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2.

 いつものように朝が来る。


 しかし、私の世界は昨日までとは違っていた。幽霊となった私にとって、夜という時間はただただ退屈なものだった。眠ることもできないし、眠くもならない。時間の概念が曖昧になり、ただ夜の街を彷徨うしかなかった。しかし、人々は皆、静かに眠りにつき、私がここにいることを知る者は誰もいない。退屈な時間の中で、唯一の動きといえば……昨今富豪の家に盗みに入っている盗賊らしき影を見かけたことくらいだろうか。だが、それを見たところで、どうすることもできない。ただ観察するだけ。


 朝が来れば、私は消えてしまうのではないか?


 そんなことをふと考えた。幽霊が日の光を浴びれば消える……そんな伝承もある。しかし、それはどうやら杞憂だったようだ。


 朝の光が街を照らし、人々が動き出す頃、私もふよふよと空中に浮かびながら移動していた。


 なんとも都合のいい幽霊である。


 そして、気づけば私はギルドへ向かっていた。いつもの習慣とは恐ろしいものだ。死んでもなお、時間になればいつもの通勤路を通り、職場へと足を運んでしまう。もう仕事をしなくてもいいというのに……。


 それでも、ここへ来てしまう理由ははっきりしている。


 ネーナはどうしているだろうか。


 この時間なら、裏手で荷物の搬入をしているだろうか? また何か失敗をしてはいないだろうか? 


 心配になって、私は裏手へとまわってみることにした。

 あとから思えば、私は壁を通り抜けられるのだから、そのまま直進すればよかったのだ。幽霊の特権を、まだ上手く使いこなせていないらしい。



   ◇



 居た。ネーナだ。重そうな木箱を抱えて、ふらふらと歩いている。


 あれはおそらく錬金術師ギルドから納品された治癒ポーションの詰まった木箱だろう。見た目以上にぎっしりと詰め込まれているそれは、並の力では持ち上げるのも難しいほどの重量だ。普段なら男性職員が運ぶはずなのに、今日はなぜかネーナがその箱を抱え、重そうひいひい言いながら運んでいる。


 冒険者ギルドでは、冒険に必要な道具も販売している。種類はそう多くはないが、駆け出しの冒険者が最低限必要なものだけは揃えている。治癒ポーションもそのひとつだ。


 しかし、今のネーナは……そのポーションを床にぶちまける未来へと真っすぐ突き進んでいるようにしか見えない。彼女の細い腕は木箱の重量に耐えきれず、歩幅は不安定だ。ふらふらと左右に揺れて、今にも落としてしまいそうだった。


 危なっかしい。


 誰か、周囲に手伝ってくれそうな人はいないかと見渡す。だが、運悪くこの場には誰もいない。


 ならばと、私は木箱に触れようとした。


 ……だが、その手は無情にもすり抜ける。


 そうだった。私はもう、物理的な干渉ができないのだ。ネーナを助けることができない……口惜しい……!


 そうしている間にも、彼女の足元はどんどん怪しくなっていく。今にも転びそうな状態だ。


 まずい、まずい、倒れる!


 ネーナの足がもつれ、ゆっくりと前のめりに崩れていく。


 危ない!


 咄嗟に手を伸ばす。


 激しい音と共に木箱が床へと落ち、衝撃に耐えきれず中の治癒ポーションが次々と割れていく。瓶が砕け、辺りに赤い液体が飛び散る。


 しかし、ネーナは床に倒れず、宙に浮いていた。

 正確には、私の腕に抱きかかえられるように静止していた。


「え? え?」


 ネーナの瞳は大きく見開かれ、困惑したように辺りを見回している。


 それもそのはずだ。


 ぶっちゃけると、私も何が起こっているのか分からない。


 さっきまで、木箱にすら触れられなかった。なのに、今は彼女の身体をしっかりと支えている。


 物に触れるようになった……?


 思わず、抱き留めていた腕を引っ込め、両手をまじまじと観察してしまった。


「あっ!」


 その瞬間、ネーナは支えを失い……


「ふぎゃ!」


 勢いよく床へと落下。顔面から着地した。


 あ、ごめん。


「いてて……一体何なの?」


 ネーナが赤くなった鼻をさすりながら、涙目でぼやく。試しに彼女の鼻をやさしく撫でようとする。しかし……。

 私の手は、今度は彼女の身体をすり抜けた。今の私は、また何も触れられなくなっている。


 ……一体、何が起きたのだろうか。



   ◇



 ネーナの今度の仕事は受付業務だ。ギルドの顔とも言える重要な仕事であり、何よりも忙しない。


 壁に張り出された依頼書を冒険者が持ってくるのだが、身の丈に合わないものを選んでくる者は後を絶たない。強敵を倒せば大金が手に入るし、名声も手に入る。探求心をくすぐる依頼や派手な討伐は、冒険者にとって魅力的なものだ。だが、それが命を危険に晒すものであれば話は別だ。新人冒険者がドラゴンに挑んだところで、無残にその屍を晒すだけになるように、手に負えない依頼を受けてしまえば、依頼者にも迷惑がかかるし、ギルドの信用だって落ちてしまう。何より、依頼を受けた本人の命がなくなることだってある。


 そうならないように、受付嬢は慎重な判断を求められる。冒険者の経験や技術、装備の充実度、パーティーの編成を見極め、依頼を受けさせるかどうかを冷静に決定しなければならない。それが受付嬢の責務だ。


 正直言って、ネーナにはこの業務はまだ早いと思う。


 受付嬢の判断ひとつで、目の前の人間が命を落とすかもしれない。そんな重圧に、彼女はまだ耐えられないのではないか……そう思っている。


 今までは、私の隣で仕事を覚えてもらいながら、補助をしたり、雑務をこなしてもらっていた。


 今は、その私が座っていた席に、ネーナが座っている。


 心なしか、その表情が少し曇って見えるのは気のせいだろうか。


 受付には新人冒険者の三人組が来ていた。横から依頼書の内容を盗み見ると、どうやら街から少し離れた村に出没するゴブリン退治の依頼書のようだ。


 ネーナは必死に依頼の内容と状況を説明している。まあ、依頼書を読むだけなら問題はない。問題は、この依頼が彼らの実力に見合っているかどうかだ。


 規模も発見数もそこまで多くないようなので、たぶんこの新人三人組でもなんとかなるだろう。パーティーの構成も戦士、魔法使い、神官とバランスが取れている。そう悪い組み合わせではない。

 ネーナもそう判断したのか、微笑みながら対応できている。受付嬢は笑顔が大事。最初に教えたことを、忘れずにいてくれたようだ。


 三人組がカウンターを離れる。どうやら説明も終わったようだ。これでひと安心。あとは、彼らが無事に帰ってくることを祈るだけ……と思ったが、私は見逃さなかった。


 ネーナの手元に、依頼者が描いたゴブリンの巣穴までの地図が残されていることを。


 まったく、ネーナは肝心なところが抜けている。早く追いかけて渡しちゃいなさい……と思っても、声が出ない。


 ……そうだ、私は死んでいるのだった。


 三人組が出口へと向かう。


 まずい、早く渡さないと!


 私は何かできることはないかと、慌てて地図を掴もうとする。


 すると、指先が地図を掴めた。


 思わず目を見開いた。


 傍から見れば、空中をふわふわと地図が浮いているように見えるだろう。幽霊の力なのか、それともただの偶然なのか。そんなことを考えている暇はなかった。私はその地図をネーナの目の前へと持っていく。


「え? なに? ……風? ってこれ地図! あ、あのーーーーー! ちょっと待ってください、みなさーーーーーーん!」


 ネーナは目の前で宙を舞う地図を見て驚きながら、すぐに私の手……いや、浮いていた地図をむしり取ると、カウンターを飛び越え、大慌てで三人組の方へと走っていった。


 その姿を見て、私は心の中でため息をついた。カウンターを足蹴にするのはよくないと思う。けれども、何とか間に合ったようだ。


 もう、しょうがないなネーナは……。


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