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第14話 朝駆け

 翌朝午前7時40分ジャスト。僕は市内南部の住宅地にある、四ノ宮刑事部長の自宅近くにいた。


 この辺りは20年ほど前に開発された住宅地で、路地に沿って一軒家が向かい合って建っている。四ノ宮刑事部長宅は最も奥の一角にある。自宅前にベタ付きすると近所迷惑になるので、路地の入り口で待つことになっていた。


 すでに迎えの車が路地の入り口に来ている。県警幹部は送迎付きなのだ。運転手とはすっかり顔馴染みで、フロントガラス越しに軽く頭を下げると、初老の痩せた運転手も僕に目礼した。自宅から車まで30〜40mほどあり、この短い距離が毎朝の取材時間となっている。


 「おはようございます」


 僕以外に2人の記者が来ていた。夕日新聞と読々新聞だった。夕日は2年目の若手、篠崎という小太りの男の子が来ていたが、読々は県警キャップの杉山さんだ。


 「あれ、杉山さんが来ているなんて、珍しいですね」


 「若手が休みなんだよ。読々だって人手不足なの」


 杉山さんはニコリともせずに、鼻をスンと鳴らした。年齢は30歳手前くらい。色白で黒縁メガネがトレードマークで、インテリな印象を受ける。だけど、実際にはカッカしやすい情熱家で、会社が違っても僕たち若手を引っ張っていってくれる兄貴肌な先輩だった。3人いる読々新聞の警察担当では最年長。リーダー格なので「キャップ」なのだ。


 地方支局勤務を卒業して、そろそろ本社勤めしていい年頃だ。本人もこの事件で手柄を上げて、そうするつもりなのだろう。他社の人間である僕には見せないが、あちこちに出没して熱心に取材していることを、記者仲間や警察関係者から聞いていた。


 「篠崎、ちょっと」


 杉山さんは少し離れたところにいた、夕日の若手を手招きした。篠崎は早くも中年太り真っ盛りといった突き出した腹を揺らして、小走りでこっちへやってくる。


 「あのな、きょう、ちょっと時間もらうからな。ひと言かけたら、離れてくれ」


 顔を寄せると、ささやくように言った。


 ネタを握っているんだ。当てるつもりだ。ゾッとして、全身の毛が逆立った。


 ネタを握るというのは特ダネ、要するにスクープの材料を持っているということだ。スクープを書くには、確証がいる。噂や伝聞では書けない。そこで、よくやる手として、現場レベルの責任者である刑事部長に「こういう話があるのですが、本当ですか?」と聞くのだ。これをネタを当てるという。


 馬鹿正直に「本当だよ」などという返事は返ってこない。ハズレならば「そんなこと書いたら恥をかくぞ」と言われるし、アタリなら「勝手に書いたらどうだ」と言われる。……らしい。僕はネタを当てたことがないので、南川さんから聞いた話なのだけど。


 どうしよう。読々はネタを握っている。早ければきょうの夕刊で書かれる。もしかしたらネット速報の方が早いかもしれない。スクープされることを「抜かれる」といい、新聞記者にとっては負けである。当然、会社からこっぴどく叱られる。南川さんは昨晩、当番だったので今日は違う。だけど、他のデスクから怒られるだろうし、当番ではなくても南川さんから叱られることもある。


 憂鬱だった。罵倒されるのには慣れた。だから、何を言われてもそんなに引きずらないようにはなったけど、罵倒されている時間を過ごすのが苦痛なのだ。


 「お、来たぞ」


 四ノ宮刑事部長が玄関から出てきた。いつも通り、雨が降る予報でもないのに傘を手にして、車に向かってトボトボと歩いてくる。頭がはげ上がった、小柄な男性だ。少し背中を丸めて、54歳という年齢よりもずっと老けて見える。刑事という過酷な労働が、肉体を蝕んでいるに違いない。実に冴えないおっさんで、グレーの高級そうなスーツを着ていなければ、刑事部長とはわからない。ただ、犯人を追い詰める嗅覚が抜群で「犬」というあだ名がついていた。


 「おはようございます」


 並んで歩きながら、杉山さんがあいさつした。四ノ宮さんは顔を上げて腫れぼったい目で杉山さんをジロリと見ると「杉やんが来ているなんて、珍しいじゃないか」と言った。


 「なんかネタがあるんか?」


 「いやあ。どうでしょう」


 「そうだろう。そんなのがあれば、こっちが教えてほしいくらいだ」


 まずい。いつもここではわずかな会話で終わってしまう。僕が何か言わないとと口を開きかけたところで、篠崎が「事件の進捗状況はどうですか」と言った。


 毎朝の定番の質問だ。


 四ノ宮さんは篠崎をチラリと見ると「いつも通り、一生懸命やってますよ」と毎朝、繰り返しているセリフを薄ら笑いを浮かべながら言った。


 「君らも毎朝、ご苦労さんだな」


 「四ノ宮さんこそ」


 ようやく会話に入ることができた。ここで何か話さないと、早起きして来た甲斐がない。


 珍しく四ノ宮さんは足を止めた。いつもは車に乗るまで足を止めないのに。


 「まあ、着々と進んでいるから、嘘ばっかり書かずに静かに見守ってよ」


 えっ。


 心臓が跳ね上がるほど驚いた。なぜなら、四ノ宮さんは、こんなこと言わないからだ。いつも「一生懸命、やっています」で終わりなのに。毎朝、足を運んでいる僕だからこそ気付いた変化だった。


 ドキドキする。動揺しているのを、気づかれようにしないと。他の2人は気付いたかな。篠崎はここによく来ているが、僕ほどこまめに来ていない。杉山さんは別のところに行っていることが多いので、この変化に気づかなかったはずだ。


 四ノ宮さんは再び歩き出し、車のドアを開けた。杉山さんが「それじゃあ」と言って僕らに目配せをするので、少し離れる。杉山さんは車の後部座席に顔を突っ込んで、四ノ宮さんに何か聞いた。離れているので、聞こえない。


 今、もしかしたら目の前でスクープを奪われたかもしれない。そう思うと、お尻がモゾモゾした。2人の会話はほんの数秒だった。ドアが閉まり、車が走り出す。僕たちはその車に向かって、頭を下げた。


 杉山さんがこっちに向かってくる。


 「佐々木、四ノ宮さんが『着々と進んでいる』って言ったの、もしかして今日が初めてじゃないのか?」


 うっ、鋭い。さすが県警キャップ。だけど、これ以上、引き離されるわけにはいかない。


 「いやあ、前から言ってたと思いますよ」


 何食わぬ顔をして、嘘をついた。


   ◇


 本日は喜多さんという、あまり頼りにならない人が当番デスクだ。穏やかなのはいいのだが、文化部出身で事件には詳しくない。あの人に連絡しても、どうにもならない。僕は南川さんに電話すると、今朝の変化を伝えた。南川さんは本人のポリシー通り、当番デスク明けにもかかわらず2コールで電話に出た。


 「わかった。しーさんは嘘はつかない人だから、本当に進展があったんだろう。俺もちょっと探ってみるから、お前も県警に顔を出したら、知っているところを回ってみろ」


 南川さんは四ノ宮さんとは仲がいい。歳は離れているが「しーさん」「なんちゃん」の仲である。叱られるのを覚悟の上で、杉山さんがネタを握っていそうなことも伝えた。


 「ああ、わかった。まあ、抜かれたら仕方がない。撃ち返す準備だけしとけ」


 そこで電話は切れた。


 撃ち返すというのは、スクープされた直後にスクープし返すことである。そんなに都合よく特ダネは準備できない。よくスクープされた後に「撃ち返すネタはあるのか?! さっさと出せ!」と怒鳴られるのだが、そんなにポンポン出せるくらいなら、先にスクープを書いている。


 僕は自転車で県警本部に向かうと、記者クラブに顔を出した。篠崎ら若手記者が数人、交通事故など細かい事件のプレスリリースを処理している。杉山さんはいない。すでにどこかで原稿を書き始めているのか、それとももう少しネタを固めるために取材をしているのか。


 後者であることを祈りつつ、机の上に配布されていたリリースを原稿にする作業を始めた。だが、気になって仕方がない。今にもネットに杉山さんのスクープが流れるのではないか。会社が目にすれば、お叱りと、すぐにそのニュースを追いかけるよう指示する電話がかかってくる。


 ああ、こんなに精神をすり減らす仕事はもうごめんだ。これに比べれば、怪しい老人の下で若い女の子の背中を流している方が、よっぽどましだ。


 気分転換に、何か甘いものを買おうと記者クラブを出た。近くのコンビニへ向かう。その隣に宝くじ売り場があった。そういえば、武蔵が「宝くじを買え」と言っていたなあ。妖刀使いになると運が向いてきて当たると言っていたけど、本当か?


 財布を見ると給料日前とあって、5000円しか入っていない。僕は1枚200円のスクラッチくじを10枚買った。1等は100万円だ。


 まさかねえ。


 宝くじが当たる確率は、雷に打たれる確率よりも低いという。でも、たまにはいいだろう。当たらなければ、生意気な武蔵に文句の一つも言ってやれるとしたものだ。僕はスクラッチくじをジャケットの内ポケットに突っ込んで、記者クラブへと戻った。

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