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第9話 事件のことを知っているか?

 風呂場で小次郎の肌を乾いたタオルで拭くと、脱衣所から化粧水らしきものを持ってきて、パタパタとはたき始めた。頭もタオルを取って、櫛を入れる。そんなにやる必要があるのか?と思うほど丁寧に、時間をかけて手入れをした。その間、小次郎はなされるがままだ。


 「これ、なんで自分でやらないの?」


 僕は声をひそめて武蔵に聞いた。風呂に入るくらい、一人でできるだろう。赤ちゃんじゃないんだから。


 「なんでって、自分では体の前面は見えるけど、背中側は見えないじゃないか。全身のきめを整えるのが大事なのじゃ」


 武蔵は当たり前のことを聞くなといった呆れた表情で、僕を見た。


 小次郎を風呂に入れ、髪の手入れをし、和室に移動して着物を着させて、小一時間はかかった。最後に足利さんは少し離れて見たり、後ろに回ったりしながら着物の帯や襟の位置を確認すると「よっしゃ、終わり」と言ってポンと小次郎の腰の辺りを叩いた。


 「今、やったことができるようになってほしい」


 僕の方を向くと、少しあごを突き出してドヤ顔をした。


 え……。ただ、風呂に入れるだけじゃダメなのか? 背中を流して拭いてやるだけならとても簡単に思えるのだが。しかし、めちゃくちゃダメ出しされた。言われた通りにやったのに。どこが悪いのかさえ、わからない。


 素直に返事をしかねていると、足利さんは「そういえば、昼を食うのを忘れていたな。何か作ってやろう」と言いながら、作務衣をまとって部屋を出ていった。僕は和室に移動するときに服を着たが、足利さんはまだ褌一丁だった。


 呆気に取られてその背中を見送る。


 「過去に2人、後継ぎを育てようとしたが、万事この調子じゃ。わかるじゃろ? 逃げられた理由が。ただで若い女の裸を見られるにもかかわらず、2人とも逃げ出したわ」


 武蔵が忌々しそうに言う。


 なるほど。確かにめちゃくちゃ職人気質だ。何かマニュアルがあるわけではない。完全に「見て覚えろ」状態だった。これはよほど我慢強くなければ、ついていけないだろう。


 小次郎を見る。


 もともと、色白でふっくらしているのでツヤツヤしているのだが、風呂に入ったばかりなので、さらにツヤツヤしている。特にほっぺたのあたりはピカピカだ。


 おずおずと目を上げた。


 さっきまで、僕はこの子の裸を間近で見ていた。もっぱら背中ばかりだったけど、脱衣所に出てくるところや、着物を着せてもらっている時には、豊かな乳房や想像以上に毛が薄い下腹部も見てしまった。それを思い出すと、また股間がバルクアップしてくる。


 いやあ、素晴らしい。この子のそばにいられるのなら、わけのわからないダメ出しにも耐えられる。いや、耐えてみせる。


 「あ、あの」


 小次郎の裸体を思い出してニヤニヤしていると突然、本人から声をかけられた。心の中を見透かされたのかと思って、ドキッとする。小次郎は恥ずかしそうに少し目を逸らし、それからまた僕を見ると、しどろもどろになりながら言った。


 「さ、佐々木さんのお手入れも、おじいちゃんが言うほど、悪くありません。じ、上手でした」


 意を決して言ったのか、言ってからふうと深いため息をつく。そうなんだろうなと思ってはいたが、やはりかなり恥ずかしがり屋のようだ。その割には僕の前でいきなり素っ裸になっていたけど。


 「そうじゃ。じじいは細かすぎるんじゃ。要求するレベルが高すぎるんじゃ。まあ、それがいいところでもあるんじゃがの」


 武蔵はそう言いながら、ちゃぶ台のそばにあぐらをかいた。そして「それより、話がある。まあ、座れ」と僕のズボンを引っ張った。


 おーい、手伝ってくれと足利さんの声がする。小次郎は明るい声で「はぁい」と言うと、ドスドスと重量感たっぷりの足音を立てて、部屋を出ていった。


 「何、話って」


 部屋に武蔵と2人きりになった。


 「じじいは戦わなくていいと言ったがな、もしかしたら近いうちに戦わないといけなくなるかもしれない」


 武蔵は少しにじり寄ってくると、声をひそめて言った。


 「え?! 誰と?」


 「わしらと同じ、妖刀と、だ」


 「妖刀って、他にもあるの?」


 「ある。何本あるかは知らんが、確実にある。わしは妖刀だった者を知っている……。まあ、それはまた別の話だ」


 武蔵は体を起こして、真っ正面から僕を見た。また立膝をしているので、着物の裾が乱れて内股が丸見えである。武蔵は着物の下にピンク色の短パンを履いていた。いや、オーバーパンツというやつか?


 「地下鉄であった大量殺人事件は知っているよな?」


 「もちろん」


 知っているも何も、樺山署まで取材に行ったし、知り合いの警察幹部の家に夜討ち朝駆けもした。現場の写真も撮りに行った。あの事件のおかげで、ずっと家に帰れない日が続いていたのだ。


 「あれは、きっと妖刀の仕業だ」


 「え、そうなの?!」


 思わず素っ頓狂な声が出る。


 「あんなこと、普通の人間にはできない。気が狂っている者の仕業にしては、あまりにも正確に殺し過ぎている。それに何より感じるんだ、わしらと同じ気配を」


 武蔵は視線を鋭くして、腕を組んだ。


 確かに、普通の事件ではなかった。最初は通り魔的な犯行かと思われていたが、そういう場合、犯人は普段からどこかおかしい人物であることが多く、誰かの口先に名前がのぼるものなのだ。ところが、今回はそうではなかった。だから、警察は犯人は市外から来たのではないかとみて、捜査範囲を広げた。だが、それを嘲笑うかのように2度目の事件が起きていた。


 いずれも犯人がドロンと消えているところが、不思議だった。だが、それが妖怪の仕業というのならば、腑に落ちないこともない。いや、まだ僕は妖刀とか妖怪を完全に信じたわけではないけど。


 「ん……。で、仮に妖刀の仕業だったとして、どうするの? まさか、その妖刀と戦うとか言い出すんじゃないよね」


 嫌な予感がする。


 「いや、そのまさかじゃ」


 武蔵は真顔で答えた。


 「いやいや、ちょっと待って! だって、あいつもう50人近く殺してるんだよ! めちゃくちゃ強いよ、きっと!」


 焦った。まさか、自分が取材した大事件の犯人を、自分で捕まえに行くことになるとは。そんなこと、できるわけないだろう。冷や汗がじわっと額に浮き出すのを感じた。


 「わしだって正直、気は進まん。だけど、こんなに目の前で好き放題やられては、剣豪の名折れである。だって、想像してみろ。あれが神仏に上った時に、武蔵は黙って見ておったらしいぞと言われるんじゃぞ? 腹が立たんか?」


 武蔵は目を細めて、不快感をあらわにした。


 「ちょっと待って。神仏に上るって、どういうこと?」


 また知らない言葉が出てきた。


 「ああ、妖刀は100人斬ると、神仏に生まれ変わるという伝承があるんじゃ」


 武蔵はこれも知らないのかという呆れた顔をした。知るか。全然、知らない。


 「じゃあ、あの刀は神仏になるために、人を殺しまくっているということ?」


 「そうじゃないかと思う。直接、聞いて見ないとわからんがの」


 めちゃくちゃだ。自分が神仏になるために、罪もない人を殺すなんて。そんなこと、許されるはずがないだろう。


 「とにかく」


 武蔵は改めて声をひそめて、僕の方に顔を近づけた。


 「じじいと小次郎は、あまりあれを止める気がない。だから、わしと一緒にあれを止めてくれ。頼む」


 頼むと言いながらも、頭は下げない。というか、これはお願いではなく、僕への指示のようだ。武蔵は大きな目を見開いて、僕の顔をじっとのぞき込んだ。


 危険だ。直感がそう告げていた。だけど、それ以上に僕はそそられた。それって、物語の主役になるということじゃないの? 今まで新聞記者として警察が捜査していることを外から見ていることしかできなかったけど、自分が事件の解決に直接、関わっていけるということなんじゃないの?


 面白そうだ。


 抗えなかった。「どうすればいい?」。気がつけば、僕は身を乗り出して尋ねていた。武蔵はとてもうれしそうにニンマリと笑った。


 「そうこなくっちゃ。では、メシを食ったら早速、出かけよう。じじいと小次郎には内緒だぞ」


 そう言うと、自分の膝頭をパアン!といい音をさせて叩いて、勢いよく立ち上がった。

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