キッドの指示により、紺の王国軍は紫の王国の侵攻を予期し、早くから備えを進めていた。そのため、出兵準備は驚くほど迅速に整った。
兵たちは瞬く間に戦支度を整え、わずか数時間で、軍勢は出陣の態勢を整えていた。
キッドはミュウに補給に関するレクチャーを終えると自室に戻り、軍服の上に軽めのボディアーマーを身につける。
霊子魔法は、マナ魔法のように呪文や特定の動作を必要とせず、魔導士であっても騎士のような重武装をすることも可能だった。しかし、キッドは自軍の魔導士たちにも自分と同様軽装を指示していた。
キッドが自室を出ると、廊下の向こうでルイセが待っていた。
「キッド君、魔導士隊も騎士団も準備完了です。すでに広場に整列しています」
報告するルイセも、キッドと同じく軍服の上にボディアーマーを装備していた。腰には二本の双剣が下げられている。独特の形状の白と黒の剣――その剣に、キッドは見覚えがあった。
シャドウウィンド。かつて命の危機を感じる死闘を演じた相手が振るっていた、忌まわしくありつつも、その強さには絶対の信頼を置ける剣。その剣を選んだということは、ルイセが今回の戦いに並々ならぬ覚悟を持って挑んでいる証拠だった。
「報告、ありがとう。……魔導士隊はルイセに率いてもらう。頼んだぞ」
「ええ、わかってますよ」
ルイセの返答には、確かな自信と責任感が滲んでいた。キッドは頷き、二人は広場へと歩を進める。
廊下を抜けた先で、ミュウが待っていた。
彼女は戦場には出ないため武装こそしていないが、いつまでも外交用の服を着ているわけにもいかず、今は紺の王国の軍服を借りて身につけている。
「それじゃあ、ミュウ、ちょっと行ってくるよ。あとはよろしくな」
軽く手を挙げる仕草とともに、キッドはまるで散歩に出るかのような軽い口調で言った。しかし、それが彼らの間では最も自然なやり取りだった。言葉に余計な感傷を込める必要はない。お互いの信頼が、それを補って余りあるからだ。
「補給に関しては任されてあげるから、思いっきりやってきてよね」
ミュウもまた、悲壮感を漂わせることなく、いつも通りの笑みを浮かべる。
だが、次の瞬間、その笑顔はほんのわずかに陰る。
ミュウの視線がキッドの隣のルイセに移った。これまで何度か顔を合わせたことはあったが、それぞれ指導する相手が違うため、互いにまともな会話を交わす機会はほとんどなかった。
「ルイセさん、だったよね。キッドのこと、よろしくお願いするね」
ミュウの言葉は柔らかいが、その瞳の奥には強い意志が宿っていた。
「はい。この身に代えても」
ルイセが真っすぐに応える。その覚悟に、ミュウは微かに目を細めた。
「……おおげさね」
微笑みを浮かべながら、ミュウはふと視線を落とす。そして、腰に提げられた二振りの双剣に目を留めた。
「あれ? その双剣って……」
ミュウは再び視線を上げ、まじまじとルイセの顔を見つめる。
「――――!! その顔、そしてその双剣! あなた、シャドウウィンド!」
今まで、ルイセの顔を見ていながら、気づいていなかったのに、かつてキッドと共に相対した暗殺者の武器を見て思い出すあたりが、ミュウらしかった。
「……なんのことですか? 私はただのルイセですが?」
「あなた、そんなことでごまかせると思ってるの!? その剣、実際に戦った私が忘れるわけないじゃない!」
ルイセは顔色一つ変えず、とぼけて見せるが、さすがに無理があった。
ミュウはキッと睨むような視線をキッドに向ける。
「キッド、どうしてシャドウウィンドがこんなところで、軍師補佐なんてやってるのよ!」
「それがまぁ……食堂でウェイトレスしているところをたまたま見つけてスカウトしたんだ」
「そんなわけないでしょ! 私にも正直に話す気はないってこと?」
眉を吊り上げたミュウの顔がキッドに迫るが、何一つ嘘を言っていないだけに、キッドは心底心外だと言いたげな顔を浮かべる。
「本当なんだけど……。でも、少なくとも腕は確かだぞ」
「腕が確かなのは、私もイヤというほど知ってるわよ。……まぁ、誰かを狙ってるわけじゃないみたいだし、これから戦争なんだから、いまさらここでどうこう言うつもりはないけど……」
そうやって割り切ってくれるミュウのことを、キッドは本当にありがたく、そして良いパートナーだと思う。
一方、ミュウの方は再びルイセへと顔を向けた。
「ルイセさん、あなたとはほとんど話もしていないから、あなたがどういう人なのか、そして、信じられる人なのか、私はまだよくわからない。でも、あなたの腕が信用に足るものだってことは、私自身が一番わかってる」
そう言うと、ミュウは深々と頭を下げた。
「……キッドのこと、よろしくお願いします」
誇り高き騎士が、かつて命のやりとりをしたこともある暗殺者に向かって見せた真摯な態度に、ルイセは思わず息を呑む。
「……私もまだあなたのことをよく知りません。……ですが、これだけはもう一度言っておきます。キッド君はこの身に代えても守ります。それだけは約束します」
静かだが、確かな想いのこもったルイセの言葉に、ミュウはゆっくりと顔を上げた。そして、迷いなく右手を差し出す。ルイセも一瞬の逡巡もなく、その手を取った。二人の手が固く結ばれる。
言葉はもう必要なかった。ただ、この一握りに込められた想いだけで十分だった。
やがて、どちらからともなく手を離す。
「じゃあ、私はキッドの執務室に戻るね。……あの部屋、キッドがいない間、使わせてもらっていいんだよね?」
「もちろん。補給に関しては任せた。城に残る者にも、ミュウの指示に従うように言い含めたから、好きに使ってくれ」
「そうさせてもらうね」
ミュウは軽く手を振りながら、軍師用執務室へと歩いていった。
「ルイセ、すまないが、兵達のいる広場には先に行っててくれるか?」
「ええ、わかりました」
ルイセはうなずくと、踵を返し、足早に王宮内の広場へと向かった。
キッドは彼女の背中を見送ると、小さく息を吐き、つぶやく。
「さてと、ルルー王女に挨拶してくるとするか……」
戦場に出る以上、負けるつもりはない。だが、戦いとは常に想定外の出来事がつきまとうものだ。最悪のケースはいくらでも想定できる。そんな時、緑の公国の人間とはいえ、この城にミュウがいてくれるのは心強かった。彼女なら、どんな状況になろうと、ルルー王女の身を守って逃げ延びてくれると信じられる。
ルルーと交わす挨拶を、最後の挨拶にするつもりはない。それでも、しばしの別れとなることだけは間違いなかった。
キッドは感慨を胸に、王の間へと向かった――しかし、そこはもぬけの殻だった。
「あれ? 兵たちを見送るために広場に向かったのかな?」
ひとまず、これ以上探すのはやめて、キッドは兵たちの待つ広場へ向かうことにした。
広場へと続く王城内の通路に足を踏み入れたキッドは、周囲を見回したが、やはりルルーの姿はなかった。
「我が姫様は、一体どこへ行かれたのやら……」
軽く肩をすくめながら、通路の陰から広場の様子を覗き見る。
そこにはすでに武装を整えた騎士や魔導士たちが集結していた。
魔導士たちの先頭にはルイセの姿が見える。彼女を除けば、この国の兵たちにとって、本格的な戦闘はこれが初めての経験だ。短期間ではあったが実のある訓練を経て、彼らの技量は確実に向上している。それは彼ら自身も実感しているはずだった。しかし、それでも――いや、それだからこそ、彼らの顔には、緊張の色が濃く滲んでいた。
「無理もないか……」
キッドは小さく息を吐く。
戦いが始まってしまえば、緊張している余裕などなくなるだろう。だが、その前に命を落としてしまうことも、戦場では珍しくない。緊張は冷静な判断力を奪い、訓練で培った動きすら鈍らせる。結果、本来の力を発揮することもできず、戦場の露と消えた兵士の例など、歴史の中では枚挙にいとまがない。
このままでは、戦場に立つ前に彼らは自らを縛りつけてしまう。敵と相対するまでに、どれだけ彼らの緊張をほぐせるか――それが、今のキッドにとって最優先の課題だった。
「……なんとかするしかないよな」
自らに言い聞かせ、兵たちのもとへ向かおうとしたそのとき、不意に背中から声がかかった。
「キッド様!」
鈴を転がすような、澄んだ響き。それは間違いなくルルー王女の声だった。もはや聞き馴染みのある声なのに、不思議と聞くたびに心を落ち着かせてくれる気がする。
ようやく、別れの挨拶ができる。そう思いながら振り返ったキッドは、次の瞬間、思わず目を見開いた。
「……ルルー王女、その格好は……何ですか?」
「似合いませんか?」
彼女は紺の王国を象徴する色である紺色に縁取られた、白く輝く鎧をまとっていた。光を受けて柔らかく輝くようなその装いは、威厳と気品を兼ね備え、まるで神話の女神が現れたかのようだった。
かつて戦場で目にしたミュウの鎧姿は、戦乙女のように凛々しかった。しかし、目の前のルルーからはまったく異なる印象を受ける。彼女は戦士ではなく、民を導く聖女のようだった。
だが、似合っているかどうかは問題ではない。
キッドは思わずこめかみに指を当て、軽く押さえた。
王女は城で待機して、勝利の報告を待ってくれていればいい。こんな武装をする必要など全くないのだ。
「……似合ってます。……似合ってますが、どうしてそのような格好を?」
「これから戦場に赴くのですから、鎧を着るのは当然かと思いますが?」
「…………」
「…………?」
困惑するキッドを前に、ルルーは微笑みながら小首を傾げた。
「……今、戦場に赴くと聞こえたような気がするのですが?」
「はい、そう言いましたよ」
「……誰が、戦場に行くのですか?」
「もちろん、私が、ですよ」
キッドは思わず言葉を失った。
王が戦場に出るなど、通常では考えられない。だが、そういった例がまったくないわけではない。緑の公国の公王ジャンであれば、王になっても迷いなく戦場に立つだろう。白の聖王国の聖王もまた、自ら剣を取り前線に出ると聞く。
しかし、ルルーは剣も魔法も扱えない。王女であることを除けば、普通の少女でしかない。そんな彼女が戦場に赴くというのは、護衛の負担が増すだけでなく、戦況を混乱させる要因にすらなりかねなかった。
「……ルルー王女、俺たちは軍事演習にいくわけでも、ましてや遠足に行くわけでもありません。命のやりとりをする戦場に向かうんです。王女はこの城で吉報を待っていてください」
キッドの諭すような言葉に、ルルーは静かに目を閉じた。そして、数秒の後、再び目を開き、迷いのない瞳でまっすぐに彼を見つめる。
「キッド様、私は剣も魔法も使えません。戦場に立っても、戦力としては何の役にも立たないでしょう。ですが、私は王女です。兵たちが王女に向ける想いは、理解しているつもりです。その王女たる私が戦場に出れば、兵たちの士気は上がるでしょう。見てください。兵たちはこれから向かう命懸けの戦場を前に、緊張し、恐れを抱いています。ならば、この私を使ってください。戦力としては使えずとも、王女としてならば使い道があるでしょう」
「ルルー王女……」
キッドは先ほど、彼女のことを、「王女であることを除けば、普通の少女でしかない」と考えた自分を恥じた。違う。彼女は紛れもなく、王の資質を持った少女だった。もはや取り除けないほどに、その骨の髄まで王としての覚悟を宿しているのだ。
この人は止められない。いや、止めるべきではない。
キッドはそう悟った。
ならば、もう悩む必要はない。
「わかりました。共に参りましょう」
「はい」
キッドの言葉に、ルルーは力強くうなずいた。
その表情は、いつものあどけない少女のものに戻っていた。
キッドはルルーと共に通路を進み、整列する兵たちの前に姿を現す。
鎧をまとった王女の姿を認めた兵たちの間には、驚きとどよめきが広がった。彼らは、王女がこの戦いに同行するとは露ほども思っていない。
キッドは、整列する600人もの兵たちの前で立ち止まり、ゆっくりと皆の顔を見渡す。
ルルーの姿を見た驚きで、兵たちの緊張の色は、いくらか薄くなっているように見えた。だが、それは緊張の代わりに動揺の色が浮かんだだけだ。これでは意味がない。
キッドはそんな兵たちに向かい、軍を率いる軍師として、高らかに声を上げた。
「我が軍の勇者たち! これより、我々は戦場に向かう。いよいよ決戦の時だ。この戦いには、我々の国、我々の大切な人、そして我々の未来がかかっている! 勇者たちよ、敵は恐怖をもって我々を屈服させようとするだろう。しかし、我々は決して怯まない。剣を握る手に誇りを、胸に揺るがぬ信念を抱け! さすれば恐れるものは何もない! 今、ここで、皆に約束しよう! 世界に名を馳せた魔導士として、そして、紺の王国の軍師として、必ず皆を勝利に導くことを!」
『おおっ!』
キッドの声に呼応し、兵たちが一斉に声を上げた。
キッドは満足げにうなずくと、その勢いのまま、さらに続ける。
「そして、この戦い、我々には勝利の女神がついている! ルルー王女が、我らと共に戦場に向かってくださる!」
歓声と驚きが、兵たちの間に波のように広がる。
皆の注目を集める中、キッドの隣に立つ鎧姿のルルーが、一歩前へと進み出た。
「勇敢なる騎士たち、誇り高き魔導士たちよ!」
彼女の透き通った声が、兵たちの心に染み渡る。
「私自身は、戦場では力のないただの王女かもしれません。ですが、皆さんと共に歩み、共に戦場に立つことを決意しました。皆さんにだけ命を懸けさせはしません。この身も皆さんと運命を共にする覚悟です。我が騎士たちよ、我が魔導士たちよ、私たちは、もはや運命共同体です。紺の王国の未来のため、共に戦い、共に勝利を掴もうではありませんか!」
その姿は年端もいかない少女には見えなかった。
兵たちの目には、己の命を預けても悔いはないと信じられる、真の王の姿が映っていた。
『おおおおっ!』
雷鳴のごとき歓声が響き渡る。兵たちの顔に、緊張の色も動揺の色も、もはやどこにもなかった。
戦場に向かう上でのキッドの懸念は、これでなくなった。
(俺が何かするまでもなかったな。まさか俺の不安をルルーがすべて払拭してくれるとは……。あなたに仕えることになったことを、誇りに思いますよ。……必ずあなたを勝たせてみせます)
キッドは改めて、胸の中でルルーのために勝利を誓った。
そして、歩兵450人、騎兵100人、魔導士50人――計600人の紺の王国の軍が、轟く士気をそのままに、戦場へと進軍していった。