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第14話 紫の王国のベリル王

 キッドとルイセは、使者の証を掲げながら紫の王国の王都へと足を踏み入れた。街を行く人々の視線が彼らに注がれる中、厳めしい兵士たちに囲まれ、王城へと案内される。

 堂々たる城門をくぐり、広大な城内を進むにつれ、周囲の空気が次第に張り詰めていくのを感じた。そして、やがてたどり着いたのは、紫の王国の王――ベリルが鎮座する謁見の間。

 威厳に満ちた大広間には、王を守るべく兵士たちが隙なく配置されていた。彼らはただの飾りではない。王の命一つで、即座に剣を抜き、侵入者に襲い掛かる準備ができている。

 それでも、キッドは不思議と焦りを感じなかった。彼の背後にはルイセがいる。その存在が、百人の兵に守られているかのような安心感を彼にもたらしていた。


(これは、あの時と同じ感覚だ)


 戦場でミュウと背中を預け合い、幾度もの修羅場を乗り越えてきたあの日々。その時に感じた確かな信頼と、ルイセに対する感覚はどこか似ている。彼女とはまだ長い時を過ごしたわけではない。それでも、キッドの中にはすでに確固たる信頼が芽生えていた。彼はその事実に驚きを覚えながら、大きく息を吐き、王座の主へと視線を向けた。


 ――ベリル王。


 四十代後半と思しき堂々たる風貌。整った鼻筋と力強い顎のラインは、王としての威厳を際立たせている。銀色の髪は光を受けて輝き、知性を湛えた深い瞳がキッドを射抜いた。王としての貫禄を纏うその姿は、とても敗色の色が濃い国の王とは思えない。


「そなたが緑の公国の三英雄の一人、キッド殿か」


 ベリル王が低く、しかしよく通る声で言った。


「噂には聞いている。このようなことになるのなら、紺の王国に取られる前に、我が国に誘っておくべきだったな」


 冗談とも本気ともつかない言葉。しかし、キッドは素直に光栄に思い、恭しく頭を下げた。後ろのルイセも、それに倣う。


「高名なベリル王の拝謁を賜り、感謝申し上げます」

「この状況で余計な話は不要だ。紺の王国の使者としての話、早速聞かせてもらおう」


 ベリル王の眼差しは鋭く、揺るぎない。お世辞や取り繕った言葉が通じる相手ではないことは、一目でわかった。

 キッドは迷わず本題に入る。


「我が王女は、これ以上両国の兵が傷つくことを望んでおりません。それで喜ぶのは黒の帝国だけです。それはベリル王にも、すでにおわかりのことでしょう。今回、紫の王国が兵を挙げたのは、黒の帝国から自国民を守るために、国土拡大の必要があるとお考えになってのことでしょう。しかしながら、このまま両国が疲弊するほどに争えば、黒の帝国に付け入る隙を与え、王のご意志とは裏腹に自国民をさらなる危機へと追いやることになります」


 言葉を切り、ベリル王の反応を窺う。


「……それは、その通りだろう。では、貴国は我が国に何を求める?」


 王の声には、わずかに興味が滲んでいた。


「はい。我が国は、これ以上の無益な争いを避けるため、ベリル王に潔い降伏を求めに参りました」


 瞬間、広間に緊張が走った。兵たちが一斉にどよめき、一部は怒りに満ちた声を上げる。


「我らが負けるはずがない!」

「この戦いはまだ終わっていない!」


 しかし、当のベリルは、キッドの降伏勧告を予期していたのだろう。顔色一つ変えず、兵たちに静まるよう手で示した。

 ――その動作一つで、騒ぎはぴたりと静まる。

 見事な統率。兵たちは王の命を絶対とし、心から従っていることが明らかだった。


「戦わずして負けを認めろとは、実に都合のよい話だ」


 王はゆっくりとキッドを見据える。


「それを言うからには、我が兵や民が納得するだけの材料を持ってきているのだろうな?」


 王の問いに、キッドはうなずいた。


「はい。降伏を受け入れていただければ、この地は紺の王国の領土となりますが、ベリル王を我が国の侯爵として迎え、領主としてこの地を治めていただきます。軍は、紺の王国の国軍として我らの指揮下に置くことになりますが、治安維持に必要なだけの兵を持つことも認めます。外敵に対しては我らが対処しますので、ベリル王には、この地の発展に力を尽くしていただき、領内で得た収益の一部を負担金という形で、防衛にかかる費用として王家に納めていただければ結構です」


 先ほど抗議の声を上げていた兵たちが、今度は驚きのどよめきを漏らした。

 キッドの伝えた内容は、実質、今のベリル王の統治が続くのと変わらない。侵攻しておいて逆に負けた側としては、破格の待遇だと言えた。

 キッドは彼らが戸惑いながらも、この提案が意味するものを理解し始めたのを見届けると、さらに続けた。


「黒の帝国は、元来の民を『一等市民』、服従を選んだ国の民を『二等市民』、征服した国の民を『三等市民』として扱っています。そして、その差別を固定化することで支配地を拡大しているのです。紫の王国も、我が紺の王国も、このまま消耗し続ければ、やがて黒の帝国の支配下に落ちるのは明白でしょう。その時、我らは決して一等市民たる帝国民と同等に扱われることはありません。この国の文化や誇り、そして何より民の幸せを守るためには、我々と共に黒の帝国に抗う以外に道はないと、愚考いたします。……ベリル王、どうかご決断を!」


 場内に沈黙が落ちた。

 ベリル王は王座の上で静かに瞑目し、深く思案する。

 その姿を見ながら、キッドは思った。

 ――王として生き、国のために身を捧げてきた男が、今何を思うのか。

 その重さを、自分がすべて理解できるとは思えない。

 それでも、ただひたすらに決断を待った。


 やがて、ベリル王がゆっくりと目を開く。

 その鋭い瞳が、まっすぐにキッドを射抜いた。


「……それは、キッド殿が王女に進言してのことか?」

「いえ。ルルー王女自身のお考えです」


 ベリルはわずかに目を細め、静かに笑った。


「……甘いことだ。このベリル、一度は軍門に下ったとしても、野心は捨てんぞ?」


 その声に宿るのは、決して老いた者の諦観ではない。

 むしろ、戦乱の中で生き抜いてきた王者の覚悟だった。

 それでも、キッドは臆さない。


「ルルー王女は、それを承知の上で、あなたにこの地を託すと決断されました」

「そんな危険を抱えたまま、これからの戦乱を勝ち抜けると、キッド殿はお考えか?」

「そのために、俺がいます」


 キッドの声に、一瞬、場の空気が変わった。

 静かに、しかし確かに響く言葉だった。

 ベリルの眼光が、再び鋭さを増す。

 まるで相手の魂を覗き込むかのような眼差し――戦場を生き抜いてきた将ではなく、政争の中で数多の策謀を見極め、王座を守り抜いてきた者の瞳だった。

 だが、キッドもまた一歩も退かず、その視線を真正面から受け止める。

 彼は信じていた――自らの意志を、ルルー王女の選択を。


 張り詰めた空気の中、やがてベリルがふと目を閉じ、ゆっくりと開く。

 そこにあったのは、先ほどの圧力とは違う、静かで深遠な瞳だった。


「……よかろう。我らは、紫の王国の名を捨て、紺の王国の傘下に入ろう」


 王の言葉に、場内の兵たちは息を呑む。

 複雑な想いを抱えながらも、誰一人として王の決断に異を唱える者はいなかった。

 キッドは、ベリル王の決断に深く礼をする。


「……ありがとうございます」


 その言葉には、ただの礼ではなく、これから共に戦う者としての誓いが込められていた。


「……それにしても、ルルー王女は恐ろしい者を配下にしたものだ」


 キッドは意外そうに顔を上げる。


「恐ろしい者? ……俺のことですか?」

「そなたもだが、それ以上にその後ろの者だ」


 王の視線の先にいるのは、いつものように感情の見えない表情のルイセだった。今も、何もなかったかのように無機質な顔をしている。


「下手なことをしようものなら、即座にここまで駆け寄り、儂を人質に取るつもりでおったな。……武器も持たぬのに、首元に抜き身の剣を突き付けられているような気分だったぞ」


 キッドは言葉を失った。


(降伏勧告の交渉中に、そんなことをしていたのかよ……)


 呆れたようにルイセを見やるが、彼女は肩をすくめるだけで、何の弁解もしない。

 実際、キッドだけでなく、周りの兵士たちは誰一人として気づいていなかった。この場にいた誰もが、その「気配」を感じ取ることができなかった。唯一、標的にされたベリル王を除いて。


「うまくいってよかったですね」


 ルイセは、まるで世間話でもするかのように言った。


「……あまり無茶はしてくれるなよ」


 キッドはため息混じりに応じる。

 ベリル王までの距離は、およそ十メートル。それほどの間合いを、彼女なら瞬く間に詰められただろう。万が一、王が違う言葉を口にしていたらどうなっていたか……考えるだけで背筋が冷える。

 とはいえ、ルルーとの約束を果たすため、彼女なりにできることをしようとしていたのだと思うと、彼女を責める気にはなれない。むしろ、浮かんでくるのは感謝の念だけだった。


「無茶はしていません。……私は自分のすべきことをするだけです」


 いつも変わらぬ物言い、キッドの顔が思わずほころぶ。彼女がそばにいてくれる、その心強さを改めて感じた。


「ともかく、ありがとうな」


 短く、それでも真摯な言葉を送る。ルイセは何も言わなかったが、わずかに微笑んだ。


 こうして、両国の争いは終結した。紺の王国は、ほとんど損害を出すことなく紫の王国を併合し、国土を倍にまで広げた。

 だが――真の戦いは、これから始まる。

 黒の帝国、その脅威は今も変わることなく迫っているのだから。



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