◆
この世界には、魔法と呼ばれる奇跡の力が厳然として存在していた。
人々は生まれながらにして魔力を宿し、その力は生活の隅々にまで影響を及ぼしている。
農耕においては豊穣を祈り、水利を整え、建築においては巨石を運び組み上げ、医療においては傷を癒し病を退ける。
魔力は、人々の営みを支える根源的な力であり、同時に社会の秩序を形作る絶対的な指標でもあった。
魔力には属性が存在し、その中でも火、水、風、土の四大属性は特に尊ばれていた。
炎を自在に操り万物を焼き尽くす火の魔力。
清冽な流れを生み出し、生命を育む水の魔力。
疾風を巻き起こし、空を翔ける風の魔力。
大地を揺るがし、堅固な城壁を築く土の魔力。
これら四大属性の魔力を持つ者は、その力の強大さゆえに社会の上層を形成し、特に王族や大貴族の血筋には、より強力な属性魔力の発現が期待された。
魔力の強弱、そして属性の種類は、個人の価値を、ひいては家柄の栄誉を左右する絶対的な基準となっていたのだ。
四大属性に属さない魔力も存在したが、それらは概して微弱であったり、実用性に乏しいと見なされたりすることが多かった。
中でも「無の魔力」と呼ばれるものは、いかなる属性の特性も示さず、魔法を発動させることすらできないとされ、最も劣った魔力として蔑まれる風潮さえあった。
魔力が全てを決定づけるこの世界において、無属性であることは、すなわち無力であることと同義だったからである。
◆
ウェザリオ王国は、大陸中央部に位置し、豊かな自然と戦略的な地理条件に恵まれた強国の一つであった。
代々の王家は強力な火の魔力を受け継ぐことで知られ、その威光は国内外に轟いていた。
現国王オルドヴァイン三世もまた、比類なき火の魔力の使い手である事は言うまでもない。
そんなウェザリオ王国に待望の第一王子が誕生したのは、今から十数年前のことである。
シャールと名付けられたその赤子は、王国の未来を一身に背負う存在として国民からの熱狂的な祝福を受けた。
金色の髪に、空の色を映したかのような澄んだ青い瞳。
誰もがこの王子が父王の強力な火の魔力を受け継ぎ、ウェザリオ王国を更なる高みへと導くであろうと信じて疑わなかった。
時を同じくして、王国屈指の名門であるエルデ公爵家にも一人の女児が誕生した。
セフィラ・イラ・エルデ。
公爵家の一人娘として生を受けた彼女もまた、その血筋に相応しい強力な魔力の発現を期待されていた。
エルデ公爵家は代々知性と冷静さを象徴する水の魔力に長けた者を多く輩出し、王家の補佐役として重きをなしてきた家柄である。
セフィラの誕生はエルデ公爵家にとっても、そして王国にとっても喜ばしい知らせであった。
◆
シャール王太子は物静かで寡黙な子供として育った。
王宮の喧騒や同年代の貴族の子弟たちとの華やかな交流よりも、一人で静かに過ごすことを好んだ。
ただ、それは非活発的な子供という事を意味しない。
シャールは騎士団の訓練を見て、真似て、自ら棒を振ったりなどもする。
まあそれくらいならば男の子なら珍しくもないだろうが、シャールはその度が過ぎていた。
掌の皮が擦りむけるまで延々と棒を振ったり、倒れるまで走りこんだり──遊びたい盛りの子供がそこまでやるだろうか?
シャールの奇行は当然両親にもばれ、その行動に大きな制限が加えられたが、それでも注意をされる限界ぎりぎりまでシャールは自身を鍛える事をやめはしないのだ。
そんな彼の心の慰めは、書庫に収められた数多の物語、とりわけ遠い昔の騎士たちの武勇伝や、未知の世界を探求する冒険譚であった。
色褪せた羊皮紙のページをめくるたび、シャールの心は物語の世界へと飛翔した。
勇敢な騎士が悪を討ち、弱きを助ける姿に胸を躍らせ、未知なる大陸や神秘的な遺跡の描写に想像力を掻き立てられた。
いつしか彼は現実の王宮生活よりも、物語の中にこそ真実の輝きがあるように感じるようになっていた。
それは王太子という立場が彼に求める姿と、彼自身の内なる願望との間の静かな、しかし埋めがたい隔たりを示唆しているかのようだった。
王太子としての立場や周囲の期待という見えざる重圧が彼の言葉数を減らし、感情を内に秘めさせる要因となっていたのかもしれない。
一方、セフィラ・イラ・エルデは幼い頃からその聡明さで周囲を驚かせる少女であった。
公爵令嬢にふさわしい上品さと礼儀正しさを身につけ、立ち居振る舞いは常に洗練されていた。
彼女もまた読書を好み、特に歴史書や魔道書、天文学や博物学といった学術的な書物に強い興味を示した。
その理解力は大人顔負けで、時に高名な学者との議論においても、的を射た質問や鋭い洞察を見せることがあったという。
柔らかく波打つ亜麻色の髪、知性の光を宿した翠色の瞳は彼女の落ち着いた雰囲気と相まって、年齢以上の深みを感じさせた。
セフィラは知識を深めることに純粋な喜びを感じ、世界の成り立ちや法則を理解しようと努めていた。
彼女にとって書物は、未知への扉であり、真理を探求するための道しるべであったのだ。
そんな二人──シャールとセフィラ。
彼らは王国の将来を見据えた政治的な思惑により、ごく幼い頃から婚約者として定められる事となる。
王家とエルデ公爵家という王国で最も力を持つ二つの家を結びつけるこの婚約は、ウェザリオ王国の安泰を確固たるものにするための布石であった。
まだ物心もつかぬうちから決められた関係。
それは二人の意思とは関わりなく、周囲の大人たちによって敷かれたレールに他ならなかった。
◆
初めて二人が公式の場で顔を合わせたのは、二人が8歳の時だ。
王宮の広大な庭園で催された茶会。
豪奢な衣装に身を包んだ貴族たちが談笑する中、二人の子供は緊張した面持ちで互いを見つめていた。
シャールはいつも以上に口を固く結び、視線をどこにやればよいのか戸惑っているようだった。
セフィラは母親に促されるままに淑女の礼をとったものの、その小さな顔にはわずかな不安の色が浮かんでいた。
周囲の大人たちは微笑ましげに二人を見守り、将来の国王夫妻の愛らしい姿に賛辞を送った。
しかし当の本人たちにとってはそれは窮屈で、どこか居心地の悪い時間でしかなかっただろう。
だが、そんな形式的な出会いが繰り返されるうちに二人の間には少しずつ変化が訪れ始めた。
彼らは同年代の他の子供たちとは明らかに異なる何かを、互いの中に見出し始めていたのだ。
それは突出した知性であり、年齢にそぐわぬ落ち着きであり、そして何よりも、周囲の喧騒から一歩引いた場所で物事を静かに見つめる共通の視線であったかもしれない。
・
・
・
ある日の午後、シャールは王宮の広大な書庫でいつものように騎士譚を読みふけっていた。
ふと気配を感じて顔を上げると、そこにはセフィラが立っていた。
彼女はシャールが読んでいる本よりもずっと分厚く、難解そうな書を抱えていた。
「……こんにちは、シャール殿下」
セフィラは小さな声で挨拶し、丁寧にカーテシーをした。
「ああ……セフィラ嬢」
シャールもぎこちなく応え、読んでいた本から顔を上げた。
しばしの沈黙が流れた。
何を話せばよいのか、二人ともわからなかった。
先に口を開いたのはセフィラだ。
「殿下は、いつも騎士のお話をお読みになっているのですね」
「……うん。面白いから」
シャールの返事は短かったが、その声にはわずかな熱がこもっていた。
「その物語は、どのようなお話なのですか?」
セフィラの問いかけに、シャールは少し戸惑った後、ぽつりぽつりと物語のあらすじを語り始めた。
伝説の聖剣を引き抜いた若き騎士が邪悪な竜を討伐し、囚われの姫を救い出すという古典的な英雄譚だった。
シャールは普段の寡黙さが嘘のように、物語の場面を生き生きと描写した。
騎士の勇気、竜の恐ろしさ、姫の美しさ。
セフィラは、静かにシャールの話に耳を傾けていた。
彼女の翠色の瞳は真剣な光をたたえ、時折小さく頷いた。
シャールが話し終えると、セフィラはしばらく何かを考えるように黙っていたが、やがて口を開いた。
「その竜が棲んでいたという山脈は、地理的に見て、古の火山の痕跡がある場所かもしれませんわね。竜が炎を吐くという伝承も、地熱活動と関連があるのかもしれません」
思いもよらないセフィラの言葉に、シャールは目を丸くした。
物語のロマンに浸っていた彼にとってそれはあまりにも現実的で、学術的な視点だったからだ。
「また、騎士が用いた戦術は少数で大軍を破ったとされる古の戦記に類似点が見られます。作者はあるいは軍を率いた事があったのかもしれないですね」
セフィラは淡々と、しかし的確に分析を続ける。
シャールはセフィラの言葉を聞きながら、自分がただ物語の表面的な面白さに惹かれていただけであることに気づかされた。
セフィラは物語の背後にある歴史的背景や合理的な解釈を見抜こうとしていたのだ。
「……セフィラ嬢は、物知りなんだな」
シャールがぽつりと呟くと、セフィラは少し頬を赤らめた。
「いいえ、そんなことは……ただ、書物を読むのが好きなだけですわ」
その日から、二人が書庫で偶然顔を合わせる機会が増えた。
シャールは騎士譚や冒険記を、セフィラは歴史書や魔道書を。
シャールが読んでいる物語の主人公の行動についてセフィラがその倫理的な是非を問いかけたり、セフィラが解読に苦労している古代文字について、シャールが物語の知識から意外なヒントを与えたりすることもあった。
二人は互いの知識や視点の違いを認め合い、そこに新たな発見や面白さを見出すようになっていった。
それは大人たちが期待するような、甘やかな恋物語の始まりではなかったかもしれない。
だが尊さがあった。
◆
二人が12歳の頃の話である。
王宮の離宮には四季折々の花々が咲き誇る美しい庭園がある。
公式行事の合間や家庭教師からの厳しい指導から解放されたわずかな時間、シャールとセフィラは、その庭園の片隅で言葉を交わすことがあった。
そこは侍従や女官たちの目も届きにくい、二人だけの秘密の場所だ。
ある初夏の日、心地よい風が若葉を揺らす中、二人は古い石造りのベンチに並んで腰掛けていた。
シャールは、空を流れる雲をぼんやりと眺めていた。
「もしも、私が王太子でなかったら……」
不意に、シャールがそんな言葉を漏らした。
セフィラは驚いてシャールの方を見た。
彼の横顔はどこか遠くを見つめているようで、普段の彼からは想像もできないような儚げな表情をしていた。
「もしもただの一人の男であったなら。自由に世界を旅して、困っている人を助けられただろうか……」
それは彼の心の奥底に秘められた純粋な願いであった。
王太子という立場は、彼に多くの制約と責任を課していた。
自由に憧れるシャールの心は、窮屈な王宮の中で息苦しさを感じていたのかもしれない。
セフィラはシャールの言葉に静かに耳を傾けていた。
彼女はシャールの抱える葛藤や、その言葉の裏にある孤独を敏感に感じ取っていた。
「殿下は……きっと、素晴らしい王におなりになりますわ」
セフィラは励ますように、しかし確信を込めて言った。
「殿下のそのお心があれば、きっと多くの民を幸せに導くことができるはずです」
彼女の言葉には何の打算もお世辞もなかった。
ただ、シャールの本質を見抜いた上での偽りのない信頼が込められていた。
シャールはセフィラの言葉に少し驚いたような顔をしたが、やがて小さく頷いた。
「……ありがとう、セフィラ」
その日から、シャールとセフィラの関係に明確な色がつきはじめる様になる。
友情という言葉だけでは表しきれない、特別な信頼感と安心感。
互いが互いにとって、なくてはならない存在。
言葉にしなくても心の奥底でそう感じ始めていることに、二人自身もまだ明確には気づいていなかった。
ただ、相手の顔を見ると心が安らぎ、相手の声を聞くと穏やかな気持ちになれる。
相手が隣にいるだけで、世界が少しだけ輝いて見えるのだ。