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シャールとセフィラは共に十三の歳を迎えていた。
王宮の庭園の片隅にある古いベンチは、変わらず二人にとっての“秘密の場所”だ。
互いの存在に対する理解もより深まっている。
王太子としての責務、公爵令嬢としての期待。
それらは年々重みを増していたが、二人でいる時間だけはその重圧から解放されるかのようだった。
ある日の午後、二人は王宮の書庫ではなく、エルデ公爵家の広大な書斎にいた。
公爵家の書斎は王宮のそれとはまた趣が異なり、整然と並べられた書棚にはより専門的で稀覯な書物が多く収められている。
壁一面を埋め尽くす書物の背表紙を眺めるだけでも、知的な興奮を覚える空間であった。
その日は特に珍しい古文書が公爵家にもたらされたと聞き、シャールがセフィラを訪ねてきたのである。
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セフィラは、革の装丁が施された分厚い書物を机の上に広げ、熱心にその頁を読み解いていた。
それは古代の魔法に関する記述が含まれている解読の難しい文献だった。
「この部分……古代語の文法が特殊で、意味を掴みかねているのですわ」
セフィラは細い指で、羊皮紙に書かれた複雑な文字の列をなぞりながら呟いた。
シャールも隣から身を乗り出して、その難解なテキストを覗き込む。
彼には騎士譚の知識はあっても、このような専門的な古文書を読み解く力はない。
それでも、セフィラが何に没頭しているのかを知りたいという純粋な興味があった。
「ふむ……これは、特定の儀式に関する記述でしょうか」
セフィラは眉根を寄せ、さらに集中して文字を追う。
「どうやら、魔力そのものを直接操作する方法について書かれているようなのですけれど……」
彼女はしばらく黙考した後、ふと顔を上げた。
「試してみてもよろしいでしょうか、殿下」
「試す?」
シャールが聞き返すと、セフィラは悪戯っぽく微笑んだ。
「ええ。この書物によれば、特別な呪文や触媒を用いずとも、精神集中によって物体に干渉できる可能性がある、と……」
それは現代の魔法体系ではほとんど語られることのない、異端とも言える考え方だった。
四大属性に代表されるように、通常、魔法は明確な属性と、それを発現させるための詠唱や魔法陣などを必要とする。
「物体は何から出来ているのか──と、そこから始まる考え方が必要です」
セフィラは机の上に置かれていた羽根ペンに視線を定めた。
「つまりこの羽ペンは金属と木材で出来ているわけですが、そもそも金属や木材は何からできているのか──書には“最も小さい粒”とあります。この“粒”に意識を集中させるのです」
セフィラはゆっくりと深呼吸をし、翠色の瞳を細める。
数秒の静寂の後、信じられないことが起こった。
机の上の羽根ペンがかすかに震え始めたのだ。
そして、まるで見えざる糸に引かれるかのようにゆっくりと宙に浮き上がった。
シャールは息を呑んだ。
詠唱はない。
魔法陣もない。
ただ、セフィラの集中力だけがそこに奇跡を現出させていた。
羽根ペンは不安定に揺れながらも、数センチほど浮いた状態で静止している。
「……すごい」
シャールは思わず呟いた。
セフィラの額にはうっすらと汗が浮かび、集中を維持するためにかなりの精神力を消耗していることが見て取れた。
やがて、ふっと力が抜けたように羽根ペンは机の上に音もなく落ちた。
「……はぁ。やはり、難しいですわね」
セフィラは小さく息をつき、少し疲れたような表情を見せた。
「でも、今のは……魔法、なのか?」
シャールは興奮を隠しきれない様子で尋ねた。
「わかりません。属性の力とは明らかに違うものですから……もしかしたら、これが……」
セフィラは言葉を濁したが、いわんとすることはシャールにもよくわかった。
無の魔力。
魔法を発現できないとされる劣った属性。
「しかしエルデ公爵家は代々水の魔力を持つのだろう? となれば──文字通り未知の力という事か」
事実、目の前で起こった現象は従来の魔法の常識を覆すものだった。
「……私も、やってみてもいいだろうか」
シャールの言葉に、セフィラは少し驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
「もちろんですわ、殿下」
そうしてシャールはセフィラの助言を受けながら、羽ペンに意識を集中させる。
しかしどれだけ集中しても羽ペンは動かない。
「私では駄目か……」
シャールがやや気落ちしたように言うと、セフィラは少し考える素振りを見せ──
「もう少し小さいもので試してみては?」
などと言う。
「例えばこの砂時計の砂粒などでどうでしょうか?」
なるほど、とシャールは思う。
そして机の上に置かれていた小さな砂時計に意識を集中させる。
精神を一点に研ぎ澄ませ──
ややあって砂時計の中の砂が、ひとりでに動き始めた。
それは落下するのではなく、まるで意思を持っているかのように、ガラスの内壁を螺旋状に駆け上がり始めたのだ。
セフィラは目を見開いた。
シャールはさらに集中力を高める。
砂の動きはより複雑になり、一粒一粒が意思を持ったかの様に動き、何がしかの形をとろうとしていた。
が、そこまでが限界のようでシャールが大きく息をつく。
砂ははらりと崩れ落ち、ぱらぱらと砂時計の底へと降り積もっていく。
「……殿下にも、この力が……」
セフィラは驚きと、そしてどこか嬉しそうな声で言った。
「このことは、誰にも言ってはいけないな」
シャールが静かに言うと、セフィラも深く頷いた。
「はい。この力が何であるか、まだわかりません」
四大属性こそが絶対とされる中、このような力が存在すると分かれば混乱は避けられないだろう。
あるいは、危険視されるかもしれない。
二人は互いの目を見つめ合った。
──二人の秘密
そんな思いを共有する。
それからというもの、二人は密かにこの未知の力の鍛錬を始めた。
シャールは相変わらず大きなものを操作することはできないが、小さな物体を複雑な形に組み替えたり、高速で動かしたりする事は得意のようだった。
鍛錬を続けるうち、砂粒を集めて剣の形を作ったり、水滴を操って空中に文字を描いたり、落ち葉を舞わせて特定の模様を作ったりすることも可能になっていった。
一方、セフィラはより大きな物体を動かすことに長けているようだった。
最初は羽根ペンや小さな書物程度だったが、鍛錬を重ねるうちに、椅子やテーブルといった、やや大きめの家具をもわずかに浮かせることができるようになった。
それはシャールのような繊細さはないものの、よりパワフルな力の現れだった。
二人は互いの力の違いを認識し、それぞれの特性を伸ばすための助言を交わした。
この秘密の共有は、彼らの心の距離をより一層縮める事となる。
それは誰にも理解されないかもしれない力を世界でただ一人、互いだけが理解し合えるという特別な繋がりだったからだ。
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二人の関係は秘密の共有を経て、より一層親密さを増していく。
それは友情や信頼といった言葉だけではもはや言い表せない──深く、そして甘やかな色合いを帯び始めていた。
鍛錬や勉学の合間を縫って、シャールがエルデ公爵邸を訪れる頻度は増えていた。
表向きは王太子と婚約者との交流、あるいは学術的な探求のためとされていたが、二人にとってはただ共にいるための口実に過ぎなかったのかもしれない。
窓の外では穏やかな陽光が庭園の緑を照らし、鳥のさえずりが微かに聞こえてくる。
大きな読書用のソファに隣り合って座り、二人はそれぞれ別の書物を開いていた。
シャールは相変わらず騎士たちの武勇伝を、セフィラは難解な天文学の書を。
しかし彼らの意識はもはや書物の文字だけに向けられているわけではなかった。
頁をめくる音。
相手の呼吸する微かな音。
隣に感じる体温。
そういった様々な要素が互いに擦れ合い、やがてその摩擦は心に火を灯す。
ふと、シャールは読んでいた本から顔を上げた。
視線の先には隣で書物に集中するセフィラの横顔。
窓からの光を受けて、彼女の亜麻色の髪がきらきらと輝いている。
真剣な表情で文字を追う、長い睫毛に縁取られた翠色の瞳。
知的な輝きと少女らしい柔らかな雰囲気が同居するその姿に、シャールの心は強く惹きつけられた。
どれくらいの時間、見つめていただろうか。
セフィラが不意に顔を上げ、シャールの視線に気づいた。
二人の目が、至近距離で交差する。
シャールは慌てて視線を逸らそうとしたが、できなかった。
セフィラの瞳の中に、吸い込まれるような感覚を覚えたからだ。
セフィラもまた、シャールの青い瞳から目を離すことができなかった。
いつもは寡黙で、どこか影のある表情を見せることの多いシャール。
しかし今、自分を見つめるその瞳には隠しきれない何かが宿っている気がして、セフィラはそれが何かを見極めようとした。
時間が止まったかのような静寂。
やがてセフィラは気付く。
それは熱である、と。
そしてシャールの瞳に映る自分もまた“それ”を瞳に宿しているのだろう、と。
もはや言葉は不要であった。
どちらからともなく、二人の顔がゆっくりと近づいていく。
それは計算された動きではなく、磁石が引き合うような、抗いがたい自然な引力によるものだった。
シャールの指先が、セフィラの頬にそっと触れた。
驚くほど滑らかな感触。
セフィラは小さく息を呑みわずかに身じろいだが、拒絶することはなかった。
むしろその瞳は潤み、シャールを受け入れるかのように、そっと閉じられた。
そして二人の唇がごく自然に重なった。
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ほんの数秒の接触ではある。
しかしその一瞬は、二人にとって永遠のように感じられた。
唇が離れると二人は互いの顔を間近で見つめ合ったまましばらく動けなかった。
先に口を開いたのは、シャールだ。
「……セフィラ」
彼の声は、少し掠れていた。
セフィラは恥ずかしそうに俯きながらも、小さく頷いた。
「……シャール殿下」
その声もまた、微かに震えていた。
気まずさというよりも、共有した瞬間の重みと溢れ出す感情に戸惑っているようだった。
純真な想いが、形になった瞬間。
それは政略によって定められた婚約者という関係性を超えて、二人の心が確かに結びついた証だった。