補給を終え、捕虜や負傷者のことを補給部隊に任せた紺の王国軍は、再び進軍を開始した。国境を越えて、紫の王国の領内を踏みしめる。
道中、敵軍が態勢を立て直し、再び交戦してくる可能性は十分にあった。しかし、迎え撃つ気配はなく、紺の王国軍は順調に敵国内を進んでいく。
いくつかの野営を挟み、紺の王国軍はついに王都の目前へと迫っていた。最初の戦闘で撤退した紫の王国兵たちは、すでに王都に集結しているはずだ。多くの魔導士を捕虜にしたとはいえ、残された兵と王城に潜む戦力が合わされば、容易には制圧できない規模の軍勢となるだろう。
王都目前、最後の休息となるであろう夜。かがり火が静かに揺れ、夜風が野営地を吹き抜ける。
キッドは一人、ルルーのもとへと向かった。最終決戦の前に、彼女にどうしても確認しなければならないことがあった。
「ルルー王女、よろしいですか」
草むらに腰を下ろし、水を口に含んでいたルルーが、ゆっくりと顔を上げた。
「はい、もちろんです」
慣れない行軍で疲労は溜まっているはずなのに、彼女はそんな素振りを一切見せず、いつものように微笑む。その笑顔は、キッドが何度も見てきたものだ。彼が話しかけた時、彼女はいつも、つられて顔がほころぶような、優しい笑みを見せてくれる。なかなかできることではない。
そう思いながら、キッドは彼女の前に跪こうとした。だが、その前に、ルルーは草の上をポンポンと叩く。明らかに「ここに座れ」という意思表示だった。
少し気恥ずかしさを感じながらも、キッドは彼女の隣に腰を下ろした。
「何か大事なお話ですね?」
彼の心中を見透かしたかのように、ルルーは柔らかく問いかける。
気づかれていたことに、キッドは小さく息をついた。
「ええ。これからの方針についてです。俺たちには、二つの道があります」
「二つの道ですか?」
「はい。一つは、このまま敵の残存兵力と戦い、紫の王国を領土とする道です。相手が王都を出て決戦に挑んでくるのか、街や城への被害を覚悟の上で籠城戦を選んでくるのかはわかりませんが、いずれにしろ被害は避けられません。味方にも、そして敵にも。しかし、その代わり、勝利の後には、紫の王国の王族を排除し、我が国から信頼できる者を派遣してこの地を統治することができます」
キッドの言葉を聞きながら、ルルーは黙ってうなずく。その眼差しには、王族としての覚悟が滲んでいた。
「もう一つは、戦わず、交渉によって戦いを終える道です。彼らはすでに虎の子の魔導士隊を破られたことで、勝機が薄いことを自覚しているでしょう。かの国のベリル王は、賢明な王と聞き及んでいます。民や兵の無用な損害は、彼も望んでいないでしょう」
「ええ。私も二度ほど、ベリル王とはお会いしたことがあります。民の不幸を嘆き、民の幸福を自らのことのように喜ぶ――そういう王だと感じました」
「そうですか……。ルルー王女がそうおっしゃるのなら、きっと噂通りの人物なのでしょうね」
ルルーの見る目は信用ができる。自分を選んでくれたからという単純な理由ではない。彼女の目に見つめられると、不思議と、心の奥深くまで見透かされているような気がするのだ。自分には見えないところまで、きっと彼女には見えている――そう確信めいた思いが胸に宿る。
「そんな王であるのなら、紫の王国側に実利を残せば、交渉により、戦わずして戦いを終えることも可能となります。……ですが、問題はベリル王の力をどこまで残すことを約束するかです。たとえば爵位を与え、紺の王国の貴族として迎えたとしても、王都を離れさせれば、王も紫の王国民も納得しないでしょう。とはいえ、王都に残せば、力を蓄え、いずれ我々に牙を向けてくるかもしれません」
それが、キッドにとって悩みどころだった。
戦えば勝つのは紺の王国だという自負はある。しかし、そこで両国が戦力を削ってしまうと、喜ぶのは黒の帝国だ。失った兵力を立て直し、再編するには時間がかかる。その隙を黒の帝国に突かれれば、防ぎきるのは難しくなる。
そのため、キッドにとって最善の策は、紫の王国を戦わずに降伏させることだった。しかし、相手が納得する落としどころをどこに設定するのかが難しい。下手にベリル王の力を残しすぎれば、ルルー王女の立場が危うくなる。それがキッドにとって最も憂慮すべき問題だった。
「でしたら、ベリル王には侯爵としての地位を与え、紫の王国の統治を継続してもらいましょう。それなら、紫の王国の兵や民からも不満は出ないでしょう。領地収入の一定割合をこちらに納めてもらえば、私たちにも利があります」
「な……」
さすがのキッドも、その提案には言葉を失った。
それは彼が想定していた中でも最大級の譲歩案だった。この条件なら、ベリル王を説得できる可能性は極めて高い。
だが、それは同時に、危険な賭けでもあった。ベリル王に統治権を残せば、最低限の武力保持を認めざるを得ない。いずれ彼が戦力を整え、反乱を起こすようなことがあれば、黒の帝国を相手にするどころではなくなる。それどころか、彼が黒の帝国と結託すれば、紺の王国の崩壊は避けられない。
「……ルルー王女、しかし、それでは万が一、ベリル王が反旗を翻した場合、抑え切れなくなります」
「構いません。その時は、私がその程度の器だったということです。たとえそうなったとしても、キッド様に責任はありません。すべて私の責任です」
ルルーの少し赤みがかった瞳は、揺るぎない覚悟を湛えていた。
キッドは彼女の瞳を見つめ、言葉を飲み込む。
この主の決断を覆すことは、もはやできない。
「……わかりました。その条件で、交渉にあたります」
「はい、よろしくお願いしますね」
こうして紺の王国の進む道が決まった。
キッドとしては、ルルーの望むように取り計らい、その上で誰も彼女に反旗を翻すことがないよう、自らのすべてを尽くす。それが彼の決意だった。
休息を終えた紺の王国軍がさらに進軍し、王都の目前まで迫った。それでもなお、紫の王国軍は打って出てこなかった。
籠城の構え――それは、王都に被害を出してまで戦う意志があるという証だ。しかし、裏を返せば、敗戦の報告を受け、冷静に戦力分析した結果、野戦では勝機がないと判断したということでもある。
キッドは、彼らには条件次第で降伏勧告を受け入れる余地が十分にあると見た。
だが、問題は誰が使者としてベリル王の元へ向かうかだった。
これからの両国の運命を決める交渉となる。誰でもいいというわけではない。周りすべて敵という状況で、ルルー王女の真意を理解した上で正確に伝え、対等なレベルで交渉できる人間でなければならない。
陣営の奥に張られた天幕の中、ルルー、キッド、ルイセの三人が向かい合い、この問題について話し合っていた。
「私が直接交渉に向かいます」
静寂を破ったのはルルーだった。その真剣な眼差しに、キッドはすぐさま顔をしかめる。
「ルルー王女、さすがにそれは無謀です!」
強く言い切るキッドの声には、焦燥が滲んでいた。
「万が一、あなたが人質に取られれば、形勢が逆転しかねません。それは王女ご自身も理解しているはずです」
ルルーは唇を噛みしめ、視線を落とした。思いが溢れるあまり、つい口にしてしまったが、キッドの言う通り、王女自らが敵陣へ赴く危険はあまりにも大きすぎる。
「……ですが、交渉が失敗すれば、王都は戦場になります。私はそれだけは避けたい。ベリル王を説得するには、私の思いをありのまま伝えないと……」
「ならば、俺が行きます!」
キッドは即座に言い放った。
「待ってください!」
今度はルルーが慌てたように制する。
「俺ではルルー王女の思いを伝えられないとお考えですか?」
「そうではありません!」
否定する声には、強い感情が込められていた。
ルルーにとって、キッド以上に自身の意を正しく伝えられる者はいない。彼なら、自分以上に自分を理解してくれているとさえ信じられる。
だが、ルルーの胸を締め付ける不安は、そこではなかった。
「キッド様に何かあったら……私は……」
震える声が、彼女の本心をあらわにする。
それは王女としての理よりも、一人の人間としての想いだった。
「俺なら大丈夫です。魔導士としての俺の力は知っているでしょう? それでも、俺の力では不安ですか?」
「……そんなことはありません。ですが……」
キッドの実力を疑っているわけではない。ルルーは彼を、最高の魔導士だとすら思っている。しかし、これは単なる戦力の話ではなかった。信じることと、心配することは決して相反しない。同時に成立しうる想いなのだ。
ルルーは視線を落としたまま、言葉を紡げずにいた。
そんな彼女の様子を見て、キッドが困ったように眉をひそめる。
その時、黙って二人のやり取りを見守っていたルイセが、静かに口を開いた。
「……ルルー王女。ならば、私が護衛としてキッド君に同行します」
「ルイセさん……」
「何かあっても、私が必ずキッド君を王都から逃がしてみせます」
ルルーはゆっくりと顔を上げた。その瞳が、ルイセの視線を真っすぐに捉える。
彼女が伝説級の暗殺者「シャドウウィンド」であることを、ルルーは知らない。
ルイセの戦いぶりを目にしたのは、先日の戦闘の一度きり。それも遠目に見ただけで、彼女の実力を測れるほどの材料は持ち合わせていなかった。
それでも、ルルーはルイセを信じた。彼女の漆黒の瞳の奥に宿る、静かだが燃えるような決意を見たからだ。
「……わかりました。キッド様とルイセさんにお任せします。……その代わり、二人とも無事に戻ってきてください。それが条件です」
「わかりました。必ず交渉を成功させてきます」
「……キッド君のことは、任せてください」
固い誓いを交わし、二人は降伏勧告の使者として立つことを決めた。
キッドとルイセは、それぞれの支度のため、天幕を後にした。
「助かったよ。ルイセが嘘でも俺を脱出させると言ってくれたから、ルルー王女も納得してくれたんだろう。俺は、魔法はともかく、腕っぷしの方はてんでダメだからな」
キッドは軽い調子で言いながら肩をすくめた。
だが、返事がないことに気づいてふと隣を見やると、ルイセの姿がなかった。
彼女は立ち止まり、じっとキッドを見つめていた。
「……どうした?」
「嘘ではありません」
その言葉は、鋼のように揺るぎなかった。
キッドは一瞬、何の話かわからなかったが、すぐに先ほどの自分の言葉を思い出す。「嘘でも俺を脱出させる」――そう口にしたのは自分だった。
「いや、でも、敵の城の中には、数百人の兵士がいるんだぞ。その中をたった二人で……」
ルイセの瞳は微動だにせず、ただ静かに、しかし確固たる決意を帯びてキッドを見つめていた。
(……まさか、本当にそんなことができるのか? いや、でもルイセなら……)
一瞬、ありえないはずの光景が脳裏をよぎる。取り囲む敵兵の中、触れさせもせずに敵を斬り伏せていくルイセの姿。その幻想が、決して絵空事ではない気がしてきた。
「まぁ、無事に戻ってこられるようにうまく話をまとめるさ。けど、万が一そうなったときは、よろしく頼むよ」
「はい」
ルイセは短く答えた。
(私はともかく、あなただけは逃がしてみせます。……絶対に)
ルイセの胸に宿る覚悟にも気づかぬまま、キッドは彼女と別れ、それぞれの準備へと向かった。
そして数刻の後、支度を整えた二人は、一切の武器を持たぬまま、使者として紫の王国の王都へと歩を進めた。