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第10話 花京院タウン

 花京院家の敷地内にはいくつものゲストハウスがあった。

 もちろん美百合と家族が住まう本館にもゲストルームはあるが、気を遣わない戸建ての別館で寛ぎたいゲストも多いだろうと考えての事だった。

 大きさも、おひとり様用からファミリー向けまで様々で、全ての館に花の名前が付けられている。


 幹の住まいとなった「紫陽花館」は、中でも一番小ぢんまりとした洋館だった。

 小さなアパート暮らしだった幹に、大きな館を与えても落ち着かないだろうという美百合の心遣いだった。


 インテリアは紫陽花を思わせる優しい青や紫のグラデーションで設えられ、質の良いアンティーク家具と絶妙なバランスでマッチしていた。

 LDKと寝室、小さな書斎と納戸。平屋だが天井が高く、小ぢんまり感を与えない。--というか、そもそも1Kの古いアパートとは「小ぢんまり」の規模が違う。


 ミニマムな暮らしをしていた幹の荷物など、この館のインテリアのどこかに存在感なく埋もれてしまったようだった。

 それでも、洗面所の歯ブラシ立てに自分の歯ブラシを見つけて、あやかしに化かされてる訳ではないのだと我に返る。


 家賃は不要だと言う美百合に対し、幹は払うと言い張り、押し問答の末、住んでいたアパートと同価格で契約が成立した。


 あの安アパートと同価格だよ?

 世話をする執事付きとか言うし。

 どうなってんの、お嬢の感覚……


 もちろん執事は断った。

 身の回りの事くらい自分でできる。

 気ままなひとり暮らしはなんとか死守したい。


 そんな事をぐるぐる考えながらも、身体の方は快適さを受け入れたかのように、嘘みたいにぐっすり眠ってしまった。

 翌朝、あまりに気持ち良く目覚めて、思わず幹は苦笑した。




 あのケタ違いのお嬢とは、バディという関係もあり、今後も絡んで行く事になるのだから色々覚悟はしていた。

 少々の事には驚かない。

 少々の事なら受け入れる。

 それが少々と呼ぶには大分無理があるというだけの話だ。


 正直、昨日だって天地がひっくり返るかと思うくらい面食らった。しかし結局、幹はたった一夜で実感するほど快適な住まいと出会ってしまった。


 家賃、払うと押し切って正解だった。

 払わなければ「ゲスト」だが、安くとも払いさえすれば「賃貸だけど我が家」と思って暮らせる。

 ゲストという名の居候では、きっといつまで居ても落ち着かないだろう。


 リビングの掃き出し窓からテラスへ出る。

 テラスには籐の吊り下げ椅子が揺れていた。幹はそこに腰掛けて、キッチンから持って来たリンゴを齧る。


 森の中かと思うような静かで澄んだ朝の空気が気持ち良く、何度も深い息をついた。

「悪くない……」

 呟いた自分の声は、想像以上に満足気だった。




「ごきげんよう。昨夜はよく眠れて?」

 門を開けて、美百合が紫陽花館の庭に入って来た。トレーニングウェア姿だ。


「おはよう……うん、ぐっすりね」

 返事をしながら立ち上がる。

「走ってんの?」


 美百合は頷いて

「御一緒にいかが?」

 と小首を傾げた。


 今日は土曜日。学校は休みだ。


「そうだね。待ってて」

 自分の住まいが広大な敷地のどの辺りに位置しているのか、幹は全く把握出来ていない。トレーニングがてら土地勘を養えれば効率が良いだろう。


 幹もトレーニングウェアに着替えて外へ出る。

 二人は花京院家の正門へ向かって走り出した。


 公園のように整備された庭園と通路。点在する美しい建物。ゴルフ場のカートみたいな乗り物が時折走っている。


「使用人や庭師が敷地内の移動に使うの。もちろんあなたも自由に使って頂戴。他に自転車や電動キックボードも置いてあります」

 美百合が説明する。


 そういえば紫陽花館のガレージにも置いてあった……と、幹は思い出す。

 そういった移動手段を取らなければならない程、ここの敷地が広いという事だ。

 ぐるりと一周するだけでもかなりのトレーニングになりそうだ。




 正門が見えてきた。

 門の左右には警備員の詰所と、届いた郵便物を一時保管する預かり所がある。

 美麗な細工の大門に見合うクラシックな洋館が、シンメトリーに配置されていた。


「届いた郵便物は全てここで受け取り、仕分けされます。幹の物もね」

 仕分け後、スタッフが紫陽花館のポストに届けてくれるとの事だ。


「まるで小さな町に住んでるみたいだね」

 こちらに向かって頭を下げるスタッフに会釈を返しながら、幹が言う。

 ここは町の入口で、警察署と郵便局の役割をする建物と解釈した。


 美百合は頷いて

「少し行くと、私設のコンビニとカフェもあってよ」

 ちょっと自慢気に笑って言った。


 信じ難い話だったが、見た目コンビニとは印象の異なる小洒落た洋館が、24時間営業の店として稼働していた。

 更に走ると、ガラス張りのモダンなカフェテラスが見えてきた。

 木々に囲まれて心地好さそうな場所だった。


「カフェは21時には閉まってしまうけれど、フードもドリンクも味には自信があってよ」

 美百合がメニューの監修を担当したとかで、胸を張って言う。

 朝は7時開店となっていて、モーニングメニューも人気があるとの事。


 長期滞在のゲストや、多くの使用人たちが、外まで出なくても買い物が出来たり、ちょっとした食事が済ませられるようにと設けた施設であった。


「ほら、あそこはジムです」

 美百合が指差した先にあったのは

「体育館じゃんか……」

 という規模の白亜の建造物だった。


 お嬢様育ちの美百合がファイターとして優秀な理由のひとつが、この恵まれた環境なのだと、幹は納得した。


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