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第16話 緑の公国のジャン

 四人での話し合いから一週間の後、キッド、ルルー、ミュウの一行は、数人の兵を伴い、同盟協議のため緑の公国へと向かった。

 紺の王国と緑の公国を結ぶ最短の道は、黒の帝国内を通る街道だった。しかし、現在の黒の帝国との緊迫した状況を考えれば、その道を通るのはあまりにも危険だ。一行は遠回りにはなるが、他国を経由する安全ルートを選択した。

 道のりは長く、日数も余計にかかったが、そのおかげか、旅路において大きなトラブルはなかった。そしてようやく、一行は緑の公国の都へとたどり着いた。

 事前に使者を派遣していたこともあり、一行は王族の来訪に相応しい歓待を受け、その日はゆっくりと休むことができた。


 翌日、王城の謁見の間には、重厚な静寂が満ちていた。天井高くそびえる柱の間を陽光が斜めに差し込み、床に敷かれた深紅の絨毯を輝かせる。

 その先、王座に座すのは緑の公国の公王、ジャン。その前に立つのは、紺の王国を代表する王女、ルルー。

 ルルーの装いは、紺の王国の誇りを映す深い紺色のドレス。繊細な金糸の刺繍が縁取り、銀の装飾が光を反射して淡く煌めく。その肩からは、床に届くほどの長い紺色のマントが優雅に広がり、彼女の気高さを際立たせていた。普段の気さくな彼女の姿とは異なり、そこにいるのはまさしく王国の顔としてのルルーだった。

 一方のジャン公王は、公国の儀礼用の軍服を纏っている。白地に公国を象徴する緑の意匠が施され、肩章や金の装飾が格式を際立たせていた。そこにいるだけで、彼がこの国の統治者であることを誰もが理解するほどの威厳を示している。

 王女の随行者としてここまでともに旅してきたキッドとミュウも、それぞれの立場でこの場に臨んでいた。ミュウは公国の臣下として、緑の軍服を身に纏い、ジャン公王の側に静かに控えている。一方でキッドは、紺の王国の立場として、紺の軍服に身を包み、ルルーの後ろに立っていた。

 キッドは前方のジャン公王へと静かに視線を向ける。

 公国側には貴族らしい端正な顔立ちが並んでいるが、その中でも、ジャンの存在はひと際目を引いた。特徴的な深い赤髪はまるで燃え盛る炎のようで、赤みを帯びた瞳には熱い野心と揺るぎない自信が宿っている。しかし、キッドの記憶にあるジャンは、それだけではなかった。かつての彼の瞳には、情熱とともに、若者らしい無邪気さと純真さが滲んでいた。だが、今目の前にいる男の中には、その面影は見当たらない。

 再会の喜びよりも、王としての威厳を湛えたジャンの姿に、キッドはふと寂しさを覚えた。友の顔ではなく、ただの王の顔だけを向けられていることが、胸の奥でかすかな痛みとなる。


 それでも、交渉の場は淡々と進んでいった。

 同盟の詳細な条件はすでに書状にまとめ、事前に送ってある。今日の謁見は、形式的なものに過ぎない。この場の言葉が直接、同盟の成否を決めることはない。


「両国が協力し、強固な同盟を築くことで、黒の帝国の脅威を打ち破り、平和と繁栄をもたらす未来を共に築くことができると信じております。どうか、この提案を真摯にお受け取りいただき、ジャン公王には、新しい世界を作るための一歩を共に進んでいただきたく存じます」


 ルルーは凛とした態度で、堂々と紺の王国の意志を述べた。

 ジャン公王は若いが、ルルーはそれ以上に若い。しかし、この場に立つ彼女は、幼さを微塵も感じさせない。その姿は、普段のあどけない少女とはまるで別人のようだった。

 だがキッドは知っている。どちらも紛れもなく、ルルーという少女の真の姿なのだと。

 一方、ジャン公王はルルーの言葉を受け、沈黙する。

 静かな沈黙の中でも、その威厳は揺るがない。

 キッドは、この場でジャンから同盟を受諾する言葉が出ると考えていた。この同盟は緑の公国にとっても、黒の帝国に対抗する最善策。炎のような情熱と、氷のような冷静さを兼ね備えたジャンが、それを理解していないはずがない。

 だが、彼の口から出た言葉は、予想とは違っていた。


「ルルー王女の申し出、しかと承った。しかし、国を左右する重大な案件であるが故、返事は改めてさせていただく。それまでは、王女にはこの国でゆっくりお過ごしいただきたい。望みのものがあれば、何でも用意させる。側仕えの者に言ってくれ」

「わかりました。よいお返事を聞かせていただけると信じておりますので、それまではお言葉に甘えて、この地に滞在させていただきます」


 ルルーは優雅に一礼し、ジャンの前から下がる。

 キッドは、ジャン公王が即答するはずだと考えていた。それゆえ、この返答には驚きを隠せなかった。

 しかし、ルルーは微塵の動揺も見せない。毅然とした姿勢のまま、王の意向を受け入れた。――それでも一瞬だけ。振り向いたルルーがキッドに向けた視線。その奥に、わずかながら不安の色が揺れていた。

 キッドにできることは何もない。それでも、根拠のない安心を伝えるように、静かにうなずいてみせた。




 ルルーとジャンとの会見が終わった後、キッドは与えられた部屋で、一人思案にふけっていた。予想外の展開により、今後の情勢が読めなくなり、頭を悩ませていたのだ。

 机に肘をつき、無造作に髪をかき上げる。次に打つべき手を考えようとするが、焦燥ばかりが募り、考えがまとまらない。

 そんなとき、静寂を破るように扉が叩かれた。

 ルルーが話をしに来たのかもしれないと思い、キッドはすぐに立ち上がって扉を開けた。しかし、そこに立っていたのは、緑の公国の軍服に身を包んだミュウだった。

 外交用の白地に緑の意匠の軍服とは違う、黄色の衣装を凝らした深緑の軍服。同色のスカートに、濃緑色のタイツ――それが緑の公国の女性将校の制服だ。かつて幾度も目にしたはずのミュウの姿だったが、ここしばらくは紺の王国の軍服姿ばかりを見慣れていたせいか、キッドは不思議な違和感を覚えた。


(……ミュウには、紺の軍服のほうが似合っていたな)


 こんな状況にもかかわらず、ふとそんなことを思う。

 キッドの内心を知ってか知らずか、ミュウは敢えて感情を隠したような表情で口を開いた。


「キッド、今、いい?」

「どうした?」

「ジャンが呼んでるの」


 キッド、ミュウ、ジャン――かつて、この三人は冒険者として共に行動していた。

 もっとも、冒険者と言っても、秘境を探検したり、世界を揺るがす陰謀を打ち砕いたりしていたわけではない。そんなのは物語の中の話だ。実際には、各国を巡りながら、傭兵や便利屋のような仕事を請け負っていたにすぎない。それでも、三人で過ごす日々は、充実したものだった。

 その三人の中で、ジャンは緑の公国の貴族の家に生まれ、ジャン自身も貴族の身分を持っていた。だが、キッドとミュウはそうではない。何の地位もなく、ただ腕一本で身を立てていた。しかし、緑の公国内での冒険者としての働きが評価され、二人は爵位を与えられた。そして、ジャンが公王になるという野望を抱き始めると、二人は彼の志に賛同し、冒険者の道を捨て、国に仕えることを選んだ。

 だが、その立場が変わっても、少なくとも人目のない場所では、ミュウがジャンを「公王陛下」と呼ぶことはない。昔と変わらず、ただ「ジャン」と呼び捨てにする。

 その変わらぬ態度に、キッドはどこか安堵を覚えた。

 先ほどの会見で見た「公王」としてのジャンの姿が、あまりにも遠いものに感じられたからかもしれない。


「わかった」


 キッドは短く答え、ミュウと共に歩き出す。

 果たして、これから会うのは「公王」としてのジャンなのか。それとも、かつての「友」としてのジャンなのか。――そんなことを考えながら。




 キッドが案内されたのは、外交のための格式ばった応接室ではなく、ジャンの個人的な私室だった。

 部屋の前に立ち止まったミュウが、軽く扉をノックする。すぐに、入るように促すジャンの声が聞こえた。その声は、キッドの耳に今も残る戦友の声ではなく、謁見の間で聞いた王の声に聞こえた。

 キッドは無意識に息を詰める。たとえ旧友とはいえ、今や彼は国を治める王――その事実を改めて実感する。

 ミュウが先に部屋へと足を踏み入れる。キッドは一瞬の躊躇いの後、それに続いた。


「やっと帰ってきたか、キッド」


 部屋に入るなりかけられた声に、キッドは瞬時に視線を向けた。

 そこにいたのは、公王の威厳をまとった支配者ではなく、かつて共に旅をした戦友だった。

 ジャンは椅子にもたれかかり、懐かしげに微笑んでいる。少年のような輝きを宿した瞳。無邪気な親しみを含んだ声色。先ほどまでの冷ややかな公王としての顔は、どこにもなかった。

 キッドはふっと息をつく。彼の中に張り詰めていた緊張と不安が、潮を引くように消えていった。どれほど年月が経とうと、どれほど立場が変わろうと、この三人は変わらない――そう確信できた。


「ついに王になったんだな……おめでとう、ジャン」


 万感の想いを込め、キッドはその言葉を口にした。やっと言えた――そう思うと、様々な想いが胸中を駆け巡る。


 緑の公国に王族はいない。この国は、血筋による王家の世襲をよしせず、貴族たち自身が政治を司るべきだと信じる者たちによって築かれた国家だ。代々、貴族議会によって選ばれた者が公王となり、国を治めている。そして、公王の座は世襲されることなく、退位の際には再び議会によって次の公王が選ばれる仕組みだ。つまり、この国では、王族に生まれなくとも、王の座を勝ち取ることができる。野心ある者にとって、これほど魅力的な国はなかった。

 ジャンは、この国の生まれながらの貴族であり、さらに冒険者としての実績も積んでいたため、キッドがまだこの国にいた当時、若手貴族の旗頭と目されていた。しかし、伝統を重んじる保守派と、若手貴族を中心とする革新派との間で政治抗争が激化し、革新派の急先鋒であったジャンは、保守派の標的となった。

 ジャンの領地を襲う武装集団の報せ、そして同時に届いた王都への召集命令。それは彼を陥れるための罠だった。

 あの時の命令違反の汚名を一人被ってくれたキッドの献身を、ジャンは忘れてはいない。


「キッド、お前のおかげだ。あの時、お前が自分を犠牲にしてまで俺を救ってくれなければ、俺はここにはいない」


 ジャンの言葉に偽りはなかった。王としてではなく、昔と変わらぬ仲間としての口調だった。

 キッドは、ふとミュウの方を見た。彼女はどこか嬉しそうに微笑んでいた。

 その表情を見た瞬間、キッドの脳裏に過去の光景が蘇る。

 あの時――キッドが集落の救出に向かった時、ミュウは別の任務で王都におり、彼らのそばにはいなかった。しかし、彼女はそのことをひどく気に病んでいた。中央に戻ったキッドが処分を下された時、彼女はキッドのそばで「一緒にいたなら、キッドでなく自分が向かったのに……」と震える声で何度もつぶやいていた。その時の声は、今もキッドの耳に残っている。

 あの時のことを思えば、今こうしてミュウの柔らかな笑顔が見られるのが奇跡のようだ。


「まぁ、立ったままというのもなんだし、座ってくれ」


 ジャンが促し、キッドは対面の席に腰を下ろす。ミュウは迷うことなく、ジャンの隣ではなく、キッドの隣に座った。


「昔話に花を咲かせたいところだが――そのために俺を呼んだんじゃないよな?」

「ああ。もちろん、これからの国の話をするためだ」


 キッドは息を呑む。

 万一、緑の公国が、すでに黒の帝国に屈することを決めているようなら、友とはいえ、これからは道を違えることになる。


「緑の公国が黒の帝国に勝つには、この同盟しかない。それはジャンもわかって――」

「まぁ、待て。そう慌てるな。俺も、この同盟は受け入れるつもりだ」


 その一言に、キッドは息をついた。


「……そうか」


 知らず前のめりになっていた体を背もたれに預ける。


(やっぱりジャンは昔と変わらぬ友であり、同じ未来を見据えている……)


 だが、キッドには疑問が残った。


「なら、どうして今日の会見の場で即答しなかったんだ?」


 ジャンは少しだけ言い淀んでから、口を開いた。


「同盟の前に、キッドに緑の公国の人間として、やって欲しいことがあってな」


 キッドは息を呑む。

 今は紺の王国の軍師としてこの地に来ているが、心のどこかでは、緑の公国でジャンやミュウと共に戦いたいという想いが燻ぶっていた。だからこそ、緑の公国の人間と言われても、即座に否定も肯定もできず、喉の奥で言葉が詰まる。


「キッドに紺の王国だけで活躍されては、ほかの貴族に対して俺の立場がない。だから、キッドに緑の公国の人間として、力を貸してもらうことが、今回の同盟の条件だ」

「……何をすればいいんだ?」

「しばらく前から、国境付近で黒の帝国が軍事演習を行っている」

「――――!」


 キッドの瞳が鋭くなる。

 緑の公国と黒の帝国の緊張が、そこまで高まっているとは、キッドも思っていなかった。


「とはいえ、それほどの数ではない。小規模な部隊だ。本格的な侵攻はまだ先だろう。今は、その前の脅しの段階とみている。現に、何度か軍事演習の際に、こちらの国境内にまで入り込み、挑発している。このままだと本気で攻め込むから、その前に恭順の意を示せと脅しをかけてきているのだろう」


 ジャンの言葉に、キッドはゆっくりとうなずく。ジャンの分析は、キッドの考えとも一致していた。


「このままでは国民に動揺が広がる上、ほかの貴族、特に保守派の連中から、臆病な公王と突き上げをくらうだろう。だから、その前に、やつらと一戦交えて、緑の公国の力を示さねばならない。近々、俺自ら兵を率いて、不法侵入を理由に、国境付近の帝国軍に攻撃を仕掛ける。その戦いに、キッド、お前も参加してくれ」


 ジャンの真剣な眼差しが、キッドの瞳を捉える。

 隣のミュウも同じ視線をキッドへと向けてきた。


「その戦いには私も参加するから、キッドもお願い」


 二人の視線を受け、キッドはやれやれと肩をすくめ、わずかに笑みを浮かべる。

 ミュウに頼まれるまでもなく、キッドの答えはもう決まっていた。


「わかった。俺も参加する。ちょうど黒の帝国の力を、一度見ておきたいと思っていたところだ」


 キッドの拳に自然と力がこもる。

 緑の公国は、彼にとっても思い入れのある国だ。その国のために戦うことに躊躇いはなかった。それに何より――


(ジャンとミュウと共に戦える!)


 それだけで、胸が熱くならないはずがなかった。



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