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第13話 会社からの電話

 その後、家の中に引き込まれて、改めて包丁の研ぎ方を教わった。教わったというか、叩き込まれたといった方が正しい。カウンターの裏にある流しで、足利さんが板前時代から使っているという和包丁を研いだ。赤茶色の砥石を水で濡らして、その上を滑らせるようにして研いでいく。


 「違う! 立ててはいかんと何度言ったらわかるんじゃ! こう、こうじゃ!」


 足利さんはイライラしながらも、何度も手本を見せてくれた。リズミカルにシュッシュッと音をさせて研いでいく。言われた通りにやっているつもりなのだが、全くうまくいかない。まず、そんなリズムのいい音が出ない。そしてすぐにダメ出しされて、また足利さんが僕から包丁を取り上げて手本を見せると言うことを繰り返した。


 一体、いつまでやるんだ? そもそも今日、初めて包丁を研いだのに、そんなにうまくできるわけがないだろう。もう日が陰ってきた雰囲気がする。僕は一体、何をやっているんだろう。知り合ったばかりの老人の家に上がって、包丁の研ぎ方を教え込まれている。


 尻ポケットで携帯が鳴っていた。マナーモードにしていたが、ブーブーという振動で着信があったことがわかった。


 「すみません、ちょっと携帯が鳴っているみたいで……」


 「なんじゃ。仕方ないな」


 ようやく解放してもらえた。手を洗って一度、家の外に出る。真っ暗だった。何時間、研いでいたのだろう。肩や腰が痛い。携帯の画面を見ると、午後8時だった。道理で腹も減るはずだ。


 会社からだった。折り返すと、ワンコールもしないうちに南川さんが出た。


 「休みだからって、だらけているんじゃないのか? すぐに出ろよ!」


 甲高い、キレ気味の声が聞こえてくる。いきなりこれだ。もしもしとか、休みのところすまんとか、わが社の電話にそんなものはない。


 南川さんは、僕の直属の上司、デスクだ。デスクというのは新聞社特有の肩書きだと思う。いわゆる中間管理職。日々の紙面作りの中核を担う役職である。社内から現場の記者に指示を出し、集まってきた情報をもとに編集会議で編集局長や各部門部長を相手にプレゼンをし、本日のトップニュース、サイド記事などを決めていく。


 新聞社は休刊日を除いてほぼ毎日、紙面を作っている。人員に余力がない地方紙は事件が起きれば休みでも駆り出されるので、電話が鳴ったらすぐに出ろというのが南川さんの言い分である。まあ、そういう仕事なので、仕方がない。因果な商売についてしまったものである。


 ちなみに急用でなくても、休みの日にも会社に電話をする。翌日の仕事の打ち合わせをしなければならないからだ。新聞記者は大概、朝駆けに行く。朝駆けは早朝から出発するので、誰がどこに行くのかを前夜のうちに決めておかないといけない。普通は午後10時頃にこちらから会社に連絡するのだが、今日のように、会社から連絡がくる場合もある。


 「お前、もう何年目よ? 3年目だろ? そろそろ自覚が出てきてもいいんじゃないの? 新聞記者なら24時間365日、電話に出ろ! いつ何時、事件が起きるかわからねえんだからよ!」


 カリカリしているのか、南川さんは説教を始めた。軽いパワハラである。入社当初はこれに驚いて……というか、怖くて縮こまったものだが、慣れてしまった。「はあ」とか「はい」とか生返事をしながら、怒りが収まるのを待つ。


 南川さんはまだ30代半ばながら、若くして将来の編集局長候補と言われている敏腕デスクだ。現場時代には事件取材が得意で、全国紙の記者を相手にスクープを連発した。この時に県警幹部に太いパイプを作り、デスクになった今でも電話取材でニュースを取ってくる。取材相手には朗らかで受けがいいのだが、部下には厳しい鬼上司だ。「俺にできることがお前たちにできないはずがない」が口癖で、すぐに「努力が足りない。結果が出てないのは努力と呼べない」と言ってキレた。


 「こんなに早い時間に明日の指示を出してやろうってんだから、ありがたいと思って電話に出ろ! わかったか!」


 そうなのである。夜討ちが終わり、紙面作りが終わるのは大体、午前1時過ぎ。翌日の記者の配置が決まるのは最悪、この後だ。午後8時という、まだ夜討ちの結果が集まってきていない時間に翌日の配置を言い渡されるなんて、ありがたいことなのだ。南川さんは厳しい鬼上司ではあるが、休日の部下を深夜まで引っ張り回さないという気遣いはできる人だった。


 「はい、すみません」


 僕が素直に謝ると、南川さんの怒りは急速にさめた。その証拠に、電話の向こうの口調が急に静かになった。


 「明日は刑事部長スタートな。終わったら、県警の記者クラブをのぞいてくれ」


 「承知しました」


 僕の言葉が終わるか終わらないかのうちに、電話は切れた。


 地下鉄連続大量殺人事件は、テレビ報道のレベルではすでに下火になっていたが、新聞報道ではまだ各社がしのぎを削っていた。明日も朝駆けかあ。刑事部長宅は樺山市内にある。捜査の中心人物なので、必ず各社、誰かが行く。ただ、責任ある立場の人だから、滅多にニュースになるようなことは言わない。各社、念の為に行っているだけだ。僕みたいな青二才が派遣されるのも、そういう理由なのだ。


 全国紙の記者はタクシーや自家用車で近くまでやってくるのだが、僕は自転車だった。自家用車はない。車が必要な時には社用車を借りて移動しているけど、休みの日に会社まで車を取りに行きたくなかった。


 「すみません。明日も仕事で早いので、もう帰ってもいいでしょうか……」


 流しで別の包丁を研いでいた足利さんに恐る恐る伝えると、「おお、そうか」と思った以上に簡単にOKが出た。


 「次の休みはいつだ? 教えることはまだまだいっぱいあるんだ」


 手を拭きながら、当たり前のような顔をして聞いてくる。一応、4連勤した後が休みになっていたが、事件が動けば休日は簡単に吹き飛んでしまう。そういう僕の事情を説明すると、足利さんは「じゃあ、また連絡をくれよ」と言って、僕の肩をポンと叩いた。


 帰りに武蔵が出てくるかなと思ったが、出てこなかった。足利さんと小次郎が玄関先で見送ってくれた。小次郎と目が合う。垂れ目を細くして、ニコッと笑った。


 ああ、なんて癒される笑顔だろう。またこの子に会いたいな。そう思った。なんだかわけのわからないことが次々に起こった一日だったが、小次郎の笑顔が全てを吹き飛ばしてくれる。きっと次の休みも、ここに来る。そして次回こそ、小次郎といっぱいお話をして、仲良くなるんだ。そう強く心に誓った。

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