気がつけば、ルイセは紺の王国の王城の中――その中でも最も厳重な場所の一つである王女の私室へと連れて来られていた。
(どうして私はこんなところに……)
彼女の隣にはキッドが、そして信じられないことに、目の前にはこの国の王女であるルルーが、水色の簡素なワンピースを着て立っている。彼女は暗殺者時代に、他国の王城に侵入した経験もあるが、こんなに容易く王族と対面するのは初めてのことだった。
(この男は、確か緑の公国にいたはず……。それが、今は紺の王国に仕えているのでしょうか? いや、それよりも、どうしてこんな場所までほとんどフリーパスで入ってこられるんですか?)
思い返せば、ここへ来る道中、城の中で何人もの衛兵とすれ違った。しかし、驚くべきことに、誰一人としてルイセを止めることもなく、むしろキッドに敬礼し、さらには彼女にすら丁重な態度を取ってきた。
(この男だけならまだしも、私まで通すなんて……。ウェイトレス姿の女が城内を歩いていれば、普通なら見咎められるはずでは? 一体、この城の警備はどうなっているのですか!? ……それとも、この男がそれほどまでに信用されているとでも? いや、まさか、他国の魔導士だったのに……そんなこと、あるわけないですね)
ルイセの混乱をよそに、キッドとルルーは親しげに言葉を交わし始める。
「ルルー王女、急にすみません」
「いえ、キッド様の用件であれば、構いませんよ。それで、どうされましたか?」
「見つかったんですよ! 求めていた人材が!」
「本当ですか!?」
興奮気味のキッドの言葉に、ルルー王女の顔がぱっと輝いた。その表情は、まるで無邪気な少女のようで、王族らしい厳粛さを微塵も感じさせない。
そんな二人を見ながら、ルイセは冷静に、自分がここに連れてこられた理由を分析する。
(人材? ああ、暗殺者のことですね。なるほど、それなら納得できます。暗殺者を探していたのなら、私と出会ったのは僥倖だったでしょう。……ええ、構いませんよ。仕事を受けてあげます。それで、あなたとは貸し借りなしですよ)
静かに納得するルイセだったが、二人の話は彼女の予想とは違う方向へと転がっていく。
「魔導士達と騎士団、どちらを任せても問題ありません! 魔法は俺に対抗できるほどで、剣の腕でもそこらの騎士団長には負けませんから!」
「それはすごいですね!」
「ええ! 人材不足の我々にはうってつけです!」
(……この二人は何の話をしているのですか? 暗殺の話ではなかったのですか? そもそも誰の話をしているのです?)
二人の会話が弾む中、ルイセだけが置いてけぼりを食ったような感覚に陥る。
何かがおかしい――だが、それが何なのか、まだ確信が持てない。
「軍師である俺のサポートをしてもらうため、軍師補佐としてこの国に迎え入れていただけませんか?」
ルイセの戸惑いにもかかわらず、話はどんどん進んでいく。
(この男、やはりこの国に仕えていたのですね。しかも、宮廷魔導士ではなく軍師とは……。いや、それよりも、一体どんな人物を迎えるつもりなのか知りませんが、素性も知れぬ相手を、身辺調査もなしに王女が簡単に軍師補佐に任命するなんて、そんなことが……)
「わかりました。待遇に関しては、キッド様に準じる形にさせていただきますね」
「ありがとうございます!」
(ちょっと待ってください! 私に関係のない話とはいえ、国にとって重要な人事を、そんな簡単に決めてしまっていいんですか!? 食堂のウェイトレスを採用する時でさえ、もっと慎重に選考していましたよ!?)
内心の驚きを抑えつつ、ルイセはキッドと王女を交互に見つめる。しかし、二人の表情は真剣そのもので、冗談を言っているようには見えない。
だが、所詮これは国の上層部の話。自分には関係のないことだ。好きにすればいい――彼女がそう思いかけた、そのとき。
「というわけで、よろしく頼むな、ルイセ」
不意に横を向いたキッドが、がっしりとルイセの肩に手を置いた。
「……へ?」
自分でも驚くほど間の抜けた声がルイセの口から漏れる。
「あ、ルルー王女、まだ名前をお伝えしていませんでしたね。彼女が新たな軍師補佐ルイセです。頼りになりますよ」
「キッド様がそうおっしゃるのなら、疑う余地はありません。とてもお綺麗なのと、服装が独特でしたので少し驚きましたが……ルイセさん、どうか我が国のためにお力をお貸しください」
ルルーは、ウェイトレス姿のルイセに深く頭を下げた。
(なんですかこれは!? 一国の王女が暗殺者の私に頭を下げている!? 私は一体、どういう状況におかれているんですか!?)
理解が追いつかず、ルイセは助けを求めるようにキッドを見つめた。
「すみません。状況がよく呑み込めていないのですが……。私はてっきり
「ん?
「……はぁ!? 軍師補佐!? 私がですか!? あなた、わかっているんですか!? 私は暗さ――」
言いかけたその瞬間、キッドの人差し指がルイセの唇に触れ、彼女の言葉を遮った。
「お前はルイセだろ? 剣も魔法も使えるウェイトレス。もっとも、今日からはこの国の軍師補佐だけどな」
「……本気で言っているんですか?」
ルイセは目を細め、鋭い視線をキッドに向けた。それは、かつての暗殺者を彷彿とさせる冷酷な視線だった。しかし、キッドは動じるどころか、むしろ愉快そうに笑っている。
「何を言ってるんだ? お前がウェイトレスをしているほうが余程冗談みたいな話だぞ」
ルイセはため息を吐く。
目の前の男が、本気なのか、それともただの気まぐれなのか、それはわからない。ただ、彼女は覚悟を決めた。
(いいでしょう。私の素顔をバラさなかった借りがあります。あなたのために働いてあげましょう。……ですが、その分だけです。それが終われば、あなたの前から去るだけです。私は暗殺者。影のように闇に潜み、風のように誰にも縛られない――シャドウウィンドなのですから)
ルイセは顔を上げ、小さくうなずく。
「……わかりました。その
彼女の答えに、キッドは嬉しそうな顔で、ルイセの細くて固い手を握りしめる。
「よし! 言質はとったからな! よろしく頼むぜ!」
しばしの面倒ごと――ルイセはそう自分を納得させる。
ただ、手から伝わるキッドの温かさは、意外と心地よかった。
「あ、そうだ。ルルー王女、街の食堂から無理やりヘッドハンティングしてきたので、代わりのウェイトレスをなんとか手配してもらえませんか?」
「ウェイトレスですか? できるだけはやってみますが……剣と魔法を使えるようなウェイトレスが見つかるかどうか……」
ルルー王女は冗談か本気かわからない様子で、眉をひそめた。
「そんなウェイトレスはいないですって! あ、いや、いましたけど、……とにかく、普通に給仕ができる人でいいですから!」
「ああ、よかった! それならなんとかなると思います」
快諾するルルーを、ルイセは改めて見つめた。この王女は、ただ抜けているだけなのか、それとも思いのほか懐が深いのか――どうにも掴みどころがない。
だが、ふと彼女が微笑むのを見た瞬間、不思議と胸の奥が温まるような感覚がした。
(……嫌いにはなれない人ですね。この男への借りもありますし、この王女様に力を貸すのも悪くないかもしれません)
こうして、元暗殺者は、紺の王国の軍師補佐として、新たな道を歩み始めることとなった。