慎一と出会ったことで、ユキの平穏だった日常に微かな波が立ちはじめていた。
彼女は長い間、山奥のこの村で一人静かに暮らしてきた。村人たちは彼女の正体を知っているからこそ、一定の距離を保ちながら接してくれる。しかし慎一は違った。彼は彼女が雪女だと知らず、ただの隣人として親しげに話しかけてくる。その無邪気な態度が、ユキの心を徐々に揺らしていった。
「こんな気持ちは久しぶり……」
独り言のように呟いたユキは、自分の胸に湧き上がる感情を持て余していた。それは、ほんの少しの期待と恐れが入り混じった複雑な思いだった。
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ある朝、ユキは慎一の家の前を通りかかった。いつもなら何事もなかったように通り過ぎるところだが、その日はつい足を止めてしまった。庭先では慎一が雪かきをしていたが、その様子があまりにも不慣れで、見ているだけで歯痒くなるほどだった。
「……慎一さん、大丈夫ですか?」
ユキは気づけば声をかけていた。自分の声が慎一に届くと同時に、彼がこちらを振り向き、嬉しそうに笑った。
「あ、ユキさん! おはようございます!」
慎一は手を止めて顔を上げたが、その額にはうっすらと汗が滲んでいる。冷たい風が吹き抜ける中でも、彼の身体は雪かきの重労働で熱を帯びているようだった。
「無理しすぎです。雪国では一気に片付けると疲れますから、少しずつ進めたほうがいいですよ。」
ユキが淡々と助言すると、慎一は少し困った顔をした。
「そうなんですね。でも、慣れてないものでつい……。」
「少しお手伝いします。」
「え? でも、そんな……。」
「構いません。」
ユキはさりげなく手伝い始めた。彼女の動きは慣れていて効率的で、たった数分で慎一が苦労していた部分があっという間に片付いた。
「ユキさん、すごいですね……。」
「これくらい普通です。」
言葉を短く切り、ユキは冷たい態度を装ったが、心の中では慎一の感謝の言葉が心地よく響いていた。しかし、ほんのり温かいその感情と共に、胸の奥に重たい不安が渦巻いていく。
「こんなに近づいてしまっていいの?」
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その日の夜、ユキは一人静かに家の中で考えていた。
慎一と接するたびに、彼の人間らしい温かさが伝わってくる。それは心地よいものだったが、同時にユキにとっては恐ろしいものでもあった。彼女は雪女だ。普通の人間とは違う存在であり、何よりも自分の力が彼に害を与える可能性を知っていた。
ある冬の日の記憶が蘇る。
以前、彼女が村に迷い込んだ旅人を助けたことがあった。そのとき、彼の体に触れただけで凍傷のような症状を引き起こしてしまったのだ。それ以来、ユキは自分の力を「呪い」と感じるようになり、人間と深く関わることを避けるようになった。
慎一の笑顔を思い浮かべながら、ユキはため息をつく。
「……また、同じことが起きたらどうしよう。」
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ある日、慎一の家から白い煙が上がっているのが見えた。
薪ストーブの調子が悪いらしい。ユキは自分でも気づかないうちに彼の家の前まで足を運んでいた。
「慎一さん、大丈夫ですか?」
「ユキさん!ちょうど困ってたんです。」
彼はストーブの煙突を見上げていた。雪が詰まりかけているのだろう。ユキは少しだけためらったが、彼を助けたいという思いが勝った。
「そのままでは危ないです。少し離れてください。」
ユキがそう告げた瞬間、彼女の指先から冷気がふわりと立ち上る。凍らせた雪を軽く砕くと、煙突の詰まりがあっという間に取り除かれた。
「すごい……。そんなに簡単に?」
「……雪国の知恵、です。」
ユキは慎一の驚いた顔を見て少し安堵したが、その直後、冷や汗が背筋を伝った。慎一に気づかれてはいないようだが、彼女が使った冷気は明らかに人間離れしている。こんなことを続けていては、いずれ彼に正体がバレてしまうかもしれない。
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その夜、ユキはストーブの灯りだけが揺れる薄暗い部屋で膝を抱え、独り言のように呟いた。
「私は、あの人に近づいちゃいけない……。」
彼女は慎一への好意と、自分が雪女であることへの恐れの間で揺れ続けていた。
「でも……どうして、離れられないんだろう……。」
ユキの頬を、冷たく透き通る涙が一筋、静かに伝った。
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