あっ、なんか怪しい……。
最初、小柄なので女性か子供かと思った。老人だった。髪は長いものの真っ白で、頭頂部は薄くなっている。後頭部の、襟足のところで一つにくくっていた。それだけなら、大して怪しいとは思わなかった。
服装が異様だった。なんだろう? 時代劇で見たことがあるぞ。確か陣羽織って言うんじゃなかったっけ? 袴を履いて、足元は脚絆に草鞋ばきだった。まるで戦国武将のコスプレだ。
こんな夜中にコスプレ? こんな老人が? こんな住宅地で? 助けないで放っておいた方がいいかな? 迷っていると、小さなうめき声が聞こえた。
ええい、やっぱり放ってはおけない。
「大丈夫ですか? どこか苦しいんですか?」
意を決して声をかけた。背中に手を置くと、老人は少し体が起こして何か言った。声の感じからして男性のようだ。よく聞こえない。顔のそばに耳を寄せると、やっと聞こえた。
「連れて……帰ってくれ……」
どうやら家に帰りたいらしい。そりゃそうだろう。コスプレ姿のままこんなところで野垂れ死んでは、死んでも死にきれない。
恐る恐る老人の脇に手を添える。「立てますか?」と聞くと声を出さずにうなずいたので、ゆっくりと立たせた。背が低いので、肩は貸せない。手を添えて、老人が「こっち」「あっち」と言うのに従って歩いた。
あれ、この辺にこんな場所があったんだ。
うちの近所のはずなのに、見知らぬ路地に出た。狭い道路の両側から木々が迫り出していて、鬱蒼としている。そこを少し奥に進んでさらに左に曲がると、こんもりと茂った森の中に小さな和風の家があった。老人は震える手で懐から鍵を取り出すと、玄関を開ける。月明かりに照らされた屋内は、小料理屋のような白木の小さなカウンターがあった。その前を通り過ぎると、奥に上り
「ご家族の方は?」
シーンとして誰も出てくる気配がない。この辺りかな?と手探りすると、スイッチに手が触れた。押す。昔ながらの青白い蛍光灯が点灯し、木造の古びた、でもきちんと掃除が行き届いた廊下が浮かび上がった。
「独り身なんで……。そっちの部屋まで連れて行ってくれ」
すぐ左手にある部屋を指差すので、手を添えて玄関を上がらせた。その時、初めて気がついたのだが、老人は腰に刀を差していた。普通の刀と脇差だ。レプリカかな? それを抜いて無造作に床に置く。
部屋の明かりをつけると六畳程度の飾り気のない和室だった。薄っぺらい布団が敷いてあった、隣にちゃぶ台があり、水差しと薬が置いてある。老人は這いずるようにしてちゃぶ台まで行くと、薬瓶を手に取った。開けようとするが、手が震えて開けられない。見ていられないので取り上げて蓋を開けてやり、水差しからそこにあったコップに水を注いでやった。
老人は布団の上に座り込んで薬を飲むと、はぁ〜と息をついた。顔色が悪い。血色が悪くなって青ざめたのを通り越して、灰色になっている。暑くもないのに汗びっしょりだ。
「いやあ、すまん。助かりましたわい。心臓が悪くてな……。あの世に行ってしまうところでした。ありがとうございます」
老人はまだ息も絶え絶えという感じながら、座り直して正座をして、丁寧に両手をついて頭を下げた。顔を上げると苦しそうな表情で、手のひらで額の汗を拭う。そして、その手で口髭を撫でつけた。しわくちゃのおじいちゃんだが、きれいに手入れした髭のせいで、とてもダンディーに見える。長い髪を後ろでくくっているせいもあって、侍のようだ。
よかった。変な服装をしているから、おかしな人に関わってしまったと後悔していたけど、きちんとあいさつもしてくれたし、異常者ではないようだ。とはいえ、こんな夜にコスプレして出かけているなんて、普通ではない。無事を見届けたので、早々に退散しよう。
「どういたしまして。もう大丈夫ですか? 大丈夫ですよね? じゃあ、僕はこれで……」
そう言って、立ち上がりかけた、その時だった。
「おじいちゃん、大丈夫?!」
部屋に着物姿の女の子が駆け込んできた。ぽっちゃりとした、垂れ目の少女だった。高校生? いや、大学生くらいかな? 後頭部で一つにくくった長い髪が、ふるんふるんと揺れている。シンプルな紺色の着物に、明るい茶色っぽい帯。和風旅館のアルバイトの制服みたいだった。
少女というには、大人っぽすぎる。大学生くらいだろうか? あれ、でもさっき、独り身だって言ってたよな?
そんなことを考えている間に、彼女は老人の隣に座り込むと、背中をさすりながら大丈夫?を連呼し始めた。眉毛をハの字にして、心の底から心配しているみたいだ。
「ああ、心配させて悪かったな。小次郎、着替えさせてくれ。ああ、それより先に、あれを持ってきてくれ」
老人は孫をあやすように少女の肩をポンポンと叩いた。小次郎と呼ばれた少女は弾かれたように立ち上がって、部屋の外へと駆け出していく。太っているせいか、それともこの家が古いのか、盛大にドタドタという足音が響いた。
小次郎なんて、変わった名前だな。
「すみませんね。孫なんですわ。まあ、座ってください。あなた、飲めますか?」
老人は草履や脚絆を外しながら、ニコッと笑った。混乱してわけがわからないまま立ち尽くしていると、すぐに小次郎が日本酒の一升瓶とグラスを2つ手にして戻ってきた。
「えっ、飲むんですか? さっき倒れてたのに、大丈夫ですか?」
驚いて思わず聞いてしまった。
「ああ、大丈夫です。というか、わしゃあこれがないと生きていけないくらいでしてなあ。よろしければ一杯、お付き合い願えませんか? お礼にしては粗末なものだけど、なに、そんなに悪い酒じゃあないですぞ」
老人が手にしたグラス……バヤリースとブランド名が入っている妙に古めかしいグラスだ……に小次郎が一升瓶から酒を注いでいる。着物の襟からのぞくうなじが真っ白だった。「うなじが色っぽい」と言うけど、こういうのを言うのだろう。小次郎のうなじはセクシーだった。思わず吸い付きたくなるほどに。
いやいや、いかんいかん。何を考えているんだ。でも、僕は小次郎が気になって立ち去り難くなり、思わず座ってしまった。一杯だけだ。人命救助したんだから、それくらいご馳走になってもバチは当たるまい。