エイミは撤退する帝国軍の殿部隊を指揮しながら、後方を警戒する。しかし、緑の公国軍の追撃がないことを確認すると、彼女は軍全体の撤退指揮を執っていたソードのもとへと向かった。
戦場を離れたばかりの荒々しい空気が漂う中、エイミは遠くに見えるソードの背中を見つける。大柄なその背中は、まるで戦場に立つ城壁のようだった。彼女は歩みを早め、声をかける。
「数で劣っていたとはいえ、今回はやられたわね」
ソードは足を止め、ゆっくりと振り向いた。
「そうだな。だが、相手の力量を知るという目的は十分に果たした」
低く響く声には、敗戦の悔恨よりも冷静な分析が滲んでいた。その表情に浮かぶのは、負けを恥じる色ではなく、次に繋げようとする揺るぎない自信。エイミは内心で安堵する。どんな状況でも冷静に戦局を見据える彼の存在は、味方にとってこの上なく心強い。
だが、ふと視線を落とした瞬間、エイミの心臓が跳ね上がった。
「ソード、あなた、その傷!?」
彼の腹部の鎧が大きく斬り裂かれ、深紅の血が滲んでいる。鮮血の色に息を呑んだエイミに、ソードは肩をすくめて答えた。
「大丈夫だ、血はもう止まっている。内臓までは達していない」
ソードがやせ我慢をしたり虚勢を張ったりする男ではないことを、エイミは誰よりもよくわかっている。エイミは一旦自分を落ち着かせた。
「……あなたがそう言うのなら、本当に大丈夫なんでしょうね」
魔法は奇跡のような力を見せるが、その魔法の力をもってしても怪我を瞬時に直すようなことはできない。魔法でできるのは、せいぜい傷口に水の膜を張って血を止めることくらいだ。致命的傷であれば、魔法でもどうにもならない。
ソードの傷がそういった致命的なものでないことに、エイミは安堵する。
「それにしても、あなたにそんな傷を負わせるなんて……。相手は誰?」
「――ミュウ。緑の公国の三英雄の一人だ」
「あなたの方へ向かって行ったあの女騎士がミュウだったのね。キッドも最初はあなたの方へ向かっていたみたいだし、二人がかりの連携攻撃にしてやられたってわけね」
二対一ならば仕方ないと、エイミは自分を納得させたようだった。
だが、彼女の言葉にソードは首を横に振る。
「いや、俺がこの傷をつけられたのは、キッドが離れ、ミュウ一人になってからだ」
「――――!?」
エイミは思わず息を呑んだ。
ソードが二人を相手にして傷を負ったのなら理解できる。だが、一対一、しかも相手は女――それでこの傷を負わされたことが信じられなかった。
黒の帝国の騎士の家系に生まれたエイミは、魔法の素質があったものの、最初に目指したのは騎士だった。幼き頃から剣を握り、同世代の男を相手にしても、彼女は剣で負けたことはなかった。だが、その絶対の自信は、若くして騎士団に入団した時、ある男によって打ち砕かれる。
ソード――彼と訓練で初めて刃を交えた瞬間、エイミは悟った。どれほど鍛えようとも、この男には絶対に届かない。類まれなる剣技の才覚、圧倒的な身体能力、常に最善を選ぶ直感的判断力。何もかもが別次元だった。
その日以降、エイミは騎士の道を諦め、魔導士の道を極めるために研鑽を積み重ねる決意をした。剣では超えられなくとも、魔法ならばソードに並ぶこともできるはずだと。
それだけに、女の身でありながら、単身でソードに傷を負わせた騎士がいるということが信じられなかった。
「そちらこそ、キッドが向かったと思うが、さすがに倒せはしなかったか」
「……そうね。相対する時に備えて対策を考えてはいたけど……やっかいな魔導士よ」
ソードという騎士として決して超えられない壁に出会い、魔導士の道を志したエイミ。彼女は、任務中に冒険者時代のキッドと会っていた。帝国内に潜む盗賊団を殲滅するという任務に従事していた際、冒険者にも協力を仰ぐことになった。その冒険者の中にキッドがいたのだ。
そして、その任務の中で、エイミは今度は魔導士としての才能の差をまざまざと見せつけられることとなった。魔法の豊富さやその柔軟な運用にも目を見張るものがあったが、何より衝撃を受けたのは、キッドが繰り出したダークマターの魔法だった。それはエイミにとって未知の領域であり、どれだけ努力を重ねても決して真似のできるものではないと本能的に悟らされた。
以来、エイミは剣技や魔法のみならず、様々な武術や学問を選び、研鑽を積み続けた。結果として、これだけは誰にも負けないと誇れるものこそなかったが、剣、魔法、指揮、戦術、政治、外交――あらゆる分野において、驚異的な高水準に到達していた。それこそが、彼女が「帝国の魔女」と称される所以でもあった。
だが、エイミはキッドのことを忘れることはなかった。魔法勝負で勝てないのなら、ダークマターを無効化し、確実に勝てる剣で勝負する――そんな柔軟で、キッドにとって最もいやな選択をすぐに取れたのも、彼と対峙した時のことを以前から考えていたからにほかならない。
「お互い、いいように足止めを食らわされたわけだな」
「……悔しいけど、そうなるわね」
「だが、次に戦えば勝つのは俺たちだ」
「当たり前でしょ」
敗戦の上、ソードに至っては傷も負わされている。それでも、二人の表情には余裕があった。
今回の戦力は、相手の戦力とその実力を見極めるためのものに過ぎない。
次に戦うときは、それを踏まえて、万全の戦力をもって挑む。そうすれば負けるはずがない――そう二人は確信していた。
今回の戦いは、緑の公国の勝利で幕を閉じた。
緑の公国軍の損害はわずかで、大勝と言っても過言ではない。
とはいえ、敗れた黒の帝国軍もそれほど被害を受けたわけではなかった。撤退のタイミングが絶妙で、さらに撤退の陣形も神懸っていた。もし緑の公国が下手に深追いしようものなら、逆に手痛いしっぺ返しを食らっていたかもしれない。そう判断したジャンは、無理に追撃をせず、適切なところで手を引かざるをえなかった。
それでも、「帝国の四天王」二人が率いる軍勢を退けたという事実は揺るがない。勝利の報せは緑の公国内を駆け巡り、人々の黒の帝国への対抗心を一層燃え上がらせた。
そして、保留されていた緑の公国と紺の王国の同盟も、ジャンとキッドとの約束により、正式に成立する運びとなった。
城内で反帝国の機運が高まる中、ジャン公王とルルー王女による同盟調印式が執り行われ、儀式が終わった後、二人は応接室で向かい合って座っていた。
「今回の戦いで、我が緑の公国と黒の帝国との敵対関係は決定的なものとなりました。これからは共に黒の帝国に対抗する同志として、頼りにさせてもらいますよ」
「我が紺の王国も、何もしなければ黒の帝国の侵攻を受けるだけです。こちらこそ、よろしくお願いします」
応接室に静かに響く二人の声。半分は社交辞令、半分は本気の言葉の交わし合い。しかし、ルルーにはどうしても、この機会に話しておかねばならないことがあった。
「ところで、ジャン公王、キッド様のことなのですが……」
同盟は成立した。だが、キッドの所属問題はいまだ宙に浮いたままだ。このままでは、両国の間で火種になりかねない。それに何より、ルルーにとって、キッド抜きでこの先の戦いに挑むことなど、もはや考えられなかった。
金銭的な問題で解決できるのなら、どれだけの額が必要だろうと構わないとさえルルーは考えていた。
しかし、ルルーが言葉を続ける前に、ジャンが先手を打ってくる。
「両国の同盟の証として、我が公国からキッドを紺の王国に派遣しましょう。今後、両国が連携して黒の帝国と戦っていくには、我が国の代表としてそちらと調整する者が必要になりますから」
その言葉に、ルルーの眉がわずかに動く。
それは、キッドが紺の王国に滞在することは認めるが、所属はあくまで緑の公国であるという、明確な主張だった。
このまま受け入れれば、キッドが緑の公国の人間だと認めるも同然。それは、ルルーにとって受け入れられる話ではなかった。
「ジャン公王、私としては――」
「同盟に伴う派遣、それならば、宮廷魔導士が不在となっても、兵も民も納得するでしょう」
ルルーの言葉を、ジャンの強い声が遮った。
兵も民も納得しない状況では、この同盟の話自体が今からでも覆る――ジャンはそう言っているのだ。
(……この同盟は紺の王国にとって必要なこと。なにより、キッド様が望んでいる……)
キッドのことを考えると、ルルーは我を通すことに躊躇してしまう。
(……少なくとも今は、キッド様が一緒に国に戻ってくれる。ルイセさんとの約束も果たせます……だったら、今はこれで十分……)
完全に納得したわけではない。だが、それでも受け入れるしかなかった。
「……わかりました」
顔には出さないが、心の苦しさが見えるような声だった。
一方、ジャンとしても、今回の提案は決して心から望んでのものではない。今後の戦いを考えれば、キッドには自分のもとで戦ってもらいたいというのがジャンの本音だった。
だが、帝国を倒すためには、紺の王国側からの攻撃も不可欠であり、紺の王国の戦力を底上げするのにキッドの存在が必要なのもまた事実だった。
結局、ルルーもジャンも、心から満足できる内容ではなかったが、現状の落としどころとしては、これが最善だった。
黒の帝国に対抗していく上で、両国間の関係は良好に保っていくしかない。
どちらからともなく手を差し出し、公王と王女は握手を交わした。
その手を離したとき、二人の間に漂っていた緊張がわずかに和らいだ。
先ほどまでより深く背もたれに身を預けたジャンに向かって、ルルーは口を開く。
「ジャン公王、もう一ついいですか?」
「なんですか?」
「ミュウさんのことなんですが――」
二人の話はもうしばらくだけ続いた。