ギルド長が亡くなった。
その事実が冒険者ギルドに重くのしかかっていた。
彼は偉大な人だった。冒険者たちからは親しみを込めて『ドン』と呼ばれ、誰よりもギルドを支え、誰よりも仲間を大切にしていた。
まだうまく依頼をこなせずに、いつもお金に困っている駆け出しの冒険者には食事を奢り、問題を抱えうまく周囲に馴染めず、仲間を見つけられない者にはパーティーの紹介をし、時には装備や道具の相談にも乗っていた。その温かさは分け隔てなく、どんな人にも親身に接し、時には家族のように寄り添う。その姿は、ギルドにとっても冒険者たちにとっても、まさに父のような存在だった。
惜しい人を亡くした……そう言葉にする者は多かった。しかし、誰もが抱く喪失感は、それだけでは済まされるものではなかった。彼を失ったことは、ギルドの精神的な支柱だけではなく、実務的な問題も失われていたのだ。
その日から、ギルドは地獄のような忙しさに追われた。
ドンがいなくなったことで、彼が担っていた仕事の穴が顕著になり、職員たちは対応に追われた。報酬の処理は滞り、依頼の整理は混乱し、冒険者たちからの問い合わせは殺到する。業務が積み重なり、気づけばギルドの機能はぎりぎりの状態で回っていた。
職員たちはみんな疲れ果てていたが、それでも誰も手を止めることはなかった。立ち止まれば、喪失感に押しつぶされるのが分かっていたからだ。誰もが息つく暇もなく働き続けた。それでも、誰ひとり弱音を吐かなかった。
ドンが愛したこのギルドを守りたかったのだ。
それは、私も同じだった。だから、休む暇もなく懸命に働いた。
仕事は尽きることなく積み重なり、終わりが見えない。しかし、誰もがこの混乱を乗り越えようとするように、私もただ必死に身体を動かした。
報酬の計算をしながら、次の依頼受付へと目を向ける。その合間に迷いながらギルドへ訪れる冒険者たちの対応をして、さらに職員たちと情報を共有する。気づけば時間の感覚は曖昧で、次にやるべきことばかりが頭の中に詰まっていた。目を閉じる暇さえなかった。
たぶん、それがいけなかったんだと思う。
気が付けば、私は自分の部屋でベッドに横たわる自分自身を見つめていた。
……これは、なんだろうか?
冷え切った空気が肌に触れない。息をする感覚もない。それなのに、目の前の光景はあまりにも鮮明で、逃れようのない現実を突きつけていた。
私の亡骸が、ベッドの上に横たわっている。
ギルドの職員たちが集まり、沈痛な面持ちでその傍に立っている。静かなすすり泣きが、重くのしかかる沈黙の中で響いていた。そしてその中央で、私の亡骸にしがみついて泣き叫んでいる少女がひとり。
ネーナだ。
彼女はまだギルドに入ったばかりの新人受付嬢だった。その不器用さゆえに、仕事では毎日のようにミスを繰り返していた。教育係だった私は、何度フォローしたかわからないほどだ。それでも、ネーナは諦めることなく精一杯頑張っていた。時には涙をこぼすこともあったが、それでも『次こそは』と前向きに挑み続ける姿勢は、周囲の者の心を打った。いつも笑顔で元気が取柄だった。
そんな彼女が、今は私の亡骸にすがりつき、嗚咽を漏らしている。
「嘘……嘘ですよね……アリッサさん……!」
何度も名前を呼び、涙でぐしゃぐしゃになった顔を私の胸元に埋めている。
……私は彼女を泣かせてしまった。
一番懐かれていた私が、彼女を不幸にしてしまった。本当に申し訳なく思う。ネーナには、ずっと笑っていてほしかったのに。
私のことは、この際もういい。
本当は、まだやりたいことがたくさんあった。まだまだ楽しい事もあっただろうし、いつかは結婚だってしてみたかった。
けれども、死んでしまったのなら仕方がない。これは運命だ。受け入れなければならない。ドンが遺したギルドを、最後まで支えられたのなら、それで満足だったはずだ。
……そう思おうとした。しかし、心はすんなりと納得してくれない。
心残りが……ある。
ネーナはまだ一人前には程遠い。誰かがフォローしなければ、彼女はミスを積み重ね、やがて孤立してしまうだろう。だが、今のギルドにはその余裕がない。誰もが自分の仕事に追われ、ネーナに手を差し伸べられる状況ではないのだ。
私が生きていた頃は、それでも手を貸すことができた。彼女のミスを修正し、後処理をし、時には不安を取り除くために励ましていた。
しかし、今の私はもう、その手を伸ばすことができない。このままではいつか彼女は潰れてしまうだろう。
……それだけは、耐えられなかった。
そういえば、私は死んだのだ。なのに、なぜここにいる?
静寂が支配する空間で、私はただ立ち尽くしていた。
死んだのなら、本来ならばすべてが終わっているはずだ。肉体は冷たくなり、生命の灯は途絶えた。意識だって無くなっているはずだ。それなのに私は、ここにいる。
幽霊というものなのだろうか?
戸惑いながら、試しにネーナの肩へと手を伸ばしてみた。だが、指先は彼女の身体をすり抜ける。何の抵抗もなく、まるでそこには何も存在していないかのように。
やはり、私はもう、彼女らの世界に存在する者ではないのだろう。
壁に触れてみる。だが、それすらもすり抜けた。どこにも引っかかることなく、ただ虚ろに通り抜けていく。それはまるで、自分の存在がこの世界から拒絶されているようだった。
しかし、そんな現実の中にも、一つだけ奇妙な発見があった。ふわふわと浮けることに気付く。意識を向けると、ゆっくりと体が持ち上がる。試しに空中で胡坐をかいてみると、不思議なことにそれができた。なるほど、これは快適だ。なんとも奇妙な感覚ではあったが。
さて、どうするべきか。生き返るのはもう不可能なのだろうし、成仏するべきなのだろうか。教会にでも行けば成仏できるのだろうか。それとも、たださまようだけの幽霊になってしまうのか。
しかし、それは御免だ。
悪霊となり討伐依頼を出され、冒険者に斬り伏せられる未来なんてまっぴらごめんだ。依頼を発行する側が討伐対象になっては本末転倒だ。
そもそも、そんな役回りをするためにここへ留まっているわけではないだろう。何かが、私をこの世に繋ぎ止めている。
それは、きっとネーナの涙だった。彼女を残して逝くわけにはいかない。
ネーナはまだ一人前とは言えない。いや、半人前にすらなっていない。彼女の不器用さは誰もが知るところだし、この混乱したギルドの中で誰もが彼女を支える余裕などないのも分かっている。
もし、誰も彼女を助けることができないのなら……それは、引き続き私の役目なのではないだろうか?
この世界にはもう触れられない。
言葉も届かない。
けれど、それでも。
成仏する前に少しだけ……ネーナを、見守ってもいいよね?