し、あなたに顔を見られてしまったからじゃないですか」


 ルイセは淡々とそう答えた。その声音には未練もなければ、悔恨すら感じられない。ただ、当然の帰結として事実を述べているように聞こえた。

 キッドは思い返す。確かに、ミュウと二人でシャドウウィンドを撃退して以来、彼女の噂をぱったりと聞かなくなった。撃退したといっても、相手に致命傷どころか、まともな傷さえ与えておらず、本当にただ追い返したに過ぎなかった。それなのに、シャドウウィンドが沈黙し続けることをキッドは不思議には思っていた。


「……なるほど、プライドの高い暗殺者としては、一度でも失敗すればもう仕事は続けられないというわけか」

「いえ、そんなプライドは持ち合わせていませんよ。それより問題なのは、あなたに顔を見られてしまったことです。私には敵が多いですからね。素顔を知られた暗殺者なんて、ただの的でしかありません」

「なるほど……あ」


 キッドはうなずきかけて、ふと違和感に気づいた。

 確かに、シャドウウィンドの素顔を見た。だが――


「……すまない。お前の素顔や、実は女だったってことも、誰にも言ってないんだ」

「……え?」


 ルイセの表情に珍しく動揺が浮かぶ。

 二人は顔を見合わせた。

 沈黙が流れ、しばしの間、時間が止まったように感じられた後、ルイセが小さく、意外と可愛らしいその口を開く。


「なぜですか?」

「忘れていたというか、考えもしなかったというか……」


 キッドは言葉を探しながら、気まずそうに頬をかく。

 だが、その言い訳はどこかしっくりこなかった。考えれば考えるほど、単なるうっかりではなかったことに気づく。


「いや、違うな。あの時、俺たちはお前を撃退したが、勝ったとは思っていなかった。次に戦う時こそ決着をつける――だから、その時までは誰にも邪魔されたくなかった。たぶん、そう思ったんだ」


 それは、キッド自身も無意識のうちに抱いていた本心だった。


「…………」


 ルイセは無言で彼を見つめた。

 長い沈黙。

 キッドがかつて見た彼女の瞳は、氷の刃のように冷たく、鋭かった。だが今、その瞳にはどこか温かな光が宿っているように見えた。


「だから、安心しろ、お前の素顔を知っている人間は、この世に二人しかいない――俺とミュウだけだ」

「……つまり」


 ルイセはゆっくりと瞬きをし、低くつぶやいた。


「その二人さえいなくなれば、私の顔を知る者はいない――ということですね」


 その言葉とともに、彼女の瞳からかすかな温もりが消えた。

 闇に沈んでいた暗殺者の本能が、彼女の奥底で静かに目を覚まそうとする――その刹那。


「そうか!」


 キッドの声が、その闇を軽やかに貫いた。


「俺とミュウしか知らないのか! だったら大丈夫だ!」


 満面の笑み。まるで心から安心したかのような、あまりにも屈託のない表情。

 次の瞬間、キッドは何の前触れもなくルイセの腕を掴んだ。


「――――!!」


 ルイセの瞳が驚きに見開かれる。こんなにも簡単に腕を掴まれるのは、彼女にとって初めてのことだった。

 彼女は生きるために、殺すために、無数の危機をくぐり抜けてきた。敵意を察知すれば、身体は反射的に動き、相手の攻撃をかわす――それが染みついた本能のはずだった。

 それなのに、今は動けなかった。

 理由は単純だった。

 キッドから、一切の敵意が感じられなかったからだ。


「一緒に来てくれ」


 彼の声に迷いはなかった。ただ当然のように、彼女の手を引く。

 本気で抵抗しようと思えば、キッドの腕を捻り上げることも、この場で彼を組み伏せることも造作もない。

 なのに、なぜか彼女の足は、そのまま自然と前へ進んでいた。


(……どこに連れて行く気か知りませんが、……まぁいいでしょう)


 この考えが浮かんだことに、ルイセは驚いた。

 誰かに手を引かれる――それは彼女にとって経験のないことだった。

 ――だが、嫌ではない。

 キッドの手から伝わるぬくもりが、彼女の心を静かに揺らす。

 それは、久しく忘れていた感覚だった。

 こんなにも穏やかで、無防備な温もり。

 それは、彼女が遠い昔に捨てたはずの、人間らしい温もりだった。

 だからこそ、今は振りほどきたくない――そう思ってしまった自分が、少しだけ癪だった。


(……これは借りを返すだけです。そう、素顔をバラされなかったことに対する借りを――)


 ルイセは小さく息を吐き、キッドに腕を引っ張られたこの先に何が待っているのかを思い描く。


(一体、何を私に頼むつもりなのか……。ああ、そうか)


 ルイセは、すぐに自分が必要とされる理由が、暗殺しごとしかないことに思い至る。


(……いいですよ、始末したい相手がいるのなら、その望み、叶えてあげましょう)


 彼女はわずかに微笑む。だが、その顔はどこか寂しげだった。



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