それから4日後、予定通りに休みが取れたので、足利邸に行った。今回は迷わなかった。お寺の裏に入って、路地を抜けて。見慣れた和風の家屋が見えてくる。玄関前で、また武蔵が待っていた。いつもの赤い着物姿だ。小さな丸椅子の上に、大股開きで座っている。
「あ、来た!」
僕を見つけるとピョンと立ち上がって、頭頂部でまとめた髪を揺らしながら駆けてきた。眉を吊り上げて、怒った顔をしている。
「遅いではないか! いつまで待たせるつもりじゃ! お尻にカビが生えてしまうかと思ったわ!」
拳を振り上げて、僕の胸をポカポカと叩く。小さな体からは想像もつかないほど小力があることを知っているので身構えたが、手加減しているのか、それほど衝撃はなかった。
「さあ、早く妖刀を探しに行こう。今夜行こう。いや、今から行こう!」
そう言って僕の手をグイグイと引っ張る。
「ちょ、ちょっと待って」
行こうも何も、まだ何も基礎知識がないに等しいのに、どうやって探すのか? 探し出したところで、どうやってコミュニケーションを取るのか? 戦うことになったら、どうすればいいのか? 何もわからない。
僕が狼狽えていると、声を聞きつけたのか小次郎が玄関から出てきた。
「あら、佐々木さん。いらっしゃい」
佐々木さんに佐々木さんと呼ばれるなんて、何だか変な気分だ。いつもの紺色の着物姿の小次郎は丸々としたお腹の前で手のひらを重ねると、きれいなお辞儀をした。
「小次郎ちゃん、助けて」
こんなに小さな体なのに、相撲取りに引っ張られているみたいだ。武蔵はその気になれば、僕を担いで出かけてしまうかもしれない。僕が汗をかいて踏ん張っているのを、小次郎は小さな目を見開いて見ていた。
「こりゃ、武蔵!」
やっと足利さんが家から出てきた。こちらも見慣れた作務衣にジーンズ姿だ。
「また勝手に出かけようとしとるんか! 佐々木くんには、まだまだ教えないといけないことが山ほどあるんだぞ」
サンダルをつっかけて、僕たちに近づいてくる。武蔵はやっと僕を引っ張るのをやめた。
「ふん! 教えておるうちに、妖刀はまた事件を起こすぞ。わしらが手をこまねいている間に神仏に上がったら、どうするんじゃ」
「その時はその時じゃろう。それよりも、何もわからない佐々木くんを連れ出して危険にさらす方が、よっぽど感心せんわ」
足利さんは武蔵に顔を寄せて、口をへの字にしてにらみつけた。精一杯怖い顔をしているつもりなのかもしれないが、コミカルなおじいちゃんという感じで怖くない。
「すまんな、佐々木くん。武蔵は文献で知る限り、本来はもっと思慮深くて物静かな人物のはずなのだが、この姿に生まれ変わった時点で、随分と性格が変わってしまったみたいでのう。こんなにせっかちでわがままな娘っ子になってしまって」
足利さんは申し訳なさそうに、頭をポリポリとかいた。
「誰がせっかちでわがままじゃ! わしは元からこんな感じなのじゃ!」
僕と足利さんの間で、武蔵が吠えている。
「とにかく!」
足利さんは武蔵を一喝した。まだ何か言いかけていた武蔵は、気圧されて黙り込む。
「佐々木くんには、まず刀の扱い方を知ってもらわんといかん。差し方、抜き方、納め方。それから斬り方。やることは一杯ある。今日は忙しくなるぞ」
「はい。よろしくお願いします」
僕は頭を下げた。横目でチラリと小次郎を見る。小次郎は少し目を伏せて、黙って立っていた。足利さんが何か言いつけるのを待っているのだろうか? 武将の背後に控えている従者という雰囲気だ。
「そうじゃ、アキラ。宝くじは買ったか?」
武蔵が割って入ってきた。
「ああ、買ったよ。本当なんですね。本当に当たりました」
僕は武蔵に返事をしながら、足利さんの方を向いた。
「なんじゃ、疑っていたのか? 妖刀の力は本物だぞ。で、いくら当たったのじゃ?」
武蔵はピョンピョンと飛び跳ねながらドヤ顔をする。
「100万円!」
実は昨日、銀行で換金してきた。札束を目の前にした時には、手が震えた。思わず周囲を見回して、誰かに見られているのではないかと警戒した。すぐに全額、自分の口座に入金したのは言うまでもない。
どうだ。みんな驚いたろうと思って見回すと、足利さんも武蔵も「えっ」という困惑の表情をしている。
「え? あれ? どうかしました?」
予想外の反応に、こっちが戸惑う。
「いや……。そんな安い宝くじを買ったのか。もっと高額なやつを買いなさい」
足利さんは髭をなでながら言う。
「そうじゃ、ほら、あの3億円当たったりするやつがあるじゃろう? あれじゃ、あれを買え!」
武蔵は僕のシャツを引っ張って言った。
その日は本当にやることがいっぱいだった。まず、着物の着方を習った。着物と言っても剣道の道着みたいな着物で、要するに袴の付け方を習ったわけだ。それから刀の差し方。足利さんの模造刀を貸りて「侍は二本差しがレギュラーだから」と刀と脇差の差し方を教えてもらった。なるほど。時代劇でよく見る二本差しの状態と言うのは、こうなっているんだな。
「ところで足利さん、この家に真剣ってあります?」
気になっていたことを聞いてみた。
「おお、もちろんあるとも」
足利さんは当たり前のことを聞くなという顔をした。
「警察が、市内の日本刀所持者を調べているみたいですよ。そのうち、ここにも警察が来ると思います」
「ああ、地下鉄の件でだろ? やっと凶器が日本刀だとわかったのか」
足利さんはふんと鼻を鳴らした。
「ちなみに小次郎や武蔵は登録してあるんですか?」
「うん。古いものだけど、登録証はあるよ」
意外だった。妖刀なのに、登録されているんだ。
着付けを終えると庭に出て、刀の抜き方と納め方を習った。鞘ごと少し帯から抜き出して、抜く。納める時は刀の先を摘んで、鞘に戻す。
「これがスムーズにできないと、手を切るから」
くどくど説明された。模造刀とはいえ本物に近い重さがあり、刀は約1キロある。意外に重い。抜く時はともかく、納める時に指先を引っ掛けて切ってしまいそうだ。抜いて、納めてを繰り返しているうちに、次第に腕が疲れてきた。
抜く、納めるに慣れたところで、次は振り方。足利さんは「ただ振るだけでも構わないけど、型を教えるから、それで振ってみてくれ」と8つの型を見せてくれた。足利さんが学んだ複数の居合の流派の型を、いいとこどりしたものだという。
なぜ8つかというと、前後左右、左右の斜め前後ろを攻撃するためだ。
足利さんは心臓が悪いせいか、2つ見せるたびにふうふうと苦しそうに息を吐いて休憩した。休んでいる間、僕に型をやらせる。そして、またダメ出し。「そんなに雑に抜いてはいかん。鞘が傷んでしまう」「納める時はしっかりと指をかけないと、自分の手を切ってしまうぞ」「刀ばかりに気を取られて、足捌きが間違っているぞ」。脂汗をぬぐいながら、手取り足取り教えてくれる。だが、こんなに一度に覚えきれない。
武蔵は縁側で鼻くそをほじくりながら、僕が足利さんにしごかれているのを見ていたが、そのうち退屈になったのか、ふあぁと大きなあくびをして、どこかへ行ってしまった。小次郎はそもそも最初から、その辺りにいなかった。洗濯物を干しにきたり、縁側を雑巾掛けしたりしていたので、家事をしていたようだ。
いつになったら昼ごはんになるのか。そもそもここでご馳走になっていいのか、それともどこか近所のコンビニに買いに行った方がいいのか。そんなことを考えているうちに日が傾き始め、日の光が少しオレンジ色を帯びて午後も遅くなってきたことを告げた頃、ようやく足利さんは手を止めた。
「休憩しよう。汗を流してくる」
僕から見れば大して動いているわけでもないのに、汗びっしょりだ。少し動いただけで肩で息をしているし、心臓の具合は本当に良くなさそうだった。時々、小次郎が心配そうに見にきていた。
「小次郎、ちょっと汗を流してくる。戻ってきたら、切るからな」
足利さんはそう言い残して、風呂場の方に消えて行った。小次郎は小さな声で「はい」と返事をすると、僕をチラリと見て、家の奥へと引っ込んでいった。